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「香りが伝える景色」2019.04.15 聖母マリアが燃えた日,Unum Notre-Dame

2019.04.15

パリの中心に静かに佇んできたノートルダム大聖堂が炎に包まれた日。時間はわずかに足を止めたように思います。

「我らが貴婦人(Notre-Dame)」を意味するその名を持つ厳かな大聖堂が、800年という歴史の重みをたたえながら、一部を失った瞬間です。

それは単なる建築物の損失を超えた、何か深い意味を私たちに問いかけるものでした。

燃え果てた信仰の象徴

聖なる場所が炎に包まれる光景は、目に見える以上のものを私たちの内側から呼び起こします。信仰を持つ者にとっても、持たない者にとっても、それは変わりません。

数多の人々の祈りを受け止め、結晶化してきたその場所が崩れ落ちた時、個人的な信仰を持たない私でさえ、言葉にできない何かが失われてしまったかのような深い喪失感を覚えました。

イタリアの香水ブランドUnumの創設者、フィリッポ・ソルチネッリは、この言葉にできない喪失感をノートルダム大聖堂の炎から香りとして抽出しました。

彼がこの香水を製作した真意は確かではありません。

しかし一つ言えるのは、この香水は単なる「追悼」のためのものではないということ。彼の手が紡いだ「ノートルダム」という香りは、炎に包まれた聖母への献花ではなく、時の流れに抗う「記憶の保存」なのではないかと思います。

記憶の風化を決して許してはくれない

仏教の世界では「諸行無常」と説かれますが、「ノートルダム」はその流れに静かに抵抗します。

この香りは私たちの「記憶の風化」を決して許してはくれません。

大聖堂内部の厳かな空気を思わせるネロリ、バジル、コリアンダーから始まり、燃え上がる炎の熱と輝きを連想させるのはジンジャーとオレンジ、レモン、ベルガモット。

特にベースノートの印象は強烈です。パチョリ、ベチバー、モス、そしてプレシャスウッドとサンダルウッドのスモーキーな芳香は、焼け落ちた聖堂の残骸を彷彿とさせます。

この「ノートルダム」を身にまとう時、薄れゆくはずの感情が再び明確な輪郭を取り戻します。決して穏やかな追憶ではありません。残酷で不躾なほどの鮮明さで当時の記憶を呼び起こします。

失われたものの前で花を手向け、静かに頭を垂れることも大切な追悼の形ですが、香りを通して記憶を留め、時の流れに静かに抗うことも、また違った形の敬意の形なのかもしれません。

大聖堂に向けて捧げられた「Je vous salue Marie」

大聖堂が炎に包まれる中、パリの人々は自然と集い、声を合わせて歌いました。「Je vous salue Marie」(ジュ・ヴ・サリュ・マリー)、フランス語の「アヴェ・マリア」です。

私は、あの日、スクリーンを通して今まさにで失われゆく歴史の姿と、捧げられた悲しい歌声を今でも鮮明に覚えています。

Le Seigneur est avec vous
Vous êtes bénie entre toutes les femmes
Et Jésus, le fruit de vos entrailles, est béni

「めでたし、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます」と始まるこの祈りが、燃え落ちる「我らが貴婦人」の大聖堂に向けて捧げられました。

燃える炎の前で歌われた祈りの歌は、薄れゆく記憶に抗うように、今もなおかすかに聞こえてくるようです。

日々の喧騒の中で薄れゆく記憶を、この香りは静かにに呼び覚まします。そして私たちに問いかけるのです。「失われたものの本質とは何か、そして記憶の中に何を留め置くべきか」を。

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Ryota Kobayashi