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長男が今年で5歳になります。

タイトルの通りです。

長男が今年で5歳になります。

早いものです。

次男はこの秋で2歳。

早いものです。

毎日があっという間に過ぎていきます。

さて、正直に申し上げますと、僕はもともと「子ども」という存在があまり得意ではありませんでした。

初対面の子どもとは、いまだにうまく話せません。

昔、フォトスタジオでアルバイトをしていた頃も、子どもにどう接していいかわからず、「お疲れ様です」とか「よろしくお願いします」とか、つい敬語で話してしまうような人間でした。

人生で初めて「赤ちゃん」という存在を腕に抱いたのは、31歳か32歳の頃。

それまで幼い子どもと関わる機会はほとんどなく、縁遠い存在でした。

そんな僕が父親になって5年。

次男はまだふよふよしていますが、長男はすっかり「人」っぽくなってきました。

というより、人として尊敬すらできる瞬間があります。

では、自分は父としてどうなのだろうか。

そんなことを、少し考えてみたいと思います。

そもそも父親の自覚があまりなかった

さて、正直に申し上げますと、自分を「父親だ」と自覚した瞬間は、これまでほとんどありませんでした。

僕だけなのかな。

子どもが生まれたその日から「父親としてしっかりしなければ」と覚悟を決める人も多いと思います。

けれど、僕はそうではありませんでした。

5年経った今も、どこか実感が薄いんです。

ある日突然スイッチが入って父親になった、という感覚ではありません。

オンとオフが切り替わるような明確な変化はなく、気づけば少しずつ、ゆっくりと父親になっていた。そんな感覚です。

もちろん義務感や責任感はあります。

けれど「親として」という肩肘を張った感覚は、いまだにあまりありません。

どちらかというと「自分より経験値の少ない、一人の人間と向き合っていて、現時点で彼の人生に大きな影響を与える存在が自分である。」

ぐらいの感覚なのです。

子供、どう?

さて、正直に申し上げますと、かわいいですね。というかすごいと思います。

これまでの人生で、子どもを「かわいい」と思ったことはほとんどありませんでした。

色々な人に怒られるかもしれませんが、本当にそうだったのです。

もちろん、自分の息子だからという色眼鏡はあると思います。

それを差し引いても、長男は人としてすごいなと思う瞬間が多々あります。

学ばされることが本当に多いのです。

妻の影響もあって、家では息子は英語で話します。

僕はほとんど英語が話せませんから、この時点ですでに僕より上です。ずっと何かを英語で話しています。

わかりません。

そして僕に話しかけるときは、日本語です。

ちゃんと切り替えているんですよね。すごいなと思います。

あとはですね、コップを持ってきてくれたり、率先して掃除をしようとしたり、扉を開けてくれたり、ゴミを捨てようとしてくれたり、スリッパを持ってきてくれたり。

どこで覚えたのか分からないほど、自然な気遣いを見せるのです。なんだかホスピタリティがすごい。

では、父はどうでしょう。

自分は何ができているのだろうか、とふと考えます。

情けない限りです。

父親として学んだことって?

さて、正直に申し上げますと、はっきりとした答えはありません。

日々の暮らしの中で、気づかされることはたくさんあります。

ここは叱るべきかもしれないとか、ここはきちんと褒めるべきだろうとか。

そんなことを考えます。

でも、それは「父親だから」しているというよりも、目の前の一人の人間と向き合った結果、自然とそうしているだけのような気もします。

では、父親になって何を学んだのか。

少し変な答えかもしれませんが、「人ってなんだろう」という問いに、以前より深く向き合うようになったことかもしれません。

彼が何を考えているのかを想像したり、なぜそう感じたのかを一緒に考えるんですね。

その時間が、なんだかとても「人間的」だと思うのです。

自分が教えているのか、教えられているのか…

多分後者なんでしょう。

そんな時間に身を任せ、5年が経ちました。

これから子供とどう接しようか

私自身、講師として中学生や高校生と関わることがあります。

そのたびに思うのが、「まだ子どもなんだなあ」ということです。もちろん、いい意味で。

未完成なんです。揺らいでもいます。でも確実に何かを見ているような年齢。自分はどうだったかなあ…

10年経っても、長男はまだ15歳です。何も分からないようでいて、少しずつ何かが分かり始める年頃です。

そんなとき、無理に強く引っ張るのではなく、正解を押し付けるのでもなく、そっと問いを差し出せる大人でありたいと思うのです。

道を示すのではなく、道筋の考え方を手渡せる存在でありたいんですね。

それができるかどうかは分かりませんが、少なくとも、そうありたいとは思っています。

自分の人生はもう終わったのかもしれない

少し大げさなタイトルですが、本当にそう考えることがあります。

自分の人生は、ある意味でもう終わっているのかもしれません。これからは、自分の子どもたちの幸せをどれだけ真剣に考えられるかという時間なのではないか、と思うんです。

繰り返しますが、僕は子どもが本当に苦手でした。

それが今では、自分の子どものために何か残せないか、一言でもヒントを手渡せないか、そんなことを強く考えています。

立派なものを残すことはできないかもしれません。もらっても困るでしょうし。

ただ、彼らがどこかで迷ったときに、思い出せる言葉や姿勢が一つでもあればいいなって思うんです。

そして同時に、文化として残したくないものを残さないように生きたいとも思います。父の責務として、悪しき文化は可能な限り消していきたいと思います。自分や社会の未熟さや弱さを、そのまま無自覚に引き継がせないようにしたいんです。

ちょっと壮大でしたね。

さて、繰り返しますが父親になって5年。

もしかすると僕は、自分のために生きている時間よりも、次の世代に何を渡せるかを考える時間のほうが長くなっているのかもしれません。

それはある種人生の「終わり」でもあると思いますし、ある種自分の役割が少し変わっただけなのだと、最近は思うのです。

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Kentaro Matsuoka