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  • Editorial
  • Kentaro Matsuoka

編集に必要なのは再現性か、それとも非再現性か

何度も文章を整えていると、自分が「毎回、同じような手つき」で言葉を置き、段落を切り、文末を整えていることに不意に気づくことがあります。

そこには、ただの感覚では片づけられない「型」のようなものが潜んでいるように思えるのです。

たしかに編集には再現可能な技術があります。

構成の順序、語尾の選び方、句読点の呼吸。それらは経験と検証によって磨かれ、次の編集にも活かされていきます。

けれど、不思議なことに本当に手応えのある編集ができたと感じるのは、決まってその「型」から少し外れたところに言葉を置けたときや、明文化されていない文脈を拾い誰かの沈黙に寄り添うような編集ができたときだったりするのです。

編集において、型を持つことは重要です。けれど、型だけでは届かない場所がある。

再現性の内側にとどまることで見失ってしまうものが、確実にあるように思います。

では、編集にとって本当に必要なのは再現性なのか。それとも、非再現性なのか。

そんな問いを、見つめ直してみたいと思います。

編集の中にある再現可能な技術

編集というと「センス」や「直感」のような言葉で語られることもあるように思います。

ですが、実際の現場では、それだけでは立ちゆかない側面も多く存在します。なぜなら、編集という仕事には確かに再現可能な技術が含まれているからです。

文章構造はその一例でしょう。

読者の理解を促し、関心を維持するためには、どの情報をどの順番で提示するかが決定的になります。共感を誘う導入から始まり、問題提起を挟み、要素を順序立てて提示し、最後にまとめや示唆を置く。このような流れは、理論というよりも経験則として多くの場面で機能してきました。

そこには論理構成の型があり、読者の認知に対して作用する一定の「重力」のようなものがあります。

日本語そのものの細かな表現技術もまた、見落とすことのできない編集技術の一部です。

たとえば、句読点。

句点をどこに置くかで読点の呼吸も変わり、文章の緊張感や温度まで変化します。文のリズムが不自然に跳ねる場合、多くは読点の打ち方に問題があります。

視点が切り替わる場所、意味の段階が移る場所、主語と述語のあいだの重みをどう支えるか。その力が読点に現れます。

助詞や助動詞の選択も重要です。「が」と「は」、「を」と「に」のような助詞の違いは文の論理構造だけでなく、情緒の伝わり方にも影響を与えます。また、「である」と「です」と助動詞の使い分けも、文体の整合性を保つだけでなく読者との距離感にも繊細な変化をもたらします。

段落の切り方ひとつにも技術があります。

一文が長くなる場合、意味の単位で区切ることで読者に呼吸の余地を与えられます。逆に、内容が軽すぎる段落が続くと文章全体が流れてしまい、読後に何も残らない感触になってしまいます。

段落の分量、並び、視覚的な重み。そのすべてに編集者の判断が刻まれます。

さらに語順の選び方にも注意が必要です。

たとえば「読者が理解しやすいように構成を設計する」と「構成を設計することで読者が理解しやすくなる」は、言っていることは同じでも、響きと流れが異なります。

前者は筆者の狙いが、後者は因果の明瞭さが感じられ、同じ情報でも響きがやや変わります。

文末表現にもバリエーションが必要です。

「〜です」「〜ます」で締め続けると機械的に感じられるため、文末のトーンを調整することで、抑揚と余韻をつくることができます。

とはいえ、私自身、毎回これらを意識しきれているわけではなく、まだまだ試行錯誤の途上にあります。むしろ、意識すればするほど難しさを感じるほどです。

また、今回細かくは触れませんが論文にも、SEOにもそれぞれの作法や技術が存在しています。

このような様々な技術は、時に職人芸のように見えるかもしれません。

けれども、すべてが経験と検証、そして言語への深い観察から生まれたものです。「なぜ読みにくいのか」「なぜ伝わらないのか」という問いに対し、文章そのものの構造から答えていく。このように、編集とは、構造設計と文章表現、その両面を通じて「再現可能な技術」として鍛え上げられる行為でもあります。

そして何より、その技術は、他者のためにあります。

編集とは誰かに届けることを前提とした、きわめて他者的な仕事だからです。

「この言葉は、誰かに届くのか」。

その問いに対して、再現性ある手つきをもって応えていくこと。それが、編集という技術の核にある態度なのだと思います。

積み上げられた知識と経験、そして時にデータに裏付けされた判断の上に成り立つ、れっきとした技術でもあるのです。

しかし、編集は「同じようには作れない」ことがある

再現性のある編集技術の「一端」は確かに存在しています。しかし、それだけで良い記事や伝わる構成がつくれるかというと、話はそう単純ではありません。

たとえば、同じテーマで、同じ構成、同じ順番の見出しを用いて、異なるタイミングで記事を出したとします。

結果は大きく異なるかもしれません。

社会の空気、読者の関心、季節、事件、SNSでの話題、メディア内の他記事との関係性。

これらの「文脈」はすべて編集が影響を受ける要因です。

つまり、編集とは「再現された構造」に、常に「一度きりの時間性」や「受け手の揺れ」が重ねられる作業でもあるのだと思うのです。

編集のプロセスでは、「何を書くか」よりも「何を書かないか」を選ぶ判断がしばしば重要になります。

ある言葉を使うのか、それとも削るのか。この情報は語るべきなのか、いまは語らない方がいいのか。

こうした選択はテンプレートではなく、都度の判断に委ねられます。

たとえば、2020年の「旅行記事」と、2021年の「旅行記事」は、まったく同じ構成を使っても、まったく異なる印象を与えてしまうでしょう。

パンデミック直後に「自由に旅しよう!」と書くことは、かえって読者の反感を買うかもしれません。「再現性のある構成」を用いても、文脈がずれれば意味がないのです。

これは「言葉の体温」を読む作業と言っても良いかもしれません。

この言い回しは、今の社会にとって重すぎないか。このトーンは、読者の中にある経験や痛みに触れすぎないか。あるいは、あえて触れるべきか。

こうした「読めないもの」に向き合うために、編集者は統計や過去データではなく、自らの経験や感覚、さらには倫理的な直感を頼りに判断します。

このように、編集という仕事には「再現できない判断」が確実に含まれています。

正解のない中で、今ここにある空気を読むこと。それは、決してマニュアル化できるものではなく、「その場限りの選択」として現れるのです。

だからこそ、編集は「誰がやるか」が問われる仕事でもあります。

だから編集者は常に自分の目を鍛える必要があります。常に世界を観察し、学ぶ必要があるのです。

同じ素材が与えられても、違う人が編集すれば、違うものが生まれる。それは、「正しさ」の問題ではなく、「世界との接点の取り方」の違いではないかと、私は思っています。

編集は「再現と非再現」の間にある技術

繰り返しますが、編集にはたしかに再現性があります。しかしそれだけでは決してうまくいきません。

文脈の読み、沈黙の選択、言葉の温度と向き合う「その場の判断」もまた、編集には欠かせません。

「再現できる構造」と「再現できない選択」。この両者のあいだに編集はあります。

再現可能な構造だけで組み立てられた文章は、たしかに整っていて、論理的にも正しいでしょう。しかし、それだけではどこか味気なく、読者の心にまでは届かないことが多いのです。

逆に、感覚的な表現だけで組み立てられた文章は、個性豊かですが、ときに伝わりにくく、誤解を生みやすくもあります。

編集とは、整えることと揺らがせることの両方の性質を必要とします。

構造を持たせながら、読者の心のどこかに「違和感」や「ひっかかり」を残すこと。そうした「ちょうどよさ」こそが、編集者にしかできない仕事だといえるかもしれません。

AIによる文章生成が進む現代において「編集とは再現可能な技術である」と強調されてしまっているように思えるのです。

確かに、SEO設計や構成テンプレートなどはAIにも再現可能でしょう。むしろ得意分野です。

しかし、AIは「今この瞬間の読者の肌感」や「沈黙の奥にある社会の空気」までは読みきれません。

その記事が、なぜ「今ここで語られるべきか」という選択理由はまだ少し難しい。そこには人間の編集者が介在する意味が残ります。

編集とは、言語化できる部分とできない部分を同時に抱える仕事です。再現性をもとに「足場」をつくり、非再現的な選択によって「飛躍」を生む。

そしてそのバランスを取る技術こそが、編集者の「知性」と呼ばれるものの正体ではないでしょうか。

だから編集は「技術」であり「文化」である

編集は、技術です。

構造を設計し、順序を整え、情報の重みづけを行い、読者の思考を導く。そんな技術。

しかし、編集は技術であると同時に、文化的な営みでもあります。

なぜなら、編集の本質には「この世界をどう見るか」「どのように語るか」といった、価値判断や世界観の選択が含まれるからです。

それは単なる整理や加工ではなく、語りうるものと語りえぬものの境界線を引く行為に他なりません。

同じ出来事を報じるとしても、「どこを中心に据えるか」「何を強調するか」によって、その記事、もしくはメディアがもたらすメッセージはまったく異なります。

その判断には、時代背景や読者との関係性、あるいは編集者自身の倫理観や思想が深く関与してきます。

「今この社会において、どのような語り方が許され、どのような語り方が届くのか」を常に問い直す仕事でもあるのです。

このような文脈依存の営みは、科学や工学のように「正解」にたどり着くものではありません。むしろ、「なぜその選択をしたのか」を丁寧に問われ続けるような、文化的応答性が求められるのです。

それゆえ、編集者はしばしば「目に見えない設計者」として、社会のさまざまな領域に関わっています。

たとえば、都市開発におけるコミュニティデザイン。これも実に編集的です。

「誰のためにどんな空間を目指すのか」「この街に、どんな人が住んでほしいのか」「何を残し、何を更新するか」という問いに、ビジュアルやコンセプトで応える、そのフローからは「編集らしさ」を感じます。あるいは、学校教育においても同様です。どの知識を、どの順番で、どんな言葉で伝えるのかという編集の力が求められています。

編集は記事や本の中だけにあるわけではありません。

編集とは、世界に意味の輪郭を与える技術であり、同時にその社会における「語り」の文化を支える技術でもあるのです。なんだかデザインと似ているのです。

この文化的側面を軽視すれば、編集はただの「加工技術」になってしまうでしょう。しかし、再現性だけでは届かないものがあり、文化性だけでは伝わらないこともある。

だからこそ編集者は、技術と文化、両方の橋を渡る者でなければならないのです。

結びに:再現性では捉えきれない編集の余白に宿る美質

私たちは、現代は、できるだけ仕事を再現可能なものにしようとします。

編集にも同じく、技術や合理性が求められる時代になってきたような気がします。

それはたしかに必要な努力です。けれど、それだけではなんだか足りないと思うのです。

なぜなら、編集という行為には、どうしても再現しきれない「余白の部分」が残るからです。

言葉にしなかった一文。削除するか迷ってあえて残した形容詞。そのときの空気、沈黙の意味、他者のまなざしにおける語りの輪郭。そんなものたちです。

そうした要素は、マニュアルにもガイドラインにも記録されることはありません。

ただ、そのとき、その文脈、その関係性の中で「そうであるべきだった」としか言いようがない選択です。

編集者が日々行っているのは、まさにその「そうであるべきだった」を積み重ねること。そこに正解はなく、検証もできず、誰かに完全には教えることもできません。

それでも、次の編集をより良くするために、私たちは思考し、感覚を研ぎ澄まし、判断を重ね続けるのです。

この余白の存在こそが、編集という仕事を単なる作業や技術から、思想的で文化的な仕事へと引き上げているのだと感じます。

再現性を持ち技術として磨かれた編集は、他者に伝わるかたちをつくります。そして再現できない余白は、そこにしかない出会いや、心のひだに触れるための余韻を残します。

言葉は構造であり、同時に祈りでもあるのだと思うのです。

誰にも見えないものを見えるようにし、誰にも言えなかったことに言葉を与えるために。その営みは、いつだって半分だけ再現できて、半分は祈りのように残されるものだからこそ、美しく、尊いのかもしれません。

その儚い美しさに出会うため、私たちは編集を続けるのかもしれません。

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Kentaro Matsuoka