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  • Editorial
  • Kentaro Matsuoka

書き続けて見えた景色。Little Press100記事を越えて

今年の初め、私たちは社内ブログ「Little Press」をしっかり更新していこうというプロジェクトを立ち上げました。メンバー全員で定期的に記事を投稿していく、ささやかな取り組みの始まりでした。

情報発信の支援を生業としている私たち自身が、日々の思考や視点を外に向けて発信していないのは、どこか不自然ではないか。そんな思いが出発点にありました。

編集やデザインの現場で得た気づき、日常のなかでふと立ち止まった瞬間の思考。

それらを丁寧に言葉にして共有することで、互いの視座が少しずつ豊かになるのではないか。そんな静かな願いを込めて、書くことを習慣にしようと決めたのです。

同時に、これらの記事は社内の研鑽の場であると同時に、社外のクライアントや一般の読者の方々に私たちの考え方や取り組みを知っていただく窓口にもなり得るものでした。

あれから数か月。

派手な宣伝も、バズを狙った演出もありません。ただ、毎週一歩ずつ積み重ねていくように、記事を書き続けてきました。

そして先日、その通算投稿数が100本を超えました。

ここまで続けられるかどうか、不安がなかったわけではありません。それでも「やるからには徹底してみよう」と心に決め、小さな炎を絶やさぬよう、静かに書き続けてきた日々でした。

100という数字は決してゴールではなく、あくまでひとつの通過点にすぎません。それでもこの節目に立った今、私たちはいったい何を行い、何を得てきたのか。どんな手応えがあり、どこに課題が残されたのか。そしてこれから、どこへ向かっていこうとしているのか。

この機会に、あらためて振り返ってみたいと思います。

当プロジェクトを進める中でまず行ったこと

このプロジェクトを開始するにあたって幾つかの決まりごとを決めました。

スケジュールを決めること

私たちはまず、「日にちを決めて投稿する」ことを徹底しました。例えば曜日ごとに担当やテーマを割り振り、決まったペースで記事を公開していく仕組みを作ったのです。

決して多すぎず、けれど逃げ道を作らない頻度で。これは単に締切を設定するという話ではありません。

日にちを決めるということは、「書くということを、時間の中に位置づける」という行為でした。忙しさに追われる日々の中で、ただ“余裕があれば書く”のではなく、その日が来るから書く。そうすることで、文章を書くことが私たちの営みの一部となっていきました。

このリズムがあったからこそ、記事は一過性のイベントではなく、日々の体温のようなものになりました。体調の良い日も、冴えない日も、予定どおりに訪れる更新日。それが、私たちの編集生活の背骨のようなものを作ってくれたのかもしれません。

最初のうちは締切に追われて慌ただしく感じることもありましたが、続けるうちに不思議とリズムが生まれ、チーム全体で「日々学び、日々書く」という習慣が次第に根付いていきました。毎日の小さな学びや気づきを文章にするプロセスが、自然と仕事の一部となっていったのです。

日々学ぶこと

「書くために学ぶのか、学ぶために書くのか」と問われれば、たぶんその両方なのでしょう。

けれど、私たちが日々記事を書くようになってからというもの、言葉を綴る行為の背後に、静かに「学ぶ」という習慣が根づいていったのは確かです。

書くには材料が必要です。

しかし、その材料は目に見える情報だけではなく、自分がどのように世界を見ているか、どんな違和感を覚えているか、といった内側の動きも含まれていました。

つまり、学びは外からやってくるものだけではなく、自分のなかに耳を澄ますことでもありました。

机の上での読書、街で目にする何気ない広告、同僚との雑談。それらすべてが、翌週の原稿の「種」になりうる。

そう気づいてから、世界の見え方が少し変わったように思います。日々を「学ぶ視点」で眺めるようになり、ふとした出来事に引っかかりを覚える。その引っかかりを言葉にして手渡すことで、自分の輪郭も少しずつ確かになっていきました。

学びと書くことが表裏一体になるとき、それはただのアウトプットではなく、緩やかな自己変容の営みにもなるのだと、今では思います。

読み物としての質感を大切にすること

書くことに携わる人間として「人の役に立つ情報を書くべきだ」という言葉には一理あると思っています。

けれど、私たちがこの「Little Press」で目指しているのは、ノウハウや答えを届けることではありません。むしろ、明確な正解がないものを、あえて言葉にしてみる。誰かの知識になるのではなく、誰かの思考の余白になるような文章を届けたいと思っています。

だからこそ、SEO的な体裁からはあえて少し距離をとりました。

タイトルにキーワードを盛り込み、結論を先に述べ、読みやすい箇条書きで整理する。そうした技術を否定するつもりはありませんが、それはあくまで「検索される」ための文章です。

一方で、私たちが目指すのは「忘れられにくい」文章です。

すぐに役立たないかもしれないけれど、ふとしたときに思い出してもらえるような余韻を残すもの。読者の中に少しだけ沈殿していくような、静かな言葉です。

私たちは読み手の時間と対話するように記事をつくりたいと思っています。読むことがひとつの体験になるような。

たとえば、朝の静かな時間にコーヒーを飲みながら、あるいは夜ふけの机でゆっくりと読まれるような文章。そんな時間とともにある記事を書いていきたいと思うのです。

だから、「役立つ」よりも「残る」文章を。声高に叫ばず、けれど確かに伝わるものを。これからも、そうした質感を大切にしていきたいと考えています。

静けさを写すこと

記事に添える画像には、言葉にならないものを伝える力があります。

だからこそ、私たちは一貫して、オリジナルの画像だけを使うという編集方針を守ってきました。どれほど便利で高品質なフリー素材があっても、私たちが使うことはありません。そこには少しばかりの頑固さと、ささやかな信念があります。

たとえば、思い出の香水、夜の街、旅の風景、窓辺に落ちる午後の光、手元に積まれた本。

私たちはそうした日常の断片を、自分たちの視点と手で撮るようにしています。

それらは特別な被写体ではありませんが、だからこそ、その場の空気や温度、静けさを写し取ることができると信じています。フリー画像にはない「固有性」と「気配」がそこには宿っていると思うからです。

文章と画像が、同じリズムで呼吸しているような、そんな関係を目指しています。テキストが語りかけ、写真がそっと受け止めるような。あるいは逆に、写真がひとつの問いを投げかけ、言葉がそれに応えるような。

私たちが言葉と同じくらい、いや、ときにはそれ以上に画像にこだわるのは、読み手の時間を大切にしたいからです。

どこかで見たことのある写真ではなく、この場所でしか出会えない風景をそっと差し出したい。それは小さな編集行為ですが、確かに「ここにしかないもの」をつくる一歩だと考えています。

私たちが選ぶのは、効率ではなく質感です。速さではなく余韻です。そうした編集の姿勢を、写真の一枚にもにじませていきたいと願っています。

プロジェクトを進めてよかったこと

プロジェクトを進める中で数々の手応えがありました。

継続力がついた、という実感

「続ける」という言葉は、シンプルなようでいて、実に難しいものです。自らを律する意志の強さや時間の確保、気分の波、突発的な出来事。日々の生活には、継続を妨げる要素がいくらでもあります。私たちもまた、そうした環境のなかで日々記事を書いてきました。

だからこそ、100記事という節目を迎えた今、最も実感したのは「継続力がついた」ということでした。

私たちには特別な才能があったわけでも、書くことが苦にならなかったわけでもありません。ただ、決めたリズムで、淡々と、しかし誠実に続けてきた。それだけです。

継続力というのは何かに勝ったときに得られる勲章のようなものではなく、むしろ日々の小さな敗北や迷いの中で、それでも手を止めなかったという軌跡のようなものだと思います。

毎日が最善ではなかったけれど、最善でなくても続けたという事実が、やがて芯のようなものをつくっていく。そうした日々の堆積が、気づけば自分の中に「続けることができる」という感覚を育てていたのだと思います。

なんとしてもアップするという覚悟の醸成

文章を書くという行為は、どこか悠々とした営みのように思われがちです。インスピレーションを待ち、没頭し、納得いくまで練り上げる。そんな理想的なイメージを抱きがちですが、現実はもう少し地道で、少し泥臭いものであることが多いです。

「なんとしてもアップするんだ」と思うようになったのは、継続のリズムが生活の一部になってからです。気分が乗らない日も、業務が立て込む日もありました。そうした日には、自分のためではなく、誰かとの約束のように記事を仕上げました。決して派手な話ではありませんが、この小さな覚悟が書くことの背景に滲んでいたように思えます。

書くことにおいて「間に合わせる」という姿勢は想像以上に大きな力を持っています。時間をかけて完成度の高い記事を書こうとするのではなく、今ある自分でできる最善の文章を、その日その時間に差し出す。それは、言葉を通して自分と折り合いをつける行為でもありました。

「なんとしてもアップする」という意識は、言葉に責任を持つ態度とも言えます。誰に頼まれたわけでもないのに、きちんと届けようとする。その小さな姿勢が、チームの呼吸にも少しずつ影響を与えていったように感じます。淡々と、静かに、誠実に。そういう編集の気配が徐々に育っていきました。

当たり前になった「学ぶ」という姿勢

記事を書くという行為の裏には必ず「学ぶ」というプロセスがなくてはなりません。何かを知らなければ書けないし、知っていても、どう理解し、どう語るかを試されます。そのため、書くことと学ぶことは、ほとんど同義のように思えます。

私たちはこの数か月、記事を書くために学び、学ぶために書いてきました。けれど、それは「勉強」といった堅苦しいものではありません。むしろ、日々の業務や読書、街角で目にした広告や誰かの何気ない言葉。そういった断片に、「なぜだろう」「面白いな」と立ち止まるクセがついてきたのです。

そうした時間を繰り返していくうちに、学ぶことは特別なものではなくなっていきました。学ぶという姿勢が、生活の基礎体温のようなものになった感覚です。わざわざ構えて何かを得ようとしなくても、ふとした瞬間に引っかかることがあり、その引っかかりを丁寧に言葉にすれば、それがそのまま記事になっていく。

学習の常態化とは、きっとこういうことなのかも知れません。何かを得ようとするのではなく、日々のなかに流れている知見の気配に気づき、それをすくい上げていくような営み。それは派手な成長ではありませんが、確実に自分の内側を耕してくれる時間でした。

育っていく企画を探す目

毎週、あるいは毎月「さて、今週は何を書こうか」と考える時間があります。思いつかないときもあります。予定していたテーマが急に遠く感じられる日もあります。

そんなとき、私たちはあたりを見回します。身の回り、仕事の中、日常の揺らぎのなかに「何か書けることはないか?」と、目を凝らすようになりました。

すると、不思議なもので、見え方が少しずつ変わってきます。

当たり前だった景色が、ある日ふと企画の断片に見えるようになってくる。人の何気ない一言が、文章の入口になる。通勤途中の電車の中で、目にした広告に引っかかりを覚える。日々の観察が、少しずつ編集の目線に近づいていく。そんな感覚が、育っていったように思います。

企画を探す目がつくというのは、世界に対して好奇心のフィルターがかかるということかもしれません。誰かの目ではなく、自分のまなざしで、何が今、書くに値するのかを考える。広く深く探し続けるうちに、「書きたいことが見つからない」のではなく「どこから書いてもよさそうだ」という感覚に変わっていきました。

それはつまり、「何を書くか」を探す目線ではなく、「どんな風に見るか」に軸足が移ったということでもあります。

どんなに小さな違和感も、そのままにしない。日々を雑に通り過ぎない。そんな眼差しが、今の私たちの編集をかたちづくってくれています。

改善しなくてはならない点

多くの気づきをもたらしてくれたプロジェクトではありますが、当然ながら多くの反省点も存在します。

文章力がまだまだ不足しているという痛感

全員で100本の記事を書いた今、文章に対する自信がついたかと問われれば、むしろその逆かもしれません。

書けば書くほど、自分の言葉がどれだけ届かないか、どれだけ薄っぺらく感じられるかという感覚が、日々積み上がっていきました。

言葉は常に誰かに向けられるものですが、その「誰か」の輪郭を曖昧にしたまま書いていることが、少なからずありました。自分の思考に浸りすぎるあまり、文章が内向きに終わってしまう。あるいは逆に、誰かに届けようとするあまり、自分の声を見失う。そうした揺れを何度も経験しました。

また、表現における“引き算”も、まだまだ身につききれていません。言葉を重ねれば安心できる気がしてしまう。けれど、余白を残すこと、読者に委ねること、それもまた文章力のひとつなのだと、徐々に実感しています。

それぞれの記事において手を抜いたわけではありません。しかし「うまく書けた」と思える日は、あまりなかったのかもしれません。それでも、どうすればもっと伝わるか、もっと届くかを問い続けなくてはならない。それが文章を書くという営みの本質なのかもしれません。足りないという感覚そのものが、次に進む原動力になるのだと思います。

企画力の不足

良い文章とは、ただ美しく書かれたものではなく、「良い企画」から生まれるものだと、私たちはこの取り組みを通じて学びました。書きたいことがある、伝えたいことがある。その手前に、「なぜ今これを書くのか」「どう読まれたいのか」という企画の視点がなければ、文章はどこか浮ついたものになってしまうのだと痛感させられます。

けれど、実際のところ、その企画を立てるという営みは、想像以上に難しいものです。

自分の中で盛り上がっているテーマでも、いざ文章にしてみると深みに欠けていたり、読者にとっての必然性がなかったりする。タイトルと内容の齟齬、構成の甘さ、問いの弱さ。企画が甘いと、すべてがぼやけてしまうのです。

この数か月で私たちは、書く以前に「考える」ことの大切さを、身をもって実感しました。企画は、言葉にする前にすでに始まっている。そしてその企画には、問いを掘る力と、読者の風景を想像する力が必要です。どちらも、すぐに身につくものではありません。

今の私たちはまだ、その入口に立ったばかりです。けれど、うまく企画が立たないときの違和感、読まれなかった記事の悔しさ、そうした体験のひとつひとつが、次の一歩のヒントになっています。企画力とは、失敗を繰り返しながら獲得していく態度なのだと思います。

得意なことに閉じず、より広い世界を編集するという姿勢

人は誰しも、得意な領域、書きやすい分野があります。

書き慣れているテーマ、語りやすい話題、安心できるトーン。それらは、筆を進めるうえで心強い拠り所になる反面、知らず知らずのうちに、自分の世界を狭めてしまうこともあると感じます。

私たちの投稿活動を振り返ると、気づかないうちに「得意なこと」に寄りかかっていた場面が何度もありました。自分が理解できる範囲、よく知っている現場、自社の文脈。そうした“編集しやすい”世界の中だけで言葉を並べていたことも少なくありません。

けれど、本来の「編集」とは、世界と自分の距離をとりながら、それでも橋をかけていく作業のはずです。未知の領域に目を向け、わからないことに触れ、自分の語彙では語りきれない世界に言葉で接近していくこと。その試みのなかにこそ、ほんとうの編集の豊かさがあるのだと思います。

今の私たちに必要なのは、世界を「書けること/書けないこと」で切り分けるのではなく、「どうすれば書けるようになるか」を問い直すことです。そして、その問いの出発点にあるのが、「見に行く」「聞きに行く」「触れてみる」という姿勢なのだと感じています。

得意な世界の外側にこそ、書くべきことが眠っていると、最近はそう思うようになりました。

幅広い文化を日々インプットする学習力の不足

書くことを続けていると、自分の中の言葉がどこかで尽きていくような感覚に陥ることがあります。それは単にネタがなくなったということではなく、内側に積まれているものが、あまりにも少ないという事実に直面する瞬間でもあります。

この取り組みのなかで痛いほど実感したのは、日々の勉強、とくに読書の量が、圧倒的に足りていないということです。

本を読むという行為は、単なる知識の取得ではありません。他者の言葉に触れ、異なる視点に出会い、自分の中に沈黙をつくること。読書には、自分の思考をゆっくりと育てる作用があります。けれど、忙しさを理由に、そうした時間がつい後回しになってしまう。気がつけば、画面に流れる短い情報ばかりを拾い、深く沈み込むような読書をしなくなっていたのです。

また、勉強とは本を読むことだけではありません。

展覧会や映画、音楽、哲学や歴史、科学や宗教。自分の専門外の領域に触れ、自分がまだ知らない構造や価値観に出会うような、そうした「文化的な回遊」の時間が、私たちには圧倒的に不足していました。

編集や表現の深さは、日々の勉強量に比例する。そう言っても過言ではありません。どれだけ多くの言葉を並べても、背景にある「読んできたもの」が希薄であれば、文章は芯を持たず、軽くなってしまいます。

今、何を読んでいるか?誰の言葉に触れているか?何に目を見開かされているか?など、このような問いを欠いたまま書き続けることは、きっとどこかで限界がくると思うのです。

読み、学び、深めること。それは書き手としての基礎体力のようなものです。足りないのはセンスではなく、積み重ねなのだと改めて噛み締めます。

外の世界とのつながりが浅いという反省

私たちは日々、言葉を扱い、編集という行為を生業としています。けれど、どれだけ慎重に、誠実に言葉を綴っても、自分たちの内側だけで完結してしまうなら、その言葉はやがて息をしなくなってしまうような気がします。

この数か月、私たちは社内での気づきや思考を言葉にしてきました。しかし、ふと立ち止まったとき、自分たちの視界の狭さに気づかされる瞬間がありました。私たちは本当に、外の世界に開かれていただろうか。知らない誰かに出会い、知らない何かに触れようとしていただろうかと。

記事に深みを与えるのは、自分の経験だけではありません。他者のまなざしや、異なる現場の声、まったく異なる価値観との出会いが、文章に新しい角度や奥行きをもたらしてくれるはずです。けれど私たちは、その「出会い」に対して、まだまだ能動的ではありませんでした。魅力的な活動をしている人は身近にたくさんいます。が、話を聞きに行く勇気を持てずに、距離を取ってしまっていたのです。

外に出ること。話を聞くこと。共に歩くこと。編集とは、言葉をつなぐだけでなく、人と世界を繋ぐ行為でもあるのだと、ようやく実感しはじめています。

これからはもっと積極的に、外の声を聞きにいきたいものです。自分たちのフィールドを越えて、人やものごとの輪郭に触れにいこうと考えています。

これからどう動くか

最後に、100記事を迎え、これからどのような動きをしていくかを考えてみます。

書き続けるということを、これからも

この数か月、私たちはある種の強度をもって記事を書き続けてきました。毎週、あるいは毎日といった頻度でコンテンツを生み出すというのは、思っていた以上に骨の折れる作業であり、同時にチームの呼吸を感じる行為でもありました。

しかし、継続という営みにはつねに問いが伴います。「このリズムを、この先も保ち続けられるのか?」という問いです。

正直に言えば、毎日更新を今後も続けていくかどうかは、組織としてのリソースや、プロジェクト全体の体制に左右される部分も大きくあります。

無理をして続けることで、言葉がすり減ってしまうなら、それは本意ではありません。

けれど、それでも「続けていきたい」という思いは確かに私たちの中に根づいています。更新頻度は変わるかもしれない。かたちは変わるかもしれない。それでも、書くことをやめない。この気持ちは変わることはないでしょう。

日々の営みのなかに言葉を残すことは、これからも私たちの姿勢として保ち続けていきたいと思っています。

継続とは、同じことを繰り返すことではなく、その都度の自分たちのあり方に合わせて「続け方」を更新していくことなのだと、今は思います。

編集性を外部に向けてひらく

これまで私たちは、内側から生まれる言葉を大切にしながら、社内メンバーで記事を紡いできました。それは自分たちの手の届く範囲で、自分たちの時間に沿って、静かに進めていく編集の在り方でした。

多くの記事を積み重ねた今、少しずつ視線が外に向かい始めています。編集という行為が、個人や組織の内面にとどまらず、社会や他者とつながっていく動きであるならば、私たちもまた、その輪郭を少しずつ広げていきたいと感じています。

たとえば、他社の編集者やライター、アーティストとの対話。あるいは、自分たちの視点では見えない世界をもつ人たちと、言葉を交わす場をつくること。そういった接続のひとつひとつが、私たちの編集の幅を押し広げ、新たな視野を与えてくれるはずです。

だからこそ、外に向けて編集の動線をひらき、誰かの声と交わる場所を意図的につくっていく。そこにこそ、次の編集の可能性があるように思います。

私たちは「内省」のステージから「接続」のステージへと歩を進めようとしているのかもしれません。私たちにしかできない編集の方法で、外の世界と呼吸を合わせていきたいと考えています。

私たちの言葉、写真を一冊の本にまとめる

この取り組みが始まったときから、いつかやってみたいと思っていたことがありました。

それは、書いてきた記事と写真を一冊の本にまとめること。

ウェブで発信してきた言葉と、毎回添えてきたオリジナルの写真。それらを、紙というかたちで束ねてみたい、というささやかな願いです。

ページをめくるという行為には、デジタルのスクロールにはない時間の厚みがあります。本の中で流れる時間は、読む人の手と呼吸によって支えられる。だからこそ、私たちが日々編んできた「考えること」「感じること」を、本というメディアに託すことで、より深い読書体験が生まれるのではないかと感じています。

記事ひとつひとつは小さな粒ですが、それが100以上積み重なった今、そこにはある種の物語がうまれはじめています。季節の移ろい、私たち自身の変化、思考のグラデーション。そうしたものを、順に読み返すことで初めて見えてくる風景があります。

ただの記録集ではなく「この時間に、私たちはこう考えていたんだな」という軌跡のような本にしたいと思っています。それは、自分たちの手元に置いておきたいという願いでもあり、また、どこかの誰かの本棚にそっと入り込んでくれたらという希望でもあります。

言葉と写真とで編んできたこの日々を、ひとつのかたちとしてまとめること。

静かな編集の旅のひとつの節目になる気がしています。

結びに

無数の情報に埋もれ、誰もが言葉を「すぐに」「それらしく」組み立てられるようになった時代。だからこそ私たちは、言葉の重みや手触りを、もう一度確かなものとして手のひらに取り戻したいと思っています。

そんな気持ちでスタートした会社の小さなプロジェクトですが、振り返れば、書くという営みのなかに、自分たちの編集の輪郭が少しずつ浮かび上がってきたように思います。

何を見て、何に違和感を覚え、どんな言葉でそれをすくい上げようとするのか。その繰り返しのなかで、少しずつ「私たちらしさ」のようなものが形をとりはじめています。

まだ言葉にならないことも多く、手の届かないままに過ぎていくものもあります。ですが、その余白ごと抱えながら、次の季節も、また少しづつ書いていきたいと思います。

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Kentaro Matsuoka