学びには、いくつかの転機があります。
たとえば、新しい本との出会い。心を動かす先生との邂逅。あるいは失敗や挫折から、もう一度学び直そうと決意する瞬間。
そんな節目が、人の考え方や行動を変えることがあります。
けれど私にとって、一番大きな転機は「習慣」というものに向き合ったことでした。
私は、決して意識の高いタイプではありません。というか真逆です。
何かを始めても続きません。ノートを買っては満足し1週間後には開かなくなることなど何度あったことか分かりません。やろうと決めたことを三日で忘れてしまうことも1000回ぐらいありました。
サボることに関してはある種の才能さえあるかもしれません。
そんな自分でも「毎日ほんの少しだけでもやる」「やったことを記録する」というごく小さな習慣を続けてみたところ、不思議なことに少しずつ学びの風景が変わりはじめました。
日々の積み重ねが、思考の深さを変え、行動の精度を変え、自分の輪郭そのものに影響を与えていくような、そんな実感がいつしか日常のなかに根づいていたのです。
この記事では、極度のサボり魔である意識の低い私が「学びを習慣化する」ことでどのように日々を変えていったのか、その実践を少しだけふりかえってみたいと思います。
主に意識している3つのこと
学びを習慣化するために日々取り組んでいることは多々ありますが、なかでも現在の私が特に大切にしている3つの実践について紹介してみたいと思います。
1 毎日本を読む
まずひとつ目は、「毎日本を読むこと」です。
簡単そうに見えますが、典型的なサボり魔である私には簡単ではありません。
本を開こうとしても、気づけば漫画を読んでいたり、毒にも薬にもならないSNSのタイムラインをぼーっと眺めていたり。そんな自分を何度もくり返してきました。
でも、それでは成長できません。
だから、どんなに短くてもいいから「毎日必ず本を読む」と決めました。
読書の目的は「知識を増やす」ことでもありますが、それ以上に大切なのは、「問いをもつため」です。
よい本は、こちらに答えを与えるより先に、小さな違和感や引っかかりを残してくれます。その感覚がやがて、自分のなかで問いとなり、日々の行動や選択の仕方を少しずつ変えていってくれます。
毎日読むというのは、日々の自分に新しいレンズを手渡すことに似ています。
読書の効能は、すぐに表れるものではありません。
けれど確かに、読む日々を積み重ねていくうちに、言葉に対して敏感になっていくのを感じます。
人の話す言葉の裏にある文脈を感じ取れるようになり、世の中の雑音や大きな声に対しても、ほんの少し距離をとって立ち止まることができるようになります。
だから私は、「読む」を毎日の中に組み込んでいます。
朝の5分でも、夜の眠気の合間でも構いません。ただページを開き、誰かの言葉を通して、世界と自分の間に流れる空気をそっと確かめるようにしているのです。
それは、知性を保つためというよりも、人として、編集者として「曇らずにいる」ための習慣かもしれません。
2 週4日、深く学ぶ時間をつくる
繰り返しますが、私は意識がとても低い人間です。
じっくり机に向かって勉強する、そんな習慣とはほぼ無縁の人生を送ってきました。
でも、それでは成長できません。
「情報に触れること」と「学ぶこと」は違います。
SNSで有益そうな記事を流し読みしたり、YouTubeで知的な動画を眺めたり。それらは一見学んでいるように見えて、実際には何も身についていないことが多いものです。
本当の学びは、「立ち止まって、自分の言葉で考え直す時間」の中にあるはずです。
だからこそ「立ち止まるための時間」を、あえて生活の中に差し込んでみました。その時間を「思考の耕作」にあてることで、表層的な理解ではなく、もっと深い根の部分に届くような学び手が届いたような気がしています。
具体的には「週に4日、最低1時間」。この時間を「深く学ぶ時間」として確保するようにしました。
この時間では、以下のようなことを意識的に行っています。
- 新しい技術や概念の習得に集中する
- 本で得た知見を要約し、実生活に置き換えてみる
- 複数の本を比較しながらテーマごとに関連づけて考える
- 疑問に残った部分をノートに書き出し、自分なりに掘り下げてみる
- 一つの問いに対して、自分なりの仮説を立てて検証してみる
知識を「受け取る」だけでなく「再構成する」モードへ切り替えることが、この時間の目的です。
この習慣を取り入れてから、思考の「粘り」が変わりました。
一つの問いに対してすぐに答えを求めることが減り、むしろ「問いを持ち続ける状態」そのものに価値を感じられるようになってきたのです。
深い学びとは「ただわかる」ことではなく、「まだわからない」ことに耐えられる力を育てることなのかもしれません。
3 毎日、新しい人や場に触れる予定を立てる
私は三日坊主で意識が低いことはご理解いただけたかと思います。加えて、行動力もありません。
気も小さく、新しい人との出会いや、知らない場に足を踏み入れるのがどうにも苦手です。
見知らぬ誰かと話すこと。慣れない空間に身を置くこと。どちらも、いつも緊張と不安が先に立ちます。
でも、それでは成長できません。
自分の思考だけで完結する学びは、やがて「安全な理解」にとどまり、世界との接点を失っていってしまいます。
それに抗うために、私は「外に触れる」ということを自分に課すようにしました。
具体的には、毎日ひとつ、「外側」に触れる予定を立てること。新しい人に会う、勉強会やイベントに出てみる。ただこれだけのことです。
どんなにささやかでもいいから、「外部との接点」を生活に差し込むことを自分に義務づけました。
この習慣の目的は「知見を増やす」ことでも、「人脈を広げる」ことでもありません。「自分が井の中の蛙である」という自覚を日々新しく保ちつづけることが目的です。
人は自分が見ているものこそが「世界」だと思ってしまいがちです。
知らない価値観を「変だ」と感じたり、自分と異なる選択肢を「間違い」と片づけてしまったりすることは誰にでもあります。私にも何度もありました。
でも本当は、世界には自分の想像を超えた現実がいくつも、同時に、正しく存在しているものです。
だから私は、毎日一度、意識的にその「多面的な他者性」に触れにいきたいと思っています。
誰かの生き方や声に触れ、刺激を受けることで、自分の視界は少しずつずれていく。立場を変えてものを見ることができるようになる。
そのズレや違和感こそが、自分の凝り固まった理解をほぐし、学びを更新してくれるきっかけになると思うのです。
外と触れるというのは、僕のような人間にとってはいつも快適なわけではありません。
でも、その「わずかなズレ」を外部から与えてもらえることで、今より謙虚になれたり、少しだけ視野が広がったりしています。
世界との距離を、意識的に近づけたり、遠ざけたりできる柔らかさ。その柔軟さこそが深くて広い学びの土台になるのだと、今は思えるようになりました。
学びを続けるためのごく簡単な仕掛け
「学ぶことを習慣化できるかどうか」。
そこが私にとって最大の課題でした。
生粋の三日坊主であり、サボり魔であり、自分を律する力に乏しい私が「読む」「深く考える」「外に出る」という3つの習慣を続けられているのは「毎日記録する」という、たったひとつの簡単なルールを設けたからです。
誰にでもできる、なんの変哲もないごくシンプルな方法です。
記録には気軽に使えるスプレッドシートを選びました。
日々何を読んだか、何を深く学んだか、どんな外の予定を入れたか。それらを簡潔に書き留める欄をつくり、毎日そこに記入しています。
加えて、この記録シートはチーム内でも共有しています。
他人の目があることで私は自分の怠け癖を封じようとしました。私のような人間は逃げ道を塞がないとすぐ言い訳を考えてしまうのです。
一見すると「記入しなければならない」というルールは、義務感や強制力のように思われるかもしれません。
でも私にとってそれは「自分を前に進めるための仕掛け」でした。
むしろ「記入枠があるからやる」という仕組みが、自律の助けになってくれています。意志ややる気に頼らずに行動を促してくれる「設計された枠組みの力」を私は毎日実感しています。
人は意志だけでは動き続けられません。
特に私のように意志の弱い人間にとっては、それが顕著です。どれほど情熱があっても、日々のノイズや雑事に埋もれてしまうのが現実です。
だからこそ、「記録せざるを得ない環境」を自分に用意しておくことが、習慣化には決定的に重要だと、今でははっきり思っています。
「やる気があるから続く」のではなく、「記録する仕組みがあるから、続けられる」。
学びとは、意志ではなく構造によって支えられるもの。
私の習慣は、スプレッドシートという地味な道具によって、今日も細く長く、なんとか続いています。
学習の動機を得られ続けるということ
「学ぶ」という行為は、何らかの目的がなければ、なかなか続けられるものではありません。
少なくとも私にとってはそうです。
ただ知識を増やすために何かを学ぶ。そんな姿勢では私のような意志の弱い人間はすぐに本を閉じてしまいます。
私が学びを続けられているのは「何かが不足しているからこそ学ぶ」という姿勢をとっているからです。
足りないものがある、解決したい課題がある。そう実感できてはじめて、学びのスイッチが入る。これは意志の強さではなく、必要に迫られて動いているだけかもしれません。
でも、学びの習慣を続けているうちに、ひとつ大きな発見がありました。
それは「日々、何らかの課題を得られ続ける」ということそのものが、学びを続けるモチベーションになっていくということでした。
課題があるから学ぶ。学ぶから、また新たな課題が見える。
この循環のなかで、私は自分でも驚くほど、自然に学びを続けてこられました。
日々を漫然と過ごしていたような自分にとって、これはまったく予想していなかった誤算でした。
学びとは何かを「知ること」ではなく、「知らなかったことを突きつけられ続けること」だと思うのです。
世界は、次々と自分に足りないものを提示してきます。その度に、自分の未熟さや視野の狭さを思い知らされます。けれど不思議と、それが苦ではなくなってくるのです。
足りなさに出会えることそのものが、学びの喜びになっていく。
それは、自分の成長よりも、自分の限界を自覚することで世界ともう少しだけ繋がれた気がする、そんな感覚かもしれません。
習慣化の肝は「記憶」ではなく「構造」である
「習慣にしたいけど、続かない」。
そんな言葉を、私自身、何度も何度も口にしてきました。
続かないのは、意志が弱いからではなく、それを支える「構造」がなかったからです。
私にとって、スプレッドシートはその構造そのものでした。
読む、考える、外に出る。そうした行動を毎日記録する場所をつくり、そこに書き込む。
なんのことはない、たったそれだけの仕組みですが、それがあるだけで、自分の変化を毎日見つめ直す視点が手に入ったのです。
習慣とは、記憶に頼るものではなく、環境によって設計されるものです。
「やろう」と思うからやるのではなく、「やるしかない場所」に自分を置くから続く。そして、その仕組みが静かに日常を支え、やがて学びを積み重ねる力へと変わっていきます。
学び続けることに特別な才能はいらない。
意志が弱くても、飽きっぽくても、サボり魔でも、自分を律する力が乏しくても、簡単な仕組みさえあれば人は変わっていけるのかもしれません。
そう実感できるようになった今、私はようやく、学びが「積み上がる感覚」を持てるようになりました。
続きはまた、日々の中で見つけていくことにします。
そんな気づきを胸に、この小さな記録を閉じたいと思います。