私自身、東京都が推進する「TiB Students」というプログラムにサポーターとして関わる中で、さまざまな高校生や起業家の挑戦とそのストーリーに触れる機会を得ました。
それまでは「アントレプレナーシップ」という言葉に対して、正直あまり馴染みがなく「起業に関係ありそうなもの」という程度の理解でした。
しかし、彼らの姿や言葉を通じて、アントレプレナーシップはもっと深く、もっと個人的で、もっと普遍的なものだという実感を持つようになりました。
誰かの指示ではなく、自分の意志で動き、問いを立て、まだ見ぬ何かに向かって手を伸ばす。その姿勢は、これからの時代にこそ必要とされる力だと強く感じています。
今回は、そんなアントレプレナーシップというものについて、私なりの視点から考えを深めてみたいと思います。
海外の定義、文科省の定義
アントレプレナーシップという言葉には、国家や文化圏ごとの解釈の「揺らぎ」があります。
欧米諸国ではこの概念は、経済的な成功を超えて「未知に立ち向かう姿勢」や「持続可能な価値の創造」として広く捉えられています。
たとえばアメリカの起業家精神教育(Entrepreneurship Education)は、ハーバードやスタンフォードといった大学で、既存の枠組みに疑問を持ち、自ら問いを立て、行動し、検証し、失敗から学ぶというプロセスに重きを置いているようです。
ここで注目すべきは、「事業化」よりも「価値創出のための反復的な試行錯誤」に重きがあることでしょう。つまり、アントレプレナーシップはスキルではなく、「態度」や「世界への構え」として育まれるべきだということです。
またヨーロッパでは、アントレプレナーシップは社会的起業や公共セクターにも応用されています。「公正さ」や「共創」といった倫理観との結びつきが強い傾向があるように思えます。やはり利益追求よりも、社会をどう変えるかという問いの方が先にあるのです。
一方、日本におけるアントレプレナーシップの概念は、近年ようやく「起業」だけに留まらない広がりを見せはじめました。
たとえば文部科学省は、アントレプレナーシップを「様々な困難や変化に対し、与えられた環境のみならず
自ら枠を超えて行動を起こし、新たな価値を生み出していく精神」と定義し、起業をゴールとしない教育プログラムの整備を進めています。
ただし、日本ではまだ「正解のある教育」の風土が強く残る中で「答えのない問いに挑む態度」を育てる土壌は発展途上です。
つまり、定義が変わってきたとしても、それを支える教育文化の変革はこれからが本番でしょう。
自分自身が「アントレプレナーシップ」をどう捉えているか
アントレプレナーシップとは何か。
この問いに対して、私の中にある答えはとても個人的で、非常に感覚的なものです。
ある瞬間に「何かがおかしい」と感じたり、「もっとこうだったらいいのに」と思ったりするような、その感覚に蓋をせず、自分の手で小さな一歩を踏み出してみること。そしてその連続が、アントレプレナーシップの本質だと感じています。
そのため私は「勇気ある仮説」と「不完全な行動」が、アントレプレナーにとって非常に大切だと思っています。完全な計画や立派なビジネスモデルよりも、たったひとつの「なんで?」という問いと、「やってみようかな」という衝動が、未来を動かす力になると思うのです。
たとえば、ずっと当たり前だと思われていた慣習に、素朴な視点から光を当ててみる。日々の暮らしや仕事のなかに潜む不便さを、丁寧に言語化し、仮説として投げかけてみる。その行為自体が、アントレプレナーシップだと感じています。
しかしそれは必ずしも大きなことではなくても、社会を揺るがす必要があるわけでもありません。むしろ、日々の風景のなかで微細な兆しに目を向けられるかどうか、そこで生まれる「問いに対する応答」が、その人のアントレプレナーシップを育てるのではないかというのが現在の私の考えです。
起業は手段にすぎない。自発性としてのアントレプレナーシップ
アントレプレナー(entrepreneur)とは、一般的に「起業家」や「事業家」を指します。
アントレプレナーシップと聞くと、真っ先に「会社をつくること」や「ビジネスで成功すること」が思い浮かぶかもしれません。しかし私は、アントレプレナーシップの本質はそこではないと思っています。
アントレとは、フランス語で「始める人」を意味する言葉です。つまり、何かをゼロから立ち上げる精神そのもの。それは、法人登記や資金調達という枠に閉じる話ではありません。
たとえば、職場や学校で「この仕組みって本当に必要なんだろうか?」と感じた瞬間から、小さな変化を提案することも立派なアントレプレナーシップです。
誰かに言われたからやるのではなく、「おかしい」「こうしたい」という自分の実感を出発点に動き始めること。たとえそれが表に出ない水面下の動きであっても、自らの問いに応じて世界に関わろうとする意志がある限り、それはアントレプレナー的な行為なはずです。
起業というのは、あくまで数あるアクションのひとつにすぎません。
むしろ、起業という選択が自らの人生を望まぬ方向へ導いてしまうことさえあります。それほどまでに、起業には大きなリスクが伴うのです。だからこそ、「そのリスクをあえて取らない」と判断することも、状況を見極めたうえでの能動的な意思決定であれば、私はそれをアントレプレナーシップの一形態だと考えています。
重要なのは、起業という手段を取らずとも、組織の中から変化を起こす人や、家庭や地域の中で新しい関係性をつくっていく人たちの存在です。彼らもまた、「自分の意志で動く人」として、立派なアントレプレナーです。
たとえスモールアクションであっても、自分から動くこと。その一歩がある限り、私たちはすでにアントレプレナーシップの中にいるのだと思います。
世界を動かすのは、優れた答えではなく優れた問い
アントレプレナーシップの起点にあるのは、行動ではなく「問い」です。
なぜなら、私たちは何かに違和を覚え、納得できない現実に出会ったときにはじめて、それを変えたいという欲求が芽生えるからです。
つまり、問いは行動の母体です。
しかしながら、問いを立てるという行為は実はとても勇気のいることだったりします。
なぜならば、「問う」とは「今ある前提」を疑うことであり、ときには周囲とズレを生むからです。多数派が受け入れている常識に対して「本当にそうなのか?」と問うことは、ときに面倒くさがられたり、煙たがられたりするものです。
けれど、歴史を振り返ってみると、すべての変革は「問い」から始まってきました。
「どうしたら空腹は満たせるのか」「どうしたら狩りはできるのか」「どうしたら火がつくのか」「どうしたら農作物は育つのか」「どうしたら他の文化と交流できるのか」「どうしたら電気はもっと遠くまで届くのか」。
こうした素朴で切実な問いが、世界を動かしてきたのです。
現代のように「答えが先に与えられがちな社会」において、本気で問いを立てる力はますます希少な能力になりつつあります。でも本当は、問いこそがもっとも創造的な力です。問いを立てることによって、まだ見ぬ可能性や見過ごされていた声が立ち上がり、新たな選択肢が生まれます。
アントレプレナーシップとは、解決を先に用意することではなく、「まだ解かれていない問いを見つけ続ける力」と言い換えることもできるかもしれません。なぜなら、答えは常に変化し、問いだけが私たちを前に進ませてくれるからです。
問いを立てられる人間であること。それが、未来を動かす起点になると私は信じています。
挑戦が肯定される社会をどうつくるか。文化と風土の視点から
どれだけ個人が優れた感性や志を持っていても、それを試す場がなければアントレプレナーシップは発芽しません。
アントレプレナーをより強く育てるのは、個人の資質飲みではなく、それを肯定し支える「文化」です。
日本社会は長らく「失敗しないこと」が美徳とされてきました。
空気を読むこと、正解を外さないこと、波風を立てないこと。
そうした空気の中で育ってきた私たちは、知らず知らずのうちに「間違えるくらいならやらないほうがいい」と思うようになってしまいます。
しかし、本当の意味でのアントレプレナーシップは、失敗のなかでしか育たないのです。失敗というのは、まだ言語化されていない価値や方法論に近づこうとした証であり、挑戦したからこそ起こる副産物です。それをただの「ミス」として扱う文化の中では、誰もリスクをとらなくなります。
だからこそ必要なのは、挑戦すること自体を称賛する文化だと思うのです。
うまくいったかどうかではなく「よくやったね」「それ面白いね」と声をかけ合える環境。結果よりも行為に光を当てるコミュニティの存在が、人の行動意欲を静かに、しかし確実に育てていきます。
アントレプレナーシップは、誰か一人の中に宿る才能ではなく、複数の人が共に信じ合い受け入れ合う空気の中でようやく芽吹くものです。
問いを立てた人、やってみようと動いた人、少し先を照らした人、そのすべてを包み込む文化こそが、次の社会をつくっていく土壌になるはずです。
私たち一人ひとりがその文化の担い手となること。つまり、「正しい挑戦を称えるまなざし」を持ち続けることこそが、アントレプレナーシップの本当の継承ではないかと思うのです。
結びに:問いながら、歩き続けること
ここまで偉そうにアントレプレナーシップについて書き連ねてきましたが、正直なところ、私自身がそれを十全に体現できているとは思っていません。むしろ、TiB Studentsの活動を通じて出会う多くの若者たちや起業家の姿に、いつも圧倒されています。
自分の違和感を言葉にし、形にしようとする姿勢。答えのない問いに向き合いながらも、一歩を踏み出していく勇気。そのどれもが、私にとっての学びであり、刺激であり、尊敬の対象です。
おそらく、アントレプレナーシップに「完成形」はないのだと思います。
大切なのは、それを問い続け、自分なりのかたちで関わり続けること。その姿勢こそが、アントレプレナーとしてのあり方なのかもしれません。
私もまた、その流れの中に身を置く一人として、問いながら歩み続けていきたいと思います。