私たちが今日享受している文化や文脈は、言葉という媒体を通じて、時間をかけて丁寧に紡がれてきました。
世の中には無数の小さな文化が存在し、それらが互いに関わり合いながらゆるやかに流れることで、豊かな多面性と深い文脈が生まれています。
文化や文脈は、一度断ち切られてしまえば容易に崩壊しますが、それを新たに紡ぎ直すことは極めて困難を伴います。私たちは文化相対性の視点に立ち、「文脈を重んじる繊細な姿勢」をもって、言葉の崩壊がもたらす文化や文脈の摩耗に抗いたいと考えています。
このような認識のもと、私たちは言葉の持つ本質的な力を活かしながら、社会に生じているコミュニケーションの断絶を、丁寧に、そして優しく結び直すことを目指しています。
コミュニケーションデザインにおける結節点としてのコンテンツ
デジタル技術の革新により、個人と個人、企業と個人、企業と企業など、あらゆる場面でのコミュニケーション機会は飛躍的に拡大しています。しかし、この接点の増加は、皮肉にもコミュニケーションの質的低下という新たな課題を私たちに突きつけています。
近年、AIの登場による情報革命とも呼ぶべき変化により、誰もが容易にコンテンツを生み出せる時代が到来しました。
しかし、この民主化は必ずしも望ましい結果だけをもたらしているわけではありません。丁寧な設計や深い考察を経ないコンテンツが溢れ、その結果、私たちは逆説的に「伝達困難な時代」へと移行しているように見受けられます。
本質的に、コンテンツはそれ単体では価値を持ち得ません。
それは、精緻にデザインされたものとユーザーとの有機的な関係性の中で初めて真価を発揮するものです。つまり、コンテンツとは「コミュニケーションデザインにおける重要な結節点」として捉えるべきものと考えています。
そして、このような相互作用の中で効果的な成果物を生み出すためには、綿密な設計はもちろん、美意識が不可欠です。この美意識こそが、真に価値あるコミュニケーションを実現する要となると感じています。それは単なる表層的な装飾ではなく、メッセージの本質を的確に伝えるための重要な要素として機能するものだと思うのです。
場当たり的なコンテンツでは何も解決できない
昨今、コンテンツを生成するプロセスやコンテンツそのものが軽視される傾向を、私たちは深い懸念を持って注視しています。
確かに、コンテンツの安価な外注は可能です。
しかし、その多くはクライアントのビジネスへの理解不足、さらにはユーザー視点の欠如や言葉への配慮不足など、多角的な編集プロセスを経ておらず、質的に問題を抱えたコンテンツとして社会に流布しています。
デジタルコミュニケーション戦略において、「価値をより良く伝えること」はビジネス活動の核心を担います。それゆえ、「情報の伝達様式」は最も注力すべき要素の一つといえます。
文脈や価値観を異にする多様なユーザーにブランドの本質を伝え、その課題を解決するためには、コンテンツを通じて意図や思索を精緻に伝達する能力が不可欠なのです。
安易なコンテンツの投下のために言葉や資源を消費する姿勢は、本質的な価値を生み出しません。組織やブランドと向き合う際、表層的な対症療法では根源的な課題は解決し得ません。
コンテンツにおいて真に注力すべきは、「文化を適切に伝えることでブランド価値を向上させる」ことであり、「更新のみ旨とした量産型コンテンツ制作」は本質から乖離していると考えています。
情報の非対称性にのみ着目した営業職の蔓延
なぜ「とりあえず制作された」コンテンツがこれほど氾濫しているのでしょうか。
この問いの背景には、企業が保有する知識の不足、あるいは知識の形骸化という構造的な課題が存在していると考えられます。
デジタル戦略の推進に積極的でなかった企業が、デジタル領域におけるコミュニケーションの本質的な重要性を理解しようとするとき、それは極めて広範な専門性の獲得を要求されることを意味します。
戦略設計、コンテンツ設計、サイト設計、デザイン、広告、マーケティング、ブランディング…などなど、その領域は実に多岐にわたります。
これらの技術、知見、相場感を積極的に獲得し、包括的な戦略へと昇華できれば、それは理想的な姿といえるでしょう。
しかし、この理想論を現実のものとすることは、実務的な観点から極めて困難です。
本来であれば、企業が直面する課題に対して、それを解決に導くのがプロフェッショナルの存在意義のはずです。
コンテンツ制作一つを取り上げても、そこには多層的かつ高度な専門性が要求され、包括的な知見と技術の集積が必要となります。
しかし現実には、一部のコンテンツサービス提供者が、企業の知識不足につけ込み、安価で画一的なコンテンツを大量生産するという本末転倒な状況が散見されます。
このような実態は、デジタルコミュニケーションの質的向上を阻害する重大な要因となっているのです。それは単なる個別の問題ではなく、デジタル時代における企業コミュニケーションの本質的な課題として捉える必要があります。
安価な受発注という病
デジタル戦略への適応に遅れをとってしまうことは、産業の発展を担ってきたような大企業であっても、ある意味で必然的な現象なのかもしれません。
克服可能な課題があることはある種極めて健全な状態であり、本来であれば前向きに取り組むべき成長機会として捉えられるべきものです。
しかし真の問題は、このような企業に対して本質的な解決策を示すことなく、表層的な提案のみを行うプレイヤーの台頭にあります。
クライアントは相場観や商業レベルでの品質基準を十分に理解していない状況にあるため、不適切な判断に陥りやすく、結果として低品質なコンテンツが採用される事態が頻発しているのが現状です。
このような状況は、往々にして安価な受発注の連鎖によって深刻化していきます。
一度このような「品質軽視の病」に陥ってしまったブランドが、健全な状態へ回帰することは極めて困難です。なぜなら、安価な外注に依存する体質が定着してしまうと、価格のみを基準とした発注判断が常態化し、適切な品質への投資が阻害されてしまうためです。
この悪循環から脱却するためには、適正な品質には相応の投資が不可欠であるという認識を持ち、品質を重視する価値観への転換が必要不可欠となるのです。
自社の価値をどのように的確に伝えていくか。商業主義に傾倒した考えが蝕む文化への抵抗としての「問い」
本来、後世に伝えるべき価値ある文化や技術を保有しているのは、多くの場合「デジタル戦略の推進に積極的ではなかった企業」です。これは、一見すると逆説的に映るかもしれません。
しかし、商業主義に傾倒した事業会社の短期的な営業戦略によって、彼らが低品質な情報発信を繰り返す悪循環に陥ってしまった場合、本来伝達可能であった固有の文化や商圏が徐々に損なわれていきます。
企業がこのような病に侵され、本来発信すべき価値ある情報を適切に伝えられない状態に陥ってしまうと、その文化は静かに、しかし確実に衰退の道を辿ることになります。
その結果、企業が本来伝えるべき本質的な情報が届かず、ユーザーが出会うべき価値ある情報との邂逅が阻害される情報の非対称性が生じ、コンテンツはその本来の意義を果たすことができなくなってしまいます。
この課題を解決し、企業が保有するブランドの品質を持続的に維持していくためには、企業自身がデジタルコミュニケーションへの取り組みに対する解像度を向上させることが不可欠となるのです。
それは単なる技術的な適応ではなく、自社の価値をどのように的確に伝えていくかという、より本質的な問いへの向き合いを意味しています。
コンテンツに求められる「理解を醸成する文脈」と「美意識を映し出す文脈」
ブランドを真摯に育む企業ほど、場当たり的な活動を慎重に避け、中長期的な視座でメッセージを構築することに注力する傾向にあるように思います。
これは、短期的なマーケティング施策でブランドを形作ろうとしないという姿勢の表れであり、そのような企業は「美しさ」「本質」「正しさ」を丹念に追求しているような印象です。
コミュニケーションデザインにおいて、質より量を重視する「良質転化」戦略の存在は否定しません。
しかし私たちは、量を追うのではなく、質を追求する立場を取りたいと考えています。
それは、文化の伝播には深く熟考された「質」が不可欠だと考えるからであり、同時に、無機質で深みを欠き、受け手を顧みない言葉が「コンテンツ」という形でブランドに付着している現状に危機感を覚えるためです。
優れたコンテンツには、「理解を醸成する文脈」と「美意識を映し出す文脈」という二つの側面が不可欠です。
この二つの文脈の「止揚」こそが、コンテンツに求められる本質的な態度ではないでしょうか。
そのため私たちは、構成学、言語学、音学、芸術学、哲学、経済学、人文学、心理学、経営学など、多様な学問領域との対話を絶やすことなく、それらのエッセンスをコンテンツの基層に静かに織り込むことを心がけています。この姿勢こそが、真に価値あるコンテンツを生み出す源泉となると思っています。
長期的な文化形成のために「普遍的」であること
現代のコンテンツ、コミュニケーションの表現形態は明確な二極化の様相を呈しています。
一方には、新奇性に富んだ表現手法や印象的な造形によって独自性を競う手法が存在します。これらは多くの場合、華美な装飾性を帯び、希少価値を前面に押し出すことで、ブランドの評価を高め、高価格帯を受容するファン層の形成を意図して採用されています。
他方には、極限までコストを削減する方向性が存在します。
最も安価な手法を採用し、生産プロセスを徹底的に簡略化し、低コストの労働力を活用することで生み出されるコンテンツです。
しかし、私たちの追求するコンテンツ像は、これらのどちらでもありません。
私たちは「普通であること」の創出を大切にしています。普遍的な価値を持つ成果物こそが、長期的な文化形成には不可欠だと考えているためです。
しかし、この「普通であること」が実は最も困難な課題となります。普通であることは、私たちに驚くほど多くのことを要求します。
当たり前のことを当たり前に行い、プロセスを省略することなく、過度な表現も避けながら、その想いや哲学をニーズに即した適切な形で表現していく。まさに「木の長きを求むる者は必ず根本を固くす」です。
一見すると簡素で簡単に思えるコンテンツにこそ、最も高度な技術と深い洞察が求められます。
最適な表現とプロセスを絶えず模索しながら、「ふつうさ」と「簡潔さ」の中に新たな価値観と美意識を創出すること。これが、私たちのコンテンツに対する揺るぎない基本姿勢です。