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2025年を振り返って

気づけば今年も終わろうとしています。早いですねえ。何だかどんどん時間が加速して行っているような気がします。

今年は例年より特別に忙しかったわけではないはずなのに、体感としてはほとんど記憶がないような一年でした。

振り返ってみるとその理由ははっきりしていまして、ただ余裕がなかったんですよね笑

先を考える余白がなく、目の前のことを処理するだけで精一杯だった一年。何と情けないことか。

実は僕にとって2025年はすごく、すごく大変な一年だったんです。

反省がいっぱいです。

この一年は「経営者としての基礎的な能力」を問われ続けた年だったのだと解釈しています。うまくいかなかったことも、判断を誤ったことも、そして偶然に救われたこともたくさんありました。

どれも時間が経てば忘れてしまいがちですが、忘れてはいけない種類の出来事ばかりだった気がしています。

この一年を忘れないように、備忘録として書き残しておこうと思います。

今日は組織というよりも僕個人の課題のお話です。

僕の無能さがよくわかる情けない話をたくさんしますが、ご容赦ください。

会社が「想定外」に耐えられるかを試され続けた一年

繰り返しますが、今年はとにかく厳しい一年でした。年初に描いていた計画が想定外の形で何度も何度も崩れたりしたんです。

進むはずだった大型の仕事が先方の事情で突然止まったり、数ヶ月準備に費やしてほぼ確定していた案件がこちらではどうにもできない理由で消えてしまったり。しかもいくつもです。

経営というものは不確実性の塊だと頭では理解していましたが、これほど立て続けに起こるとは思っていませんでした。

毎日のように「まじか」って言っていた気がします。

当然、数字は如実にそれを映します。試算表を見るたびに胃が痛くなる思いでした。「まだ大丈夫だ」「この数字をこうすればきっとこうなる」と自分に言い聞かせながらも、内心では常に最悪のシナリオを考えていました。

気が気じゃなかったですね。

それでも会社がここまで残った理由ははっきりしていまして。

お仕事をご依頼してくださったお客様がいて、苦しくても踏ん張り続けてくれた社員がいて、そして何より、背中から支えてくれた家族がいたからです。

僕一人ではこの年末に到底辿り着けませんでした。

経営者はつい「自分の判断で会社を動かしている」と錯覚しがちですが、本当は支えられて初めて判断が成立していることを思い知らされましたね。

その事実を、これほど痛感した年はありませんでした。

結果、今年の後半戦まで大苦戦

前半で崩れた計画は、当然ながら数字に影響します。そして残念ながら流れてしまったお仕事の分をどこかで取り戻さなければいけません。

なくなったら取り戻す。理屈としてはとっても単純です。

が、現実はそう簡単ではありませんでした。

体力も知名度もほぼ皆無のこの小さな小さな会社が、短期間で仕事を一気に積み上げることはなかなか難しいのです(単に僕の実力不足なんですが)。

それにもかかわらず、どこかで「そのうち埋まるだろう」「なんとかなる」と考えていた自分がいました。

甘い。

結果として、決算のある夏の終わり頃まで状況は凄まじく厳しいままでした。

今振り返ると、なんとかあの時期を越えられたのは、戦略やら戦術やらという高尚なものではなく、偶然の要素が大きかったと思います。

ありがたいことにふとしたご縁で相談をいただき、それが連鎖してなんとかなっただけのこと。もしあれがなければ…と考えると、正直ぞっとします。

「なんとかなる」という感覚は余裕がある時には前向きな言葉ですが、余裕がない局面では思考停止とほぼ同義になるんですね。大変学びになりました。

売上を取り戻せるかどうかではなく「そもそも、なぜ取り戻す前提に立ってしまったんだ?」という問いに向き合わない限り、同じことは必ず繰り返されてしまうでしょうね。

そう強く思わされた期間でした。

どんな高難度の相談でも、短期間の相談でも「やれます」と言ってくれた社員たちがいたからこそ、僕は今日この記事をかけているのだと思うと、本当に感謝してもしきれません。

なぜそんなことになってしまったのか。五つの反省点から振り返る

前期、というか今年を通じて、「会社が吹き飛ぶかもしれない」と、何度も何度も思いました。

運が悪かったからではありません。判断の前提そのものが崩れていたからだったのだと思います。

一つひとつは些細に見えるミスでも、それらが連鎖すると経営は一気に脆くなってしまうんですよね。今回の経験でその構造を身をもって理解しました。

以下に挙げるのは、特に致命的だった反省点です。どれも経営者としては初歩的で、言い訳のしようもありません。

「こんなアホみたいな失敗をする人もいるんだー」という距離感でご覧ください。

数字を「見ていたつもり」になっていた

最も大きな反省点は、これです。

「数字を見ていなかった。」

「え、何を言っているの?そんなことあるの?」と思いますよね。

ごめんなさい。

管理会計も行い、月次決算の数字も一応は見ていました。ですが今思えば、それは「確認」であって「対話」になってなかったんです。

本当に数字を見ている状態とは、数字を見た瞬間に「次の一手」が頭に浮かぶ状態だと思っています。

資金繰り、投資の是非、今月や来月の危険水域。

そうした判断が、数字から自然に立ち上がっていませんでした。ああ今こんな感じなんだなぐらいの温度感です。マジで舐めすぎですよね。

結果として、キャッシュの厳しさを過小評価し、今やるべきではない投資をしてしまったこともあります。

振り返るとこれは必然です。課題が見えていないのですから。

こんなザマで正しい打ち手が出るはずがありません。ガチの無能です。

ただ、ここは後述する「戦場で傷口を直視できる兵士は死なない」という言葉で一気に意識が変わります。

自分は、傷があることは分かっていたものの、その深さや位置を直視していませんでした。だから判断が遅れ、判断が甘くなったんです。

数字を見るとは、とりあえず安心するために眺めることではないんですね。不都合な現実があってもそれを受け止めること、打開するためにどうすればいいか考えることでした。

この基本を、完全に忘れていました。

時間管理が下手

時間管理が下手。

私、松岡は今年で37歳になります。

40手前で時間管理が下手とは、何ごとなんでしょうか。

振り返ると、効率も能率も著しく悪かったですね。本来入れる必要のない会食を入れ、本当に集中すべき時間に集中できていませんでした。学ぶべきことは後回しになり、判断は場当たり的になってしまいます。

一見すると「なんか忙しかった」だけの話に見えますが、問題は、上位の意思決定がなかったことだと思いました。

会社としてどこに向かうのか。今月・今週・今日に行動計画を落とし込めているのか。何を最優先して動くべきなのか。それらの軸が曖昧だったから、月の計画も、週の計画も、日の使い方も崩れていってしまうんです。

今日やることがわからない。幼稚園で習うようなことが37歳の大人ができていない。本当にぶっ飛ばしたいですね。

多分、時間の使い方は性格ではなく設計で決まるんだと思います。設計図がなければ、どれだけ時間があっても散らかってしまいます。Webサイト制作や記事制作と一緒なんです。

自分はその初歩的な事実を、身をもって証明してしまいました。

この大反省から「会社としての方向性を言語化する」必要性を強く感じるようになります。その話は別の記事に譲りますが、時間管理の崩壊は、経営判断の曖昧さが表面化した結果でした。

行動量が少ない

人に会うこと。インプットすること。アウトプットすること。

全部大事なことです。小学校でたくさん習いますよね。

振り返ると、あらゆる行動量が明らかに不足していました。

私、松岡は今年で37歳になります。

なぜできていないんでしょうか。意味がわかりません。

忙しくはあったはずなのに、前に進んでいる感覚がないのは当然です。動いてはいましたが「今」しか見ていなかったからです。

目の前のタスク、目の前の不安。それらに追われているうちに、半年後や一年後に向けた行動が、完全に抜け落ちていました。

行動量は気合では増えません。名言ですね。

未来の仮説があって初めて「今、何をすべきか」が定まるからです。

計画がなければ、行動は点在し、やがて停止してしまいます。根性論だけでは行動するという力学は作用しないんですよね。

この反省から「習慣化」というテーマに行き着きました。

行動を意志に任せない。未来の自分を助けるために今日の行動を仕組みに落とす。

特に僕のようなダメな人間はなおさらです。

「ただ行動量できなかった」のではなく「行動すべきことと未来がつながっていなかった」から行動量に影響が出たと思うんです。

情報共有が十分になされず、組織の判断速度を落としていた

自分は必要な情報を社員たちに十分に共有できていなかったと感じています。

数字や経営状況を開示すると、プレッシャーを与えてしまうのではないか。余計な不安を生むのではないか。そう考えて、共有する内容を選びすぎていました。

ですが、あまりいい結果にはならなかったですね。そもそも情報がなければどんなに優秀な人でも考えようがないんです。

さっきから当たり前のことばっかり書いていますね。

組織は与えられた条件の中でしか動けません。そして現状が分からなければ当事者意識も生まれません。

ところで、個人的に「月末になればとりあえず給与が振り込まれる」ことが前提で働く人に強い違和感を感じてしまいます。これは10代の頃からです。

自分の食い扶持は自分で稼ぐ。どうすれば組織に利益をもたらせるかを本気で考える。そういう姿勢の人と仕事がしたいと思っています。

しかしですね、その前提を成立させるには数字と状況を共有しなければなりません。

どこが危険なの?どこに課題があるの?何をすれば会社が前に進むの?それが見えなければ、考えようがないのです。当事者意識なんて持てないんですよね。

情報共有をあまり行っていなかったことで、意思決定のスピードを自分自身が下げていました。

これは経営者として、かなり重い反省点です。

仕組みがない

ふざけているように思えるかもしれませんが、仕組みがなかったんです。これは今年に限った話ではなく、以前からの課題でした。

ただ、致命的な状況になって初めてその重さを実感しました。

知識も判断も、個々人の頭の中にしかないんです。ナレッジは共有されず、これまで積み上げてきた経験や思考の形跡もちゃんと蓄積されていない。その場その場では回っているように見えても、誰かが欠けた瞬間に、一気に不安定になる構造です。

組織としての「知」がほとんど溜まっていなかったんです。振り返ると、これは経営者の設計ミス以外の何ものでもありません。

仕組み化とは、効率化の話ではなく、再現性をつくることだと思っています。誰がやっても一定の質を担保できる状態をつくること。

それは組織として少しずつ賢くなっていくための土台になってくれるはずです。

まだ道半ばですがちょっとずつ進めています。

「今、何から仕組みに落とすべきか」を考え始められたこと自体は、今年の数少ない前進だったと思っています。

うまくいっていた時期はそもそも何が違っていたのか

一昨年、そして去年。振り返ると、いろいろなトラブルはありながらも、数字だけ見るならば全体としては比較的うまく回っていました。

理由はシンプルです。

先ほど挙げた反省点が、最低限は機能していたから。

まず数字をシビアに見ていました。

試算表を眺めては、余裕に安心したり、足りなさに焦ったりしていました。感情はとても揺れていましたが、その分、判断も行動も早かったと思います。

だから「いつまでに何をしなければ危ないか」が分かっていたし、それをタスクに落とし込むこともできていました。

なんとなくうまくいっていたんですよね。

そして恐らく、この「なんとなくうまくいっている」という感覚が、自分の中に慢心を生んだのだと思います。

ただ最低限できていたことを「自分たちはできている」と勘違いしてしまったんでしょうね。

アホですね。

今年は、その勘違いを真正面から突きつけられた一年でした。

それでも致命的になる前に立ち止まれたことや会社を続ける選択肢が残ったことは、心から感謝しています。

とにかく足掻いた夏頃。「営業する」ではなくあえて「勉強する」という意思決定

夏頃「このままでは本当にまずい」と思いましたね。感覚的な話ではなく、現実的に詰みつつあるという実感です。

できることは全部やろうと、そう思ってこれまでで一番と言っていいほど足掻きました。

まあ見苦しほど足掻きましたね。

普通なら、ここで取るべき行動は「営業強化」でしょうね。実際、頭の中では何度もその選択肢が浮かびました。それでも最終的に選んだのは、営業ではなく「勉強」だったんですよね。

だいぶ酔狂な判断だと思っています。

売上が足りないのに、なぜ優先的に学びを選んだのか。今すぐお金にならないことになぜ時間を使うのか。

ただ、このまま闇雲に営業しても同じ判断を繰り返すだけだと、何だか直感的に分かっていたんですよね。構造を理解しないまま動いても、結果が変わらないなら意味がないと。

だから一度、勇気をもって立ち止まることにしました。まあやたらと勇気がいりましたね。

まずは、自分の「経営者としての筋力」をつけること。遠回りに見えても、これが一番早いと判断しました。

そんな3つの学びについて振り返ります。

まさかのMBAに通う。「経営を学んでいなかった」事実と向き合うことに

最初に決めたのは、まさかのMBAに通うことでした。時間もお金もかかるし、タイミング的にだいぶ背水の陣の意思決定です。

「そんなことをする前に営業しろ」と言われても仕方がありません。

さて、緊急度と重要度のマトリクスで言えば、自分はずっと“緊急”な象限に張りついていましたが、それが良くなかったと思うのです。

その結果、忙しい割に何も積み上がっておらず、判断は経験則頼みで再現性がないという情けないことに…

医者になるなら医学を学ぶ。料理人になるなら料理を学ぶ。では、経営者になるために、経営を学んできたんだよね?と問われると、答えは明確に「ノー」でした。お恥ずかしい。

経営者に通信簿があるならば、先ほど挙げた反省点たちはすべて赤点です。学ばずに点が取れるなんてことは余程の天才でない限りは難しいですね。そして僕は凡人の中でもさらに下の方の人間です。学ばずに上を目指そうなんて虫が良すぎます。

だからまず、経営を学ぼうと思ったんです。

崖っぷちだからこそやる。余裕ができてからでは遅い。そう思えたからこの選択をしました。

無闇に営業するのではなく、まず判断の精度を上げる。そのための土台づくりが、この夏の最優先事項でした。

無知すぎた「お金」を学ぶ。「傷口を直視する」ことから始まった投資の学習

MBAの授業の中で、ある言葉に強く打たれまして。先ほども記載した「戦場で、傷口を直視できる兵士は死なない」という言葉です。

なかなかインパクトのある表現ですが、その瞬間、視界が一気に開けた感覚がありました。

「大きなダメージを負っているのに突っ走ってはいけないし、かすり傷なのに、その場に留まり続けてもいけない。まずは、今の状態を正確に把握して、その上で、最善の判断をしようね。」

ざっくりこんな意味です。

が、自分はそれができていませんでした。

「ちゃんと現状のお金(公私共に)についてしっかり把握してる?」「してないからダメなんじゃない?」そう思いまして。

この気づきをきっかけに、猛烈に「お金」の勉強を始めました。

税務、会計、投資、簿記、FP…

分野を問わず、関連するものは片っ端から吸収しました。

すると、見える景色が変わるんですよね。なぜこのお金をこう使ってるんだっけ?なぜこの選択をしてないんだっけ?とか。

業界の利益構造や、著名な会社の内情などからたくさんの示唆を受け取れるようになったことも大きかったです。「この会社は〇〇がメインのサービスだと思っていたけど、実はこっちで収益を立ててるんだな。なんでだろうな」とか考えられるようになりました。37歳にして。

数字が、点ではなく線で見えるようになったのは大きかったです。会社として、どのお金をどう扱うべきかが、以前よりもはるかに立体的に理解できるようになりました。

もしかすると、この一年で一番痛かったのは自分の「お金に対する甘さ」を思い知らされたことかもしれません。でも同時に、本当に大きな収穫でもありました。

経営者以前に「人として」を学ぶ

お金や戦略の前に、そもそも人として未熟すぎるのではないだろうか。人間力が低すぎやしないだろうか。そんな「そもそもの部分」も非常に気になりまして。

判断がぶれる。継続できない。都合の悪い現実から、わずかに目を逸らしてしまう。

これらはすべてスキル以前の問題です。人とだいぶ未熟ですよね。ダメです。

経営者としてどう振る舞うべきか、ビジネスマンとして何を優先すべきかも大事なんですが、それ以前に人としてどうあるべきかをちゃんと考えていなかったなと反省しまして。

人としての格とでもいうんでしょうか。人格をもっと磨かねばと思ったんです。低俗な人間に高尚な仕事はできないということで。

さて、今年の春ぐらいから、横浜で70年以上続く歴史あるお客様の新入社員研修に同席させていただいているんですが、すごくたくさんの気づきがあります。

社会人としての基本や仕事への向き合い方、他者への敬意など、当たり前のことを、一つひとつ丁寧に学び直す時間になっています。確かに基礎的な内容なんですが、それが故に本質的で本当に難しい。毎回大切な問いをもらって会場を後にしています。

不思議なものでこの新入社員向けの内容が一番自分に刺さるんですよね。

自分は基本を飛ばしてきたんだなと痛感しました。

経営がうまくいかない時、戦略や数字に原因を求めがちですが、土台にある「人としての姿勢」が崩れていればどんな施策も長くは持たないと思うんです。

この時の気づきが、会社の方針や価値観を言語化するきっかけにもなっていきました。

来年、個人としても会社としても意識したい三つの力

ここまで多くの反省を書いてきました。

改めて書くとだいぶ恥ずかしいものですねえ。

しかし、反省は次の行動に変換されて初めて意味を持ちます。

個人としても、会社としても、来年特に重要になるなと感じているのは、次の三つです。

やり切る力(グリット)

今年を振り返って、能力や知識以前に足りていなかったものは何かと問われれば「やり切る力」が挙げられると思います。

例えば未達だったときに「今回は仕方ない」「状況が悪かった」と、そうやって自分を納得させることは簡単です。そして、その納得は一度きりならあまり問題にならないかもしれません。

問題は、それが積み重なっていくことです。負け癖になるんですよねこれ。負け癖のある人間に仕事はきません。

やり切る力とは、派手な根性論ではありませんし、ましてや才能でもありません。自分で決めた約束を、誰にも見られていなくても完了させる「自分を律する力」です。

日々のタスク、学習、準備、期限など、目標の大小は関係ありません。「やると決めたことを、やり切ったか」という事実だけが残るだけです。

そこに例外を作り始めると、人は一気に緩みます。

今年は、未完の挑戦が多すぎました。

途中までやったこと、考えただけで終わったこと、「そのうちやる」に分類されたことなど、たくさんあります。一見前向きなチャレンジもありますが、何も達成していなのであれば結果として何も生みません。

来年は、結果よりもまず「完了」にこだわりたいと思っています。小さくてもいいし、目立たなくてもいいんです。ただ完了した事実を積み上げようと思っています。

数字で会話する力

今年、最も痛感した課題の一つが「数字で会話できていなかった」という点。数字は見ていたし、資料もありました。それでも、会話の中心にはなっていなかったんです。

数字で会話するというのは単に売上や利益を報告することではなく、数字を起点に判断と行動の質を揃えることだと思っています。

感覚や印象で話すことは楽なんですよね。その場の空気も壊れにくいし。ですが、感覚だけの会話では、意思決定が遅れてしまいますし、責任の所在もぼんやりしています。

しかし、数字があると逃げ場がなくなります。

「良さそう」「悪くなさそう」といった曖昧な言葉が使えなくなるからです。だからこそ、数字は扱いづらいのかもしれませんね。無意識のうちに避けてしまう理由も何となくわかります。

しかし、数字を避けた瞬間にビジネスは思考停止に近づいてしまうんですよね。今年の僕の失敗がまさにこれですし。

だからこそ、数字を見て、仮説を立てて、打ち手を決めて、結果を検証するという一連の流れを、個人ではなく組織で回したいんです。数字を「管理のための道具」ではなく、「思考を揃えるための共通言語」にするイメージです。

ビジネスリテラシー

スキルや専門性以前に、それらを支える「土台」が弱かったということも大きいですね。

その土台が、ビジネスリテラシーだと思っています。

技術や知識は努力すればある程度は身につきますが、しかし、それをどう使うか、どこに当てるか、どの順番で考えるかなど、この判断を支えているのは、個別スキルではありません。

MBAや経営者の集まりもそうですが、ありがたいことにすごいレベルのお客様と対話させていただく機会も多いんです。こんな明らかにスバ抜けて優秀な人たちと話していると、差は知識量よりも「前提の揃え方」にあると感じます。

話が早く、論点がずれず、言葉の定義が共有されているような。お金や組織、戦略の話が、同じ地図の上で進んでいくような、筋が通りつつも一歩二歩先の議論にも目を向けているような感覚。

これは地頭の問題もあるでしょうが、ビジネスの文脈にどれだけ浸かってきたかの差なのかなとも思うんです。本を読み、人と会い、議論し、考え続けてきた時間の総量が、ビジネスリテラシーになって現れる気がしています。

だからこそビジネスリテラシーは、短距離走では身につきません。派手な成果も出にくいですし。

来年は目に見える成果だけでなく、見えにくい土台づくりにも時間を使いたいですね。遠回りに見える選択が、結局はいちばん確実な近道だと今は思っています。

結びに:反省の年を、前進の年に変えるために

ここまで振り返ってみると、今年はネガティブな出来事の多い一年だったように見えるかもしれません。見えるかもしれませんっていうか、そうなんですけど。まあよく生きていたな…とあらめて感心するやら呆れるやら。

あえて前向きに捉えるなら、これまで曖昧にしてきたことと、一つひとつ正面から向き合えた年でもあったと思います。

馬鹿みたいに足掻きまくったせいか、2025年の途中から少しずつ風向きが変わってきた感覚があります。劇的な何かが起きたわけではありませんが。

僕にできたのは小さな判断を変え、小さな行動を積み重ねたことだけです。

それでも積み重ねは確実に蓄積されていくような、そう信じられるだけの手応えは残りました。

来年は、反省を「経験」に変える一年にしたいですね。個人としても、組織としても、確実にレベルアップしたいものです。

今年得た痛みと学びを、次の飛躍のための土台にして、前へ進んでいこうと思います。

情けないお話にお付き合いいただきありがとうございました。

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Kentaro Matsuoka