いきなりですが、私は20歳のころから日記をつけています(とはいえ、昔のデータがうまく移行できずに消えてしまったものも多いのですが…)。
何度か1ヶ月くらい空いてしまった時期もありましたが、それ以外はほとんど毎日、ほんの少しでも何かしら書き続けてきました。
振り返ってみると、この習慣のおかげで自分の中にいい変化がたくさん生まれてきたように思います。
最近、友人と「日記つけてる?」という話をする機会があり、あらためて自分にとって日記がどんな意味を持ってきたのか、どんなことを得られたのかを考えてみました。
今回は、そんなふうに10年以上日記を続けてきた私が感じている「日記って、やっぱりいいよね」と思うことや、いくつかの自分流ルールとともに、ざっと書いてみようと思います。
日記を書くときに決めているルール
日記を書くときになんとなく決めているルールを改めて整理してみました。
ルール1:できなかったことを書く
私の友人の中には「いいことしか書かない」と決めている人がいます。
自分にとってよかった事などを振り返るとポジティブな気持ちになれるし、人のよさに目を向ける癖がつくし、何より日々を明るくとらえることができます。そういう日記のあり方はとても素敵だと思っています。
でも私はどちらかというと、その逆の日記を書いています。
その日うまくいかなかったこと、できなかったこと、悔しかったことや反省したことを、なるべく率直に書くようにしています。
いわば、自分へのダメ出しみたいな日記です。
ただし、これは「自分を責める」ための時間ではありません。
失敗や未達をそのままにせず、ちゃんと見つめて、次にどう活かすかを考えるためのものです。そ
「次に同じようなことがあったら、こう考えよう」「こういう場面では、こういう言葉を選んでみよう」。そんなふうに、頭の中を整理しながら、自分を少しずつ前に進めていく感覚があります。
書くことで、自分の中にある課題を明るい場所に引っぱり出して、「じゃあどうしようか」と向き合えるようになるのは大きなメリットだと思っています。
ルール2:学びを書く
必ずその日から得た気づきや学びを書くようにしています。
といっても、ほんの些細なことです。
たとえば「思ったよりも無理してたなー」とか「仕事にはこう向き合わないとダメだなー」とか、そんな小さな気づきを言葉にして残します。
その理由は明確で、人は経験しただけでは変われないからです。
ただ出来事があっただけでは、それは通り過ぎるだけの「現象」でしかありません。
そこに「意味」を見出し、自分の言葉で記録したとき、ようやくそれは「経験」になると思っています。
そしてその経験が、次の選択の精度を少しずつ高めてくれるのです。
「小さくてもいいから日々学びを得て、記す」という姿勢は、自分という存在を小さく更新していくための反射神経を育てる作業のように思えます。
同じようなミスを繰り返してしまうときや、自分のなかにある思い込みや癖に気づけないときなど、かつて書いたことをあとで読み返すと「ああ、このパターン前にもあったな…」と気づけることがあります。
それだけでも、未来の自分を救ってくれることがあります。
学びを書くというのは、ある意味で「未来の自分にメモを残す」ことでもあるのかもしれません。
いまの自分が、まだ知らない自分のためにヒントを渡しておくような、そんな感覚です。
ルール3:気持ちに正直に書く
恥ずかしながら、昔(20代前半ぐらい)はどこかで少しかっこつけて書いてしまうことがありました。
本当の気持ちをそのまま言葉にするのが怖かったんだと思います。自分の弱さや至らなさ、ネガティブな感情をきれいに包んで見せようとしていたんでしょう。
日記という誰にも見られないはずの場所でさえも、自分を演出していたのかもしれません。
でも今は、悲しかったら悲しい、悔しかったら悔しい、嬉しかったら嬉しいと、なるべく気持ちにまっすぐな言葉を選ぶようにしています。考えるよりも先に出てきた感情の一片一片を、できるだけそのままの形でつかまえておきたいのです。
「素直に書く」というのはただ正直でいるというだけではなくて、自分の感情をそのまま存在させてあげるということだとも感じます。
それらを言葉にして「ここにある」と認めることは、自分自身を丁寧に扱うということでもあるような気がするのです。
あまりにも率直すぎて抵抗感のある言葉であっても、日記にすることで少しだけ気持ちが整理されたり、心の奥に詰まっていたものが流れていくような感覚があります。
日記というのは、出来事を記録する場所というよりも、自分という人間を掘り下げるための道具なのだと思います。
必要なのは技術よりも誠実さで、文章力よりも自分と向き合う覚悟のようなものなのかもしれません。
ルール4:読み返す
日記は、書いて終わりではありません。
むしろ「書いたあとにどう向き合うか」に日記の本質があると思っています。
だから私は定期的に日記を読み返すようにしています。
これが案外面白いのです。
読み返すことで見えてくるのは、忘れていた自分です。
ある時期の悩み、苛立ち、傷ついたこと、嬉しさなどが綴られた過去の日記には、今の自分からは少し距離のある、けれど確かに生きていた「そのときの自分」がいて、まるで他人の日記を読んでいるような気持ちになるのです。
でも、その他人のような自分に対して、以前よりも成長していたり、優しくなれたりしている自分に気づく瞬間があります。
「この時よくやってたな」「あれは本当につらかったな」「この日に重大な変化があったんだな」など、当時言語化できなかった感情が、あとから読むことでようやく意味を持つこともあります。
先ほど、日記を書くことは「未来の自分にメモを残す」ことだと記載しました。しかし、読み返すことは過去の自分から学び直すことです。
どんな言葉が繰り返し出てきているか、どんな問いをずっと抱えているのか。読み返すことで、私たちは自分という人間の「思考の癖」や「感じ方の傾向」に、初めて出会うことができるのだと思います。
過去の自分の気持ちを読むと、今抱えている悩みは実は一年前にも、三年前にも、同じように現れていたことに気づいたりします。しかし、そのたびにほんの少しずつ考え方が変わっていたりもします。
人はすぐには変われないけれど、確かに変わっていけるということなのかもしれません。
私にとって日記を読み返すというのは、記憶の再生ではなく、思考の更新です。
書いた言葉を読み直すことで、自分という存在の奥行きを少しずつ深くしていくような、そんな作業。それもまた、日記を書くことの大切な一部だと思っています。
ルール5:誰にも見せない
これはみんなそうなのだろうと勝手に思っていたのですが、案外日記を人に見られても大丈夫だよという方が多いのでびっくりしています。
私は日記は誰にも見せないと決めています。
ただ単にとても恥ずかしいというのも理由の一つなのですが、人の目を意識した途端に言葉は変わってしまうというのも大きな理由の一つです。
日記というのは、ただの記録ではなく、誰にも見せないからこそ書ける「本当のこと」が積もる場所です。
弱さも、矛盾も、嫉妬も、だらしなさも、誰かに見せる言葉にはきっと乗せられなかった感情たちが、そこにはたくさんいるのです。
書くことでやっと現れてくれる「自分の一番素の部分」は、他人の視線のない場所でしか呼び出せません。
書きながら、「こんなこと、誰かに知られたら恥ずかしいな…」と思うことはしょっちゅうあります。しかしその奥にこそ、自分の本音が隠れている気がするんです。
「見せるために書かない」「誰かに読まれることを前提にしない」と決めているからこそ、ここには正直な言葉だけを置いていけるのだと思います。
私にとって、日記は誰かに自分を説明するための場所ではありません。自分にだけ開かれた「無防備でいられる場所」だったりします。
日記を続ける中で感じた変化
割りと長く日記を習慣にしてきてからというもの、少しずつ自分のなかの変化に敏感になったように感じます。
とはいえ何か劇的なことが起きたわけではありません。
毎日少しずつ書き続けるうちにどのような部分が変わってきたのか、振り返ってみました。
何がなんでも書くという、執筆力の成長
日記を続けてきたことでいちばん実感しているのは、書くという行為そのものに対する耐性と筋力のようなものが、少しずつ育っいたことです。
「書くのが得意になった」と言うよりも、「書くことに迷わなくなってきた」と言ったほうが近いかもしれません。
うまく書ける日はほぼありません。しかし書けないからといって止まることもしません。
その日の自分の状態を引き受けながらもとにかく書き続けるという感覚が、自然と身についていたように思えます。
決して誰に見せるわけでもない文章を、ひたすら自分のためだけに綴る。その繰り返しは、言葉を整える練習ではなく「言葉にする」という根本的な感覚を鍛える訓練だったのかもしれません。
書くという行為には、気持ちの整理や記録といった機能もありますが、何よりも「考える力」「感じ取る力」「問いを立てる力」そのものが、書くことで培われていく感覚があります。
たとえ読まれなくても、書いた分だけ、自分に書き手としての地力を蓄えてくれます。それもまた、誰にも見せない日記が持つ強力な効能だと思っています。
何かを見つけようとする、編集力の成長
執筆力の向上ももちろんなのですが、「何かを見つけようとする目」が育っていたことに最近気がつきました。
日記を書くことを前提に一日を過ごすと、日常の風景がただの通過点ではなくなります。
たとえば誰かの何気ない一言。通勤途中で目にした広告。エスカレーターを登っているときにふと思ったこと。そうした一瞬のひっかかりに、自然と注意が向くようになっていました。
日々自分の中に生まれた小さや気づきや、ごく些細な物事を「問い」として言語化することで、経験は「ただの出来事」ではなく、「意味を持った出来事」へと変わっていきます。
この「問いかけの回路」の土台ができていたことは、今の仕事に大きな影響を与えているような気がします。
たとえば、友人との何気ない会話で「あれ?」と感じた違和感や、いつも同じものを注文してしまう自分の癖ってなんだろうという疑問。こうした一つひとつの問いや引っかかりに敏感になる感覚が、編集という仕事にもつながっていると感じています。
結びに:自分を振り返る場所を持つ
忙しい毎日、自分の気持ちや考えを立ち止まって見つめる時間は意識しなければすぐに失われてしまいます。
自分を振り返る場所を持つことは、日々をただ流すのではなく、ちゃんと「生きた」という実感を残すためにも大切なことなのではないかと思います。
私にとっての日記は、誰にも見せる必要のない自分のためだけの場所です。
そこで何を書くか、どう書くかは自由ですが「今日、自分は何を感じたのか」「どんなことに反応したのか」を言葉にしておくことで、自分の輪郭が少しずつはっきりしてきます。
下手だったり雑だったりしますが、そこに並んだ言葉たちは確かに、そのときの自分が感じていたことの痕跡であり、小さな足跡のようなものです。
自分を振り返る場所を持つというのは、自分にとって一番身近な他者として、自分の声をちゃんと聞いてあげるということなのかもしれません。