岐阜県北西部に位置する白川郷は、1995年にユネスコの世界文化遺産に登録された、日本の原風景ともいえる美しい集落です。特徴的な合掌造りの家々が立ち並ぶ風景は、まるでタイムスリップしたかのような錯覚を与えてくれます。
白川郷は季節によってその表情を変え、四季を通じて訪れる方を魅了します。1〜2月の週末には夜間ライトアップが行われるなど、冬の雪景色が有名です。
景観だけでなく、歴史や文化も深く感じられるのも魅力。歴史的背景を知り、旧家を見学すると当時の生活様式や知恵が垣間見えます。
四季折々で表情を変え、訪れた方を魅了する白川郷
白川郷は飛騨地域の中でも険しい山々が連なり、庄川が激流となって流れ下る大自然の中に独特の文化を育んできた集落。冬には日本有数の豪雪に見舞われ、積雪が2メートルを超えることもあるため、かつては周辺地域から隔絶された孤立した村だったようです。
その反面、夏は涼風が吹き抜け、緑豊かな自然に囲まれ都会の喧騒を忘れさせてくれる静寂な場所としての一面も。
新緑が萌え出す春、緑が深まる夏、紅葉が美しい秋、そして銀世界へと変わる冬、白川郷は四季折々に美しい表情を見せてくれます。
訪れたのは、まだ蒸し暑さが残る9月。青々とした山々の美しい景観が出迎えてくれました。緑に囲まれた白川郷では都会では感じられない爽やかな心地良さを感じられます。
近年では、世界遺産に登録されたことで知名度が増し、また交通網の整備により国内外から毎年多くの観光客が訪れます。
大小100棟余りの茅葺屋根の合掌造りが建ち並び、現在でも人々の生活が営まれている集落として知られています。
白川郷を訪れると、まるで時間がゆっくりと流れているかのような感覚に包まれます。都会の喧騒を離れ、静寂の中で自分自身と向き合うことができる、そんな場所です。
現在も変わらない村人同士が互いに助け合い支え合う「結」の心
白川郷では、古くから「結」の心を大切にしており、村人同士が互いに助け合い支え合う共同体意識が根付いています。
「結」とは相互扶助を意味しており、厳しい自然環境の中で生活してきた先人たちは、大雪が降ると村人全員で力を合わせ、屋根の雪下ろしを行うなど、互いに助け合うことで困難を乗り越えてきました。
こうした状況下で、人々は食料の調達や病気の看病など、様々な場面で互いに助け合い、共同体としての絆を深めていったのではないでしょうか。
1年を通して様々な暮らし・行事の場面で助け合いが必要とされ、白川郷ならではの相互扶助の関係が築かれてきました。
「結」の精神は現在もなお、村をあげて合掌造りの茅葺屋根の吹き替えを行うなど、様々な形で受け継がれ人と人との絆の大切さを感じられます。
白川郷の合掌造りは深い歴史を持ちますが、人々がいつ頃からこの深い谷に住み始めたのか、詳しいことは分かっていません。
最も古い記録は、奈良時代に飛騨の匠の記録の中に、馬狩村出身者と思われる名前が見られることです。有名な伝承では、源平合戦の際に敗れた平氏の落武者が住み着いたという話も伝わっていますが、これはあくまでも噂として語り継がれたもののようです。
白川郷が歴史の表舞台に登場するのは、鎌倉時代初期の建長5年(1253年)、浄土真宗の布教活動からです。親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに布教を行い、白川郷に道場を構えました。しかし当時の白川郷は白山信仰が根強く、浄土真宗の広がりは容易ではありませんでした。
その後、戦国時代になると信州から内ヶ島氏が進出して白川一帯を治めるようになります。内ヶ島氏は金鉱山を経営し、大きな勢力を誇りましたが、浄土真宗の農民たちとの間で対立が深まりました。
文亀元年(1501年)、内ヶ島為氏は正蓮寺を再興し、白川郷の信仰の中心となりました。しかし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の軍勢が侵攻し、内ヶ島氏は降伏します。
江戸時代に入ると、養蚕業が盛んになり、それに合わせて合掌造りの家屋が造られるようになりました。特に農地が乏しい下白川郷では養蚕スペースを確保するため、大型の合掌造りが発達します。
また一説によると養蚕業だけではなく、塩硝の生産も行われていたという話もあります。
塩硝は黒色火薬の原料となる硝酸カリウムのことで、鉄砲の弾の原料になるものです。江戸時代には欠かせない軍需物資として重宝されました。
秘境の地だった白川郷は、軍事機密である塩硝生産に最適な土地でもあったのです。
当時の内装を再現した250年続く旧家を訪れました。
明治23年(1890年)、5代目の民之助によって建てられた当家の合掌造りは、白川郷の豊かな自然の中で育まれた貴重な木材を採用。樹齢150年~200年の天然檜や、300年~350年という悠久の時を刻んだ板、襷、桂などの巨木が、この家に命を吹き込んでいます。
5階建てという大規模な合掌造りの建築には3年の歳月と、当時の貨幣価値で金800円、米100俵、酒11石8斗もの費用がかかっているんだとか。
1階には500年前に作られたと云われている荘厳な仏壇や、そのほかにも美術品・什器等が並び3〜4階には「ふるさと」への想いを馳せらす昔からの生活用具が展示されていました。
白川郷に建設されている明善寺には、全国でも珍しい茅葺屋根の鐘楼門があります。
これは享和元年(1801年)に、飛騨の匠・加藤定七によって建てられました。
多くの職人が協力し、1425日の月日をかけて完成。第二次世界大戦中には鐘が供出されてしまいましたが、戦後には新しい鐘が作られ、今も朝夕にその音が響き渡ります。
鐘楼門のそばには、樹齢約200年のイチイの木が立っており、本堂の再建を記念して植樹されました。
明善寺の本堂は、文政6年(1823年)から7年の歳月をかけて建てられました。約9,000人の人々が協力し、現在の姿になったと言われています。本堂は、真宗寺院の特徴であるシンプルな構造をしており、内部にはご本尊の阿弥陀如来像が安置されているようです。
現在でも結の心を大切にし、伝統文化を未来へと継承する白川郷
白川郷には、長年の歳月をかけ歴史や伝統文化を後世に伝えようとする想いが感じられます。
伝統文化は、日本やその地域を特徴づけるもので、先人の知恵や技術が集結したものです。実際に白川郷に訪れたことで、その地域のルーツを知ることができました。
特に人々の暮らしの中に根付いた「結」の心は、現代社会において失われつつある温かい人間関係の大切さを教えてくれます。
「結」とは互いに助け合い、支え合うことで地域全体が一つになっていくこと。合掌造りの家々が立ち並ぶ風景は、まさにその精神の結晶と言えるでしょう。