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百人一首の軌跡、三十一文字に込められた想い

1300年以上の時を超えていまだに色褪せることなく輝きを放つ百人一首。

平安時代から鎌倉時代初期にかけての秀歌を集めた和歌集で、選定者は藤原定家。彼は平安時代を代表する歌人のひとりで、「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」などの作者としても知られています。

1235年に「百人秀歌」を選定し、後の改訂を経て現在の「百人一首」が誕生しました。誕生から長い年月が経過した現代においても、新年の遊びや競技かるたとして広く親しまれ、多くの人々に愛され続けています。

では、これほど長い年月を経ても、百人一首という文化が語り継がれ、現代の私たちに深く愛される理由とは何でしょうか。

百人一首に見る平安貴族の世界

平安貴族の政治と文化

百人一首に収録された和歌は、天皇や貴族から僧侶、女流歌人まで幅広い層の歌人によるもので、その多くは平安時代を生きた人々でした。

この時代は飛鳥時代後期から実施された律令制が最盛期を迎えた頃でもあります。

律令制とは、律(刑法)と令(行政法規)を基本法として国家制度を構築し、国家の統治を運営する体制のことです。中国の律令制度を参考に、大化改新以降に日本で導入されました。

当時の政治体制は明確に二分されており、国家の祭祀を担当する神祇官と、政務全般を統轄する太政官が政治の頂点に君臨。

太政官の下には太政大臣、左大臣、右大臣という最高位の役職があり、さらに大納言(後に内大臣、中納言、参議が加わる)による議政官組織が置かれていました。これらを補佐する少納言、左右弁官局、外記局も設置され、整然とした官僚制度が確立していたのです。

百人一首に選ばれた歌人の多くは、こうした高位の官職に就いていた貴族でした。彼らにとって重要な出世戦略が、天皇家との姻戚関係を築くことでした。天皇の皇女や高貴な家柄の娘との結婚は、社会的地位向上の鍵だったのです。そのため「恋愛」は単なる私事ではなく、政治的な「仕事」でもあったというわけです。

女性に自分の思いを伝え、心を動かすための手段が「和歌」でした。歌の巧みさは教養の証であるだけでなく、社会的成功に直結する重要なスキルだったのです。このように、平安時代の優雅な文化と政治の安定の背景には、和歌という文化的営みが深く根付いていました。

「後朝の文」文化により活性化

百人一首の歌には、テーマや内容を踏まえ分類することができます。これを「部立(ぶだて)」と呼び、藤原定家が選定した百人一首には、特に恋の悩みや悲しみを詠んだ歌が多く含まれています。

部立は大きく恋(四十三首)四季(三十二首)雑(二十首)羇旅(四首)離別(一首)の4つに分類。

平安時代には、男女が直接出会って恋に落ちることができない状況が多くあったため、和歌や手紙が気持ちを伝えるための最も効果的な方法となり、恋の歌が特に多く詠まれたのです。

なかでも百人一首に多く登場する和歌は、「後朝の文」と呼ばれる一夜を共にし帰宅したあと、男性が女性に対して送るラブレター。「昨日のあなたは素敵でした」「また会いたい」などの気持ちを歌に乗せて、互いの想いを確かめあったのです。

一度、結ばれると女性は一方的に「待つ」側に。当時は一夫多妻制でもあったので、男性次第では、結ばれたはいいが、まったく会えないことも多かったようです。女性の恨み節が込められた歌が多いのもそういった時代背景が関係しているんだとか。

現代でも恋人と会うためにメールやLINEをすることがありますが、つれない返信が届くと不安になるのと同じように、当時の人々も互いの和歌で互いの心を読み合っていたのですね。

時代を越える多様な展開

百人一首には藤原定家以外が選定した様々な百人一首が存在します。

室町幕府第9代将軍・足利義尚が選定した「新百人一首」や「後撰百人一首」、「武家百人一首」、「源氏百人一首」、「近世文武名誉百首」などがあります。

それだけでなく、百人一首がカルタとなり、広く人々から親しまれるようになると、数多くのパロディーが誕生しました。百人一首の歌の言葉を借用しながら、おどけた笑いに誘い込む川柳などもそのうちのひとつ。

そのほかにも、錦絵でパロディー化したものも多くあり、歌川派を代表する三代絵師による「小倉擬百人一首」や葛飾北斎が描いた「百人一首うばがゑとき」なども。

前者は、百人一首の歌を能や歌舞伎の物語に見立てて描いたもので、後者は北斎による乳母が絵解きをするという趣向で制作されました。このように後世の人々に多大な影響を及ぼすほど、百人一首は長年にわたって愛されてきたことがわかります。

謎が謎を呼ぶ百人一首の選定基準

百人一首には、王朝の栄枯盛衰や天皇への憧れなどの意味が込められていますが、なぜこの百首だったのかについてはいまだに答えは出ていないようです。

時の有力な歌人がとりあげられていなかったり、載っていてもその歌人の一番いいと思われるものでもなかったり、なぜ同時期同じ地域からばかりなど謎が謎を読んでいます。

中には、百人一首は「歌を用いた一種のクロスワードである」といった暗号的な解釈をしている研究や、「シンメトリの美学に基づいている」という解釈、「戦国武将が京を目指した理由は百人一首にある」という説まで、その謎解きは多岐にわたります。

歌の意味を知るだけではない魅力が百人一首には内包されており、そういったことを見越して定家が伏線を張っていたともいわれています。

百人一首に詠まれた多彩な感情と情景

百人一首には恋の悩みや悲しみを詠んだ歌が多く含まれているとお伝えしました。その他にも移ろう季節を詠んだ歌や、恋や季節は関係なく様々な感情を詠った歌なども含まれています。

例えば、天智天皇が詠んだ「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」は、農民の苦労をしのんだ歌といわれています。

当時、農民たちが収穫する際に「仮庵(かりほ)」と呼ばれる仮小屋を建て、そこで作物が獣に荒らされないように寝泊まりをしていました。

かりほの屋根は、粗い苫(とま)で葺いただけの粗い作りの小屋だったようです。

そのため雨が降れば着物がびしょびしょになることを、「わが衣手は 露にぬれつつ」と表現しています。

「露にぬれつつ」という結びには、単なる物理的な状態だけでなく、心理的な「涙」を連想することができます。農民の苦労を目の当たりにして涙する、あるいは民の苦労を思いやる優しさが表現されているとも解釈できます。

一説によれば農民の苦労を思って天智天皇が涙を流したことで、衣が露で濡れたという説もあるようです。

未だ見ぬ相手に抱いた淡くも熱烈な恋心

みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

これは、紫式部の曽祖父にあたる中納言兼輔が詠んだ歌です。

当時、都で噂になっていた若狭守の姫への恋心を綴った歌といわれており、顔も知らない相手だったようです。

「みかの原」は枕歌で、甕(みか)を埋めたことから水が湧き出たといわれています。

その後に続く「わきて」は“湧き”と“分き”の掛詞になっており、水が湧き、大地を分けるように流れている様子を表しているとともに「いづみ(泉)」の縁語にもなっているのです。

また、「泉川」と「いつ見き」という同音を繰り返すことでリズムを生み出し、意味を強調する修辞法が用いられている部分も見逃せません。

会ったこともない異性に対し恋心を抱くことは、平安時代に限ったことではありません。現代でもインターネットやSNSなどの普及により、顔も知らない人と会話をし、恋に落ちるなんてことは珍しくないでしょう。

中納言兼輔は確かな技術を駆使し、まだ見ぬ相手への恋心を見事に表現しています。

愛する相手に会える見込みのない長く孤独な夜

夜もすがら もの思ふころは 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり

この歌は、一向に現れない恋人に一晩中想いを馳せ、眠れずに朝を迎えた心情を表した歌です。

当時は男性が尋ねる側で女性が待つ側というのが常識でした。いつ来るかもわからない状態で、結局今夜も会えなかった女性の切ない気持ちが表現されています。

しかし、この歌を読んだのは俊恵法師で、男性なのです。

つまり女性の立場になってこの歌を詠んだということになります。まるで自分自身の体験を言葉にしたかのような、リアリティのある表現方法が美しいですね。

権力に引き裂かれた叶わぬ恋

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

これは左京大夫道雅の歌です。

今となっては、もうあなたのことを諦めようと思っていますが、せめてそのことを直接伝えたいという内容。

作者の左京大夫道雅は、三条院の皇女で伊勢神宮の斎宮だった当子内親王と密かに愛を育んでいました。当子は任を解かれ、恋愛について自由の身でしたが、2人の密通を知った三条院は激怒。

2人の仲を割くために、当子に見張りをつけ道雅を遠ざけたのです。

こうした経緯で当子との恋愛を禁じられた道雅が、悲しみに暮れながら詠んだのが、この歌といわれています。

「今はただ思ひ絶えなむ(今はもう想いを諦めよう)」と道雅はすでに当子との別れを受け入れていたが、ただひとつ残っていたのが「人づて(仲介者を通じて)ならでは言ふよしもがな(直接言うことができればよいのに)」という、直接伝えたいという想いでした。

結果的に道雅は左遷され、当子は出家の後、22歳の若さでこの世を去っています。当時の身分社会における恋愛の厳しさが表現された歌です。

身分の違いによって恋愛が禁じられるという時代だったとはいえ、別れの言葉を直接言うことも許されないのは辛いですね。

一度は愛した男性への痛烈な皮肉

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

この歌は右近が詠んだもので、愛の誓いを破った男性への感情が込められた作品です。

一生涯自分だけを愛すると誓ったにも関わらず、心変わりした男性に対し、「偽りの誓いをした報いで天罰を受け、命を落とすことになるでしょう。そんなあなたが惜しまれます」と返したのです。

相手に対し強烈に皮肉っているようにもとれますし、相手を案じているとも解釈できます。和歌という限られた字数の中で、複層的な感情を表現する卓越したテクニックが光ります。

平安時代の女性は儚いイメージで語られることが多いですが、この歌からは芯を持った女性の強さが感じられます。

川に流れる紅葉を錦に見立てた鮮やかな歌

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは

この歌を詠んだのは、美男子として描かれることが多い在原業平朝臣。

舞台となった龍田川が流れるのは奈良県で、紅葉の名所として古くから知られていました。

「ちはやぶる」は「荒々しい」という意味の枕詞で、「神代」にかかっています。「から紅」は、唐国から伝わった鮮やかな赤色を指します。

「水くくる」は水が包まれる、取り囲まれるという意味で、龍田川の水面が紅葉で覆われている様子を表現しています。

作者の業平は、この龍田川の景色を実際には見ていないという説もあるようです。実は、屏風絵の主題に合わせて詠まれる屏風歌といわれています。

あらぬ噂を一瞬で黙らせた痛快な切り返し

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

作者は小式部内侍。

彼女は平安中期を代表する女流歌人で、幼少期から頭角を現していました。それもそのはず、彼女の母は有名歌人「和泉式部」なのです。

しかし、その才能ゆえに、彼女の詠む歌は実は母親が代作しているのではないかという疑念を持たれるようになります。

ある日、小式部内侍が歌合せに招かれた時のこと。両親は天橋立がある丹後国に出かけていました。

この状況を知った藤原定頼は小式部内侍に向かって「母上のいる丹後国に使いを出しましたか?」「返事は間に合いそうですか?」など皮肉を投げかけます。

この挑発に対し、小式部内侍が咄嗟に返したのがこの歌だったそうです。

「大江山」や「いく野」は母がいる天橋立の道中にある地名。

「まだふみも見ず」の「ふみ」は“文”と“踏み”の掛詞になっており、「まだ行ったことがない」という意味と「まだ母からの手紙を見ていない」という2つの意味を表しています。

即興でこのような技巧に富んだ歌を詠まれた藤原定頼は、自らの誤りを悟り、それ以上何も言えずに退散したといわれています。

たった三十一文字で表現する熱く儚い恋文

平安貴族がこよなく愛した和歌。 当時の「恋」や「生」は、和歌抜きにしては語れません。

貴族の女性たちは厳重に守られ、出会うまでは顔すら見ることができませんでした。たとえ結ばれることができたとしても、男性は朝になれば帰らねばならない。そんな「通い婚」の世界で、和歌の優劣や将来性で男性を選んだ女性たちも、一度結ばれれば、その後は男性が訪れるのをただひたすら待つ身となりました。

多くの憂いに縛られながらも、彼らは恋に落ち、和歌を詠み合い、人生を謳歌したのです。たった三十一文字に込められた彼らの「想い」は、長い年月を経てもなお、色褪せることがありません。

百人一首に通底するのは「もののあはれ」という、物事の移ろいやすさに感じる情感です。四季の変化や恋愛の喜びと悲しみを通じて、日本人特有の美意識が表現されています。

また随所に見られる「わび・さび」の美学は、簡素さや静寂の中に見出される美を尊ぶ感性を映し出しています。

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Kazuya Nakagawa