14歳の頃からでしょうか。本を読むことが日常になりました。
一日で一冊読み切ることもあれば、週に一冊、月に一冊というペースのときもあります。読む量はまちまちでも「読む」という行為そのものが好きだという感覚は、ずっと変わりませんでした。
けれど、編集という仕事に就いてからある種の違和感を抱くようになりました。
毎日たくさんの原稿に目を通し、構成を考え、言葉を整える。情報の扱い方や文章の見立て方には未熟ながらも少しずつ手応えが生まれてきていました。それなのに、なぜかふとした瞬間に胸の奥にモヤモヤが残るのです。
「自分は、ちゃんと“読めて”いるのだろうか」と。
ある時、自分は原稿を「処理」することに慣れ「読む」という行為の本質から少しずつ遠ざかっていたのだと、はっきりと気づきました。
読む速度が落ちたのではありません。本とじっくり向き合う時間がいつの間にか減っていたのです。つまり、読書を通じてしか育たない「読み手としての自分」を育てることを怠っていたのです。
編集という仕事は、原稿を読む以前に本を読むことからはじまるべきなのだとようやく腑に落ちました。
本を読まない編集者に読者としての判断力や構造感覚が育つはずがない。読み手としての深みを持たないままでは、良い編集などできるわけがないと、突きつけられたようでした。
だからこそあらためて問い直してみたいと思いました。
編集者にとって読むとは何か。なぜ、読むことをやめてはならないのか。そして、なぜ「読む人」でありつづける必要があるのか。
今回は「編集者はなぜ読書をするべきなのか」という問いを軸に、編集という営みの根本を見つめ直してみたいと思います。
読書はただ情報を集める手段ではありません。もっと深いところで、編集者のあり方そのものとつながっているはずです。
そんな「読むこと」の意味を考えてみようと思います。
読者としての自分を鍛えるために
編集者とは読み手であると同時に「読まれ方」の設計者でもあります。
では、その設計はどのように行われるべきでしょうか。
誤字脱字を直すことや文章を整えること以上に大切なのは「これは面白いか」「読者に届くか」「特定の人の役に立つか」などを見極める目を持つことだと思っています。
つまり、優れた読者であることこそが優れた編集者の条件なのです。
では「面白い文章」とは何でしょう?当然ながらその定義は人によって異なります。ですが、「自分の感性を通じて判断する力」を育てておかないと、原稿の良し悪しを判断することはできません。
編集者がまず鍛えるべきは、他者にジャッジを委ねない「自立した読者としての感覚」だと思うのです。そのためには常に様々な本から学びを得るべきです。
少し話が逸れますが、私が昔バーでアルバイトをしていた頃に「チーズの盛り付けが下手だ」とよく注意されていました。自分では何が悪いのか分からず、毎回戸惑っていたのを覚えています。
そんなある日、オーナーからこう言われました。
「一流のものを見ていないと、自分が出すものの質の低さにも気づけない。一流になりたければとにかく一流にたくさん触れなさい。」
当時の私は学生だったこともあり、高級店に足を運ぶ余裕などありませんでした。そこで代わりに、本を何冊も読み、盛り付けの写真をノートに模写しながら、徹底的に目を鍛え、参考事例を集めることにしました。そうして集めた参考例をもとに、自分なりに盛り付けを工夫していったのです。
同時に、それまでの自分の盛り付けがなぜ評価されなかったのかを見直しました。写真を撮っては客観的に見返し、どこが悪いのかを一つひとつ書き出しました。
「よい例」だけでなく「悪い例」からも学ぼうと心がけたのです。
やがて、チーズの盛り付けを褒められるようになりました。
一流を知らなければ、あるいは悪い言い方をすれば、三流も知らなければ自分の基準は育ちません。
それが、このチーズの盛り付けを通して得た学びでした。
話を編集の仕事に戻しましょう。
これは、まさに編集にも通じる話だと思っています。
一流の文章に触れていなければ、そして三流の文章にも向き合っていなければ、文章の良し悪しを判断するための基準が育ちません。
しかも文章というものは、読み慣れていない人にはどれもそれなりに見えてしまうものです。
構造の工夫や、呼吸のようなリズム、見えない編集の技術。それらを見抜く目を養うには、読書という地道な積み重ね以外に方法はありません。
良い本には、気づきを促す視点、豊かな表現、言葉の選び方、読みやすさ、構造化の妙など、多くの学ぶべき要素があります。
けれど、良い本ばかりを読む必要はないと思っています。
むしろ、自分には退屈に思える本や、粗雑に感じる本にも向き合ってみることが大切です。
「なぜ読みにくいのか」「何が足りないのか」を考えることは、感性と構造の両面を鍛える訓練になります。
読者としての視点を編集者としての判断軸へと育てていくには、どうしても時間がかかります。
しかし、言葉に向き合う仕事をする編集者だからこそ「読む」自分を鍛えるために、日々読書と向き合うべきだと思うのです。
知のネットワークを編むために
編集者とは、言葉の交通整理役であると同時に、世界と世界をつなぎ直す仕事です。
一見無関係に見える情報同士を接続し、読者にとって新しい意味を立ち上げるために、膨大で雑多なインプットを自らの中に蓄えておくことが欠かせません。
読書はその最も信頼できる手段の一つです。
編集の現場では、しばしば突拍子もない問いや依頼が舞い込んできます。
たとえば、「EVと仏教思想の関係を語れるか?」「地方創生の切り口からロボット教室を企画したい」など、文脈の飛躍に満ちた仕事です(この例は実話です)。
こうした要請に応えるには、引き出しの多さはもちろん、知識と知識を編み直す柔軟性が必要です。そのためには様々な情報をインプットしておかなくてはなりません。
情報のインプットには様々な手段があります。
読書、デスクトップリサーチ、動画、SNS、そして人との対話など、そのすべてが糧となります。
ですが、読書には特有の濃度があります。その著者が生きてきた時間と思索の深さが凝縮されているもの。それが本です。
一冊の本を読むことは、一人の人間の内面と真剣に向き合うことであり、それは一つの世界を自分の中に受け入れるということです。
特に私自身は、人と会うことと読書をすること、この二つを「濃い情報」に出会うための双璧と位置づけています。
読書はただの情報収集ではありません。異なる時代、異なる分野、異なる思想に触れながら、あらゆる視点の地図を自らの中に描く作業です。こうした知の地層が積み重なることで、「編集」は表層的な引用の寄せ集めから、深い思想的編集へと変わっていきます。
また、読書は企画の源泉でもあります。
一冊の本の中に見落とされた論点や時代遅れの視点を見つけたとき、それは新たな切り口の兆しです。書かれていること以上に、「書かれていないこと」を読む力こそ、編集者が持つべき洞察力の核心と言えるかもしれません。
ネットで拾える情報は、たしかに広範ではありますが、その多くは表層的でもあります。それに対して書籍には、まだデジタル化されていない文脈や背景が、静かに潜んでいます。
そうした文脈を嗅ぎ取り、他の知識とつなげていく力こそが、編集者という仕事の醍醐味であり、矜持だと感じています。
だからこそ、領域を限定せず、生きた情報に日々触れ続けることが大切なのだと思うのです。
AI時代だからこそローカルな知をたぐるために
生成AIの登場によって、調べものも、文章執筆も、驚くほど効率化されました。検索せずとも答えが返ってきて、情報のサマリーも整っている。たしかに便利であり、編集現場においても不可欠なツールです。
しかし同時に、私はある種の「知の平板化」が進んでいると感じています。
AIの出力はあくまで既存のデジタル情報をベースにしたものです。つまり、データベースに載っていない情報、語られてこなかった背景、誰かの私的な実感や未整理の記憶といった「ノイズのような知」は、そこからこぼれ落ちていきます。
編集者の役割は、その「こぼれ落ちる知」をすくい上げ、輪郭を与えることにもあります。
たとえば、街の古本屋に眠る無名の随筆、絶版になったローカル出版、あるいは一昔前の学術書。
これらは検索だけではなかなか辿り着けません。そのような本たちのページを繰るうちに、ある土地の空気や時代の肌ざわりが染み出してくることがあります。そうした「読むという行為にしか宿らない知」は、AI時代においてこそ、いっそう価値を帯びてくると思うのです。
この「ローカルな知」とは、地理的なローカルに限りません。
「個人的な文脈」「経験に根ざした判断」「語られなかった声」など、そうした非データ化された知すべてがローカル性を持っています。
編集とは、あらかじめ整えられた情報をただ並べる作業ではありません。むしろ、「未整理の知」と「普遍性というフォーマット」とのあいだを何度も往復しながら、意味のかたちを探っていく仕事です。
そのためには、検索では辿り着けないような情報と出会う必要があります。
だからこそ、「本を読む」という営みが、これからの時代においても決定的に重要だと私は思っています。
AIがもたらすのは、「最適化された知」です。
それに対し、編集者が向き合うのは「解釈の余地を残す知」や「語られなかった知」です。
前者はすでに誰かが整理したものであり、後者はまだ誰も整理していないもの。
読書とは、その後者に手を伸ばす行為であると私は考えています。
結びに:時間をかけなければ辿り着けない思考に出会うために「読む」
編集者という職業を一言で定義することは難しいかもしれません。
言葉を整える人、企画を立てる人、読者との橋渡しをする人。さまざまな顔があります。
しかし、そのどれもに共通して言えることがあるとするならば、編集者とは言葉の意味を「もう一度問い直す人」だということです。
そのために必要なのは技術や情報量だけではありません。言葉がどこから来て、誰に届き、どんなふうにずれていくのか。そうした言葉の運命に対して、深い関心を持ちつづける姿勢です。
そしてその姿勢は、日々の読書によって強く養われます。
読書は、世界と自分を接続し直すための静かな訓練でもあります。自分の感性を耕し、他者の論理に身をゆだね、過去や異国に通じる知の道筋をなぞる。そのなかでしか得られない「読みの蓄積」が、編集という仕事の重力となっていきます。
ページをめくるという行為は、しばしば遅く、不器用で、非効率です。
AIの進化によって、私たちは知識へもっと速く、便利にたどり着けるようになったかもしれません。それでもなお、読書だけが教えてくれることがあります。
それは「時間をかけなければ辿り着けない思考がある」ということです。
読むとは、ただ情報を得ることではありません。読むとは、ゆっくりと世界の奥行きを回復することです。そしてその奥行きをたしかに持っている人こそ、編集者と呼ばれるにふさわしいのではないかと思うのです。
だから私は、読書をやめないでいたいと思います。編集者であることの、ずっと根のほうにある何かを手放さないために。