「浪費される言葉」から改めてコンテンツの意義を探る

2023.11.10.

Think

Text : K.Matsuoka

Photograph : K.Matsuoka

私たちが現在享受している文化や文脈は、言葉によって時間をかけて丁寧に結われてきました。世の中はたくさんの小さな文化が関わり合いながらゆっくりと流れることで多面性や文脈が生まれます。

文化や文脈を断ち切ることは簡単ですが、紡ぐことは極めて難しいものです。私たちは文化相対性を前提に「文脈を重んじた優しい態度」で言葉の崩壊による文化や文脈の摩耗に抗いたいと思っています。

だからこそ私たちは言葉の力を借りて、社会におけるコミュニケーションの断絶面を優しく結び直すことを目指しています。

コミュニケーションデザインにおける力点としてのコンテンツ

デジタル技術の発展により、個人同士、企業と個人、企業と企業など、様々なシーンにおけるコミュニケーション頻度は飛躍的に向上しています。

しかし接点の増加によるコミュニケーション品質低下にも目を向ける必要があります。

ここ数年あらゆる情報が氾濫したことで、誰でもコンテンツをデザインできるような(丁寧に設計しないのであれば)時代へ変化しています。

情報の氾濫と呼応するかのように「美質に配慮しないコンテンツ」も氾濫してしまったことで「伝わらない時代」へシフトしている印象を受けます。

本来コンテンツはそれ自体に価値があるわけではなく、デザインされたものとユーザーとの関係の中で効力を発揮するものであり、「コミュニケーションデザインにおける力点の一つであること」こそがコンテンツの意義であると考えています。

また、相互が関係する中で効力を発揮する成果物を創出するためには美意識が不可欠でもあります。

場当たり的なコンテンツでは何も解決できない

昨今ではコンテンツを生成するプロセスや、コンテンツ自体が軽んじられている傾向にあると私たちは強く感じています。

コンテンツを安価に外注することはもちろん可能です。

ですがその多くはユーザー目線の不足、言葉自体への配慮不足など、多角的な編集作業がなされておらず「質の低いコンテンツ」として世の中に溢れてしまっています。

デジタルにおけるコミュニケーション戦略においては「価値をよりよく伝えること」がビジネス活動の重要なポジションを担うため、「情報の伝え方」は最も軽視すべきでないポイントだと考えています。

文脈や価値観を異にする多様なユーザーにブランドの魅力を伝えるため、もしくはユーザーの課題を解決するためには、コンテンツにより意図や考察を精密に伝達する能力が欠かせません。

「とりあえずコンテンツを投下するためだけに言葉が使用されている」という向き合い方は建設的ではありません。

ある組織やブランドと向き合う時は「とりあえず」の対症療法では根本的な問題は解決できないと考えています。コンテンツにおいて目を向けるべきは「文化を正しく伝えることでブランド価値を向上させる」ことであり、「更新するためだけのコンテンツをただ作る」ことは本質的ではありません。

情報の非対称性にのみ着目した営業職の蔓延

なぜ「とりあえず作っただけ」のコンテンツがこうまで氾濫しているのでしょうか。

その背景には企業が保有する知識が不足している、または知識が形骸化していることも少なからず影響していると考えています。

もしもデジタル戦略の推進に積極的ではなかった企業が正しくデジタル領域におけるコミュニケーションの重要性を理解するとしたら、極めて多岐にわたる専門性を獲得する必要があります。

戦略設計、コンテンツ設計、サイト設計、デザイン、広告、マーケティング、ブランディングなどなど、列挙し始めるとキリがありません。このような技術、知見、相場感などを積極的に獲得し、戦略に落とし込むことができれば理想でしょう。

しかしこれは現実的ではありません。理解していないことをチームで解決するために本来プロフェッショナルは存在しています。

しかし、コンテンツサービスを売りつけるために「企業が理解していないこと」を逆手に取り、安価なコンテンツを納品する事態が非常に多いのではないかと感じています。

安価な受発注という病

これまで産業の成長を担ってきた企業であってもデジタル戦略に遅れをとってしまうことは仕方がありません。それ自体は解決可能な課題なため、本来は前向きに捉えるべき課題です。

問題は、このような企業に対して本質的ではない表層的な提案を行なってしまうプレイヤーの増加にあります。

クライアントは相場観、商業レベルの品質を理解していない状態なため、どうしても「騙されやすい」状態となってしまい、低品質なコンテンツを扱う事態が頻発しているように見受けられます。

このような状態は得てして安価な受発注によって醸成されていきます。

ブランドがこのような「病」にかかってしまうと、ここから健全な状態に戻るのは非常に難しいでしょう。なぜならば、安価な外注に慣れてしまうと、価格のみの発注判断となってしまい、正しい品質へ投資することができなくなることが非常に多いためです。

この病から抜け出すためには、適正な品質には適正な費用が発生することを理解し、品質に目を向ける必要があります。

商業主義に傾倒した考えが蝕む文化

本来後世に伝えるべき文化、技術を保有しているのは前述したような「デジタル戦略の推進に積極的ではなかった企業」であることが多いと考えています。

商業主義に傾倒しすぎる事業会社の営業戦略によって、彼らが低品質な発信を繰り返してしまう病に犯されてしまった場合、本来伝達可能であった文化や商圏が蝕まれてしまいます。

企業が病に犯され本来発信すべき情報を発信することができない健康状態になってしまうと、その文化は静かに衰退していきます。

結果として企業が本来伝えるべき情報が伝わらず、ユーザーが本来出会うべき情報に出会いにくい情報の非対称性が発生し、コンテンツはその意義を全うできません。

これを解消し企業が保有するブランドの品質を維持継続するためには、企業自体が取り組みへの解像度を向上させる必要があります。

コンテンツに求められる止揚

ブランドを大切にしている企業であればあるほど場当たり的な活動は極力選択せず、中長期でメッセージを構築することに貪欲な傾向にあると感じています。

これは短期的なマーケティングでブランド設計をしようとしていないとも言い換えることができます。そのような企業は「美しいこと」「本質的であること」「正しいこと」を丁寧に考えている印象です。

コミュニケーションデザインにおいては質より量を重んじる「良質転化」を狙う戦略が存在することを否定はしません。

しかし私たちは量より質を重んじたいと考えています。

文化の伝播には深く考慮された「質」が不可欠だと考えていることはもちろん、無味乾燥で厚みがなく、相手軸ではない言葉がブランドに対して「コンテンツ」という姿となり張り付いていることに危機感を感じてしまうためです。

良いコンテンツには「理解を醸成する文脈」「美意識を映し出す文脈」の両義性が不可欠です。

この「止揚」こそがコンテンツに求められている態度なのではないでしょうか。

だからこそ私たちは構成学、言語学、音学、芸術学、哲学、経済学、人文学、心理学、経営学など様々な文脈との対話を欠かさず、これらいずれかのエッセンスを常にコンテンツの底流に静かに配置することを意識しています。

コンテンツと美意識

今、私たちの生活を取り巻くコンテンツのあり方は二極化しているように感じられます。

一つは新奇的な表現の用法や目を惹く造形で独自性を競うもの。これは多くの場合華美で、希少性を押し出し、ブランドとしての評価を高め、高価格を歓迎するファン層を作り出していくために主に採用されます。

もう一つは極限まで価格を下げていく方向。もっとも安い手法を使い、生産プロセスを極限までまで簡略化し、労働力の安い場所で生産をすることで生まれるコンテンツです。

私たちがは考えるコンテンツとはそのいずれにも該当しません。

最適な表現とプロセスを模索しながらも「簡潔さ」の中に新しい価値観あるいは美意識を生み出すことこそが、私たちが考えるコンテンツへの基本的な向き合い方です。

コンテンツを通してブランドをより良く表現するためにより丁寧に構築されたコンテンツを編み上げること。そのためにビジネス、アート、デザインのバランスを考え、コンテンツに落とし込むことを私たちは大切にしています。

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