落語には、季節を感じさせる演目が数多くあります。今回取り上げる「夏の医者」も、そのタイトルのとおり、夏を題材にした噺のひとつです。
昔話のような奇想天外な展開と、最後に待っている洒落の効いたオチ。さらに、暑い山道や大蛇の腹の中の様子を、声としぐさだけで描き出す噺家の技も、この噺の見どころです。
同じ演目であっても、人物の見せ方や会話の間、笑いを生み出す表現は、演じる噺家によって少しずつ異なります。
今回は「夏の医者」のあらすじを紹介するとともに、三人の名人による高座を聴き比べ、それぞれにどのように感じたのかをお伝えします。
「夏の医者」のあらすじ
「夏の医者」は、病人の往診に向かう医者が、山の中で大蛇にのみ込まれるという、昔話のような展開を楽しむ古典落語のひとつです。
噺は、夏の暑い盛り、田舎の村で一人の百姓が体調を崩すところから始まります。
村には医者がいないため、百姓の息子は、山を二つ越えた隣村まで医者を呼びに行くことに。
事情を聞いた医者は、百姓が「ちしゃ(レタスの仲間を指す昔からの呼び名)」を食べたことから、食あたりではないかと考えます。
医者は「夏のちしゃは腹にさわる」と言い、薬箱を持ち息子と一緒に往診へ向かうことにします。
山の中を進んでいると、突然辺りが真っ暗に。二人は、人間を丸ごとのみ込むほど大きな蛇、うわばみの腹の中に入ってしまったのです。
慌てる息子に対して、医者は比較的冷静です。持っていた薬箱から下剤を取り出し、うわばみの腹の中にまきはじめます。すると薬が効き、うわばみは腹を下します。二人は尻から外へ放り出され、無事に脱出することができました。
ところが、医者は薬箱をうわばみの腹の中に忘れてきたことに気づきます。
そこで、うわばみに「腹の中に薬箱を忘れたから、もう一度わしをのんでくれ」と頼みます。
しかし、下剤をまかれて衰弱しきったうわばみは、医者をのみたがりません。
そして、最後にこう答えます。
「夏の医者は腹にさわる」
これが、この噺のオチです。
最初に医者が言った「夏のちしゃは腹にさわる」という言葉が、最後には「夏の医者は腹にさわる」に変わっており、「ちしゃ」と「医者」の音を掛けた洒落になっているのです。
三人の名人が演じる「夏の医者」を聴き比べてみた
この噺のおもしろさは、田舎の病人を診察するという普通の話から始まったはずが、いつの間にか大蛇(うわばみ)の腹の中を舞台にした冒険へと変わっていくところにあります。
また、それぞれの登場人物や場面を、噺家が声や身体の動きだけで表現するところも見どころです。
「夏の医者」は、多くの噺家さんが演じてきた演目ですが、自分はこれまで生の高座で見たことが一度もありません。
しかし、現代ではさまざまなプラットフォームを通じて、昔の噺家さんから現代の噺家さんまで、幅広い高座を聴いたり見たりすることができます。
今回、「夏の医者」について調べてみると、二代目・桂枝雀、三代目・桂米朝、六代目・三遊亭圓生の名前をよく見かけました。いずれも、この演目の名演を残した噺家として知られているようです。
残念ながら三人ともすでに故人となっているため、その高座を生で見ることはできませんが、残された音源を通して、それぞれの「夏の医者」を楽しむことができます。
実際に三人の噺を聴いてみると、同じ「夏の医者」でありながら、受ける印象は三者三様でした。
にぎやかで、分かりやすく笑える二代目・桂枝雀
まずは、上方落語の爆笑王とも呼ばれた二代目・桂枝雀。
とにかくにぎやかで、噺のおもしろさが最も分かりやすく伝わってくる噺家さんです。
今回調べた範囲では、残念ながら映像は確認できず、音声だけだったのですが、これがまたおもしろい。
暑い山道を歩く様子や、うわばみにのみ込まれる場面、下剤に苦しむうわばみなどなど。現実にはあり得ない出来事を、分かりやすく、そしておもしろく表現しています。
枝雀は、表情や身体を大きく使う高座でも知られており、実際に映像で見ると、かなり躍動感があるようです。
映像で確認できなかったのは残念ですが、音声だけでも十分に楽しめました。実際の姿を見ながら聴けば、さらにおもしろいのでしょうね。
その姿を生でみることができないのは非常に残念です。
昔話のように情景が浮かぶ三代目・桂米朝
次に、三代目・桂米朝。
米朝の特徴は、話の流れと情景が整理されていて、物語を追いやすいところです。
前述した枝雀とは異なり、基本的には落ち着いた語り口なのですが、盛り上がる場面では声に抑揚がでるなど、聴きやすい印象です。
たとえるなら、昔話を聞いているような感覚です。
初めて聴いても物語の流れを追いやすく、言葉から情景が浮かび上がってくる感覚を楽しむことができました。
落語は、同じ演目であっても、噺家によって使う言葉や演じ方が少しずつ変わります。ただ、米朝と枝雀の「夏の医者」は、話の構成がよく似ているんです。
それもそのはずで、枝雀は米朝の弟子にあたります。
噺の基本的な構成は似ていますが、喋りの抑揚や間の取り方、演じ方が変わるだけで、ここまで印象が変わるのかと思うほどでした。
会話からじわじわとおかしさが伝わる六代目・三遊亭圓生
最後に、六代目・三遊亭圓生。
淡々と語っているように聞こえるのですが、不思議と自然に耳へ入ってきます。
登場人物ごとに声や話し方が演じ分けられているため、会話を聴いているだけでも、その場の情景や人物の姿が目に浮かびます。
米朝と同じように、派手な動きや大きな笑いで見せるというよりも、人物同士の会話からじわじわと生まれるおかしさを味わう高座でした。
同じ噺でも、噺家が変われば印象が変わる面白さ
今回、三人の「夏の医者」を聴き比べて感じたのは、誰が優れているかではなく、同じ噺のどこを強調するかが、噺家によって異なるということです。
同じ場面を語っているにもかかわらず、噺家が変わると印象が異なるのは非常におもしろいですよね。
考えてみれば、これは落語に限った話ではなく、普段の会話にもいえることです。
同じ内容を話していても、話す人のテンションや間の取り方、何かにたとえるのか、ユーモアを交えるのかによって、聞き手が受ける印象は大きく変わります。
現代では、テレビや舞台を中心にさまざまな芸人さんが活躍しており、もちろん、そうした笑いにもそれぞれのおもしろさがあります。
一方で、古くから伝わる一つの噺を受け継ぎながら、噺家ごとの解釈や表現を加え、次の世代へとつないでいく。そんな落語の文化も、これからも残っていってほしいものです。