弊社は横浜に拠点を置いていますが、この街がどのような歴史を歩んできたのか詳しく知る機会はこれまであまりありませんでした。
そこで今回、「横浜都市発展記念館」を訪れ、横浜が近代都市として発展してきた歴史に触れてきました。館内に展示された写真や地図、当時の資料をもとに、横浜の街と文化がどのように変化してきたのかを紹介します。
横浜は、変化を受け入れながら発展してきた街
横浜の歴史を語るとき、開港や外国人居留地、港町としての発展がよく取り上げられます。
しかし、横浜の魅力はそれだけではありません。
映画館、百貨店、野球場、プール、競馬場など、横浜には近代的な娯楽や買い物の文化が早くから根づき、人々が街に出て楽しむ習慣が育っていきました。
大きな転換点となったのが、1923年に発生した関東大震災だったようです。
横浜の街は大きな被害を受けましたが、その後の復興によって、関内、山手、伊勢佐木町は、それぞれ異なる特徴を持つ街として再建されていきます。
関内には行政や貿易の機能が戻り、山手には教会や学校、外国人住宅が再建されました。伊勢佐木町には百貨店や映画館、飲食店が集まり、横浜を代表する繁華街へと発展していきます。
関東大震災をきっかけに変化を遂げた横浜の街
関東大震災をきっかけに関内、山手、伊勢佐木町がどのように再建されたのかを見ていきましょう。
関内|震災復興によって生まれ変わった中心地
関内は開港後に人や物、情報が集まり、商業や行政、港の機能が発展し横浜が近代都市として発展するきっかけとなった場所です。
そんな横浜の中心部は、関東大震災によって大きな被害を受けます。
震災後は建物や道路の整備が進められ、街の姿も大きく変わりました。
震災で出たがれきを使って海を埋め立て、その場所に山下公園が整備されました。また、神奈川県庁や横浜税関も建て直され、横浜市開港記念会館とともに、横浜を代表する建物として親しまれるようになります。
それぞれの塔には「キング」「クイーン」「ジャック」という愛称があり、現在では「横浜三塔」と呼ばれています。
これまでの歴史を知ると、震災を乗り越え、新しい都市として再出発した横浜の歴史を感じられますね。
山手|静かな住宅地としての再建
山手も、関東大震災によって大きな被害を受けたエリアのひとつです。
山手地区では多くの建物が倒壊しましたが、商業地である山下町などと比べると、復興には長い時間がかかったとされています。
その後、ミッションスクールの校舎や教会、外国人住宅が建てられ、洋風建築が並ぶ落ち着いた街並みが整えられていきました。現在の山手に残る建物のなかにも、震災後に建てられたものがあります。
伊勢佐木町が買い物や娯楽を楽しむ街だったとすれば、山手は暮らしや教育の文化が根づいた街です。現在も多くの教育機関が集まり、文教地区としての特徴を残しています。
震災後には、帰国や転居を選ぶ外国人が相次ぎ、山手の土地の多くを横浜市が所有するようになりました。その後、元町公園や外国人向けの市営住宅などが整備されます。
現在も西洋館や公園、緑豊かな景観が守られており、山手は歴史を感じながら街歩きを楽しめる場所として親しまれています。
伊勢佐木町|商業と娯楽が集まる繁華街へ
伊勢佐木町は、昭和初期の横浜を語るうえで欠かせない繁華街です。
当時の伊勢佐木町には、百貨店や洋品店、書店、文具店、食堂、レストラン、洋菓子店などが並び、多くの人が訪れていました。
もともとは寄席や芝居小屋が集まる娯楽の街でしたが、1911年に洋画を専門に上映する「オデヲン座」が開館するなど、次第に映画の街へと変わっていきます。震災後にはさらに映画館が増え、表通りでは多くの人がウィンドーショッピングを楽しみました。
1928年には、日本で初めてとされる歩行者天国も行われています。人々は百貨店で買い物をし、書店で本を選び、喫茶店や菓子店でひと休みするなど、街歩きを楽しんでいたようです。
夜になると、百貨店のイルミネーションや店のネオンサインが街を照らし、昼間とは異なるにぎわいが生まれます。
伊勢佐木町は、買い物や映画、食事など、さまざまな楽しみ方を一つの街で味わえる場所でした。現在でいえば、商業施設や映画館、飲食店が集まる都市型の娯楽エリアに近い存在だったのでしょう。
横浜に広がった新しい文化と娯楽
横浜の発展とともに、人々の楽しみ方も変わっていきました。
映画館や百貨店、スポーツ施設などが登場し、街は暮らす場所や働く場所だけでなく、買い物や娯楽を楽しむ場所にもなっていきます。
映画のまち・横浜|芝居小屋から映画館へ
伊勢佐木町の章でも触れましたが、横浜では芝居小屋が映画館へと姿を変え、映画が新しい娯楽として広がっていきました。
当時の人々にとって、映画は未知の世界に触れられる特別なものだったはずです。スクリーンを通して外国の風景や都市の様子、見たことのない物語を楽しめたことは、大きな驚きだったでしょう。
映画の歴史は、音声のない短い映像から始まりました。その後、映像を使って物語を伝える作品が増え、チャールズ・チャップリンに代表される喜劇映画などが人気を集めます。
無声映画の時代には、物語や登場人物のせりふを語る「活動弁士」と、映像に合わせて音楽を演奏する「楽士」が映画館で活躍していました。同じ作品でも、弁士の語り方や楽士の演奏によって印象が変わるため、当時の映画はライブに近い楽しみ方ができたのではないでしょうか。
その後、1920年代末に音声付き映画が登場し、1930年代に広がると、弁士や楽士が活躍する機会は次第に減っていきました。映画の楽しみ方も、語りや生演奏と一緒に味わうものから、映像と音声が一つになった作品を見るものへと変わっていったのです。
現代では、観客が声援や拍手を送る「応援上映」も行われており、観客同士で盛り上がる場所として楽しむ文化が定着しつつあります。
買い物のまち・横浜|百貨店が育てた買い物文化
震災後の伊勢佐木町には、野澤屋や松屋、越前屋などの百貨店や大型店が集まり、多くの買い物客でにぎわいました。
なかでも野澤屋は、横浜を代表する百貨店の一つです。
幕末に創業した呉服店をルーツに持ち、1909年に伊勢佐木町へ進出。その後、衣料品や生活用品など、さまざまな商品を扱う近代的な百貨店へと成長しました。
野澤屋は、商品を販売するだけでなく、流行や新しい暮らし方を伝える役割も担っていました。のちに「ノザワ松坂屋」「横浜松坂屋」へと名前を変え、2008年に閉店。跡地には現在、カトレヤプラザ伊勢佐木があります。
当時の百貨店では、案内状やカタログを顧客へ送り、季節の商品や新しい流行を紹介していました。
なかには、流行色の生地見本を台紙に貼って顧客へ届ける取り組みもあったそうです。文章だけで商品を説明するのではなく、実際の色や質感に触れてもらうことで、来店前から興味を高めるための取り組みが行われていました。
また、百貨店は商品そのものだけでなく、「どのような服を着るのか」「どのような暮らしを楽しむのか」まで提案していたようで、商品を通して新しい生活への憧れを届けていたんです。
現代のマーケティングに置き換えると、商品サンプルを付けたダイレクトメールや、メールマガジン、SNSを使った情報発信に近い取り組みですね。顧客へ直接情報を届け、商品に興味を持ってもらい、来店へつなげる流れがすでにつくられていました。
スポーツのまち・横浜|野球、競馬、水泳の広がり
横浜では、スポーツも都市の娯楽として親しまれるようになりました。
1929年には、関東大震災からの復興事業の一環として、横浜公園内に横浜公園球場が完成しました。その後、球場は「横浜公園平和野球場」、通称「平和球場」として市民に親しまれ、跡地には横浜スタジアムが建てられています。
1934年には、ベーブ・ルースをはじめとするアメリカ大リーグの選手たちが来日し、この球場で日米野球が行われました。
同じく1929年には、根岸競馬場に大規模な観覧スタンドが完成します。根岸競馬場は、1866年に日本初の本格的な洋式競馬場として造られた場所です。競馬は外国人居留地の文化とも関わりながら、横浜の近代的な娯楽として広がっていきました。
さらに1930年には、元町公園プールが完成しました。ダイビングタワーや大規模な観覧スタンド、水中照明を備えた、当時としては先進的なスポーツ・レジャー施設です。改修を重ねながら、現在も夏季限定の市営プールとして利用されています。
これらの施設がすべて震災をきっかけとしたものではないかもしれませんが、多くの人が集まり、スポーツを観たり楽しんだりできる場所は、復興へと歩み始めた横浜に新たな活気をもたらしたのではないでしょうか。
これまでの横浜と、これからの横浜
今回は、横浜都市発展記念館に訪れ、横浜の歴史に触れました。
長い歴史の中のほんの一部に過ぎませんが、この街が新しい文化を受け入れながら、その時代に合った姿へと変化してきたことがわかります。
その中心にいたのは「関内」「山手」「伊勢佐木町」です。関東大震災からの復興を進めるなかで、それぞれの地域が特徴を生かし、異なる役割を持つ街として発展してきました。
その後、人の流れは横浜駅周辺やみなとみらいへと広がり、かつて中心だった地域の役割も変わっています。
これからの横浜にも、新しい建物や交通、娯楽が生まれ、街の姿は変わり続けていくはずです。
新しいものを生み出すことは、街の発展に欠かせません。一方で、古い建物や文化を残し、そこに刻まれた歴史を次の世代へ伝えていくことも大切です。
これまで受け継がれてきたものを大切にしながら、新しい時代に合わせて変化していく横浜を、これからも見ていきたいと思います。