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アントレプレナーシップ文脈で中学生、高校生に講義をしてみて感じたこと

ここ数ヶ月、東京都の事業の一環として、都内の中学校・高校に外部講師としてお招きいただく機会が続いています。

文脈としては「アントレプレナーシップ教育」でお声がけいただくことが多いのですが、内容は決して起業論一辺倒ではありません。というか僕はほぼ起業について話していません。

これまでの自分の経験を話したり、ワークショップを行ったり、学生が自由研究として取り組んでいるテーマへのフィードバックをしたり、ピッチへの講評をしたりと、学校ごと・現場ごとに求められる役割はさまざまです。

僕はアントレプレナーシップを単なる起業論として扱いたくないので、特段要望がない限りは「多様な人生があるんだよー」という方向性でお話をするようにしています。

正解を教えるというより、一緒に考える、振り返る時間をつくる、そんな関わり方が多いように感じています。

そうした中で、毎回たくさんの生徒たちと向き合ううちに、僕なりに強く残った感覚がありました。

今日はそのことを忘れないようにまとめておこうと思います。

中学生、高校生ってまだ子供なんだな…

こう書くと、少し失礼に聞こえるかもしれません。

けれど現場で向き合ってみて、率直にそう感じたのも事実でした。

精神的に未熟だとか、考えが浅いという意味ではありません。

「まだ子供の延長線上にいる」という感覚に近いかもしれません。私は二児の父なんですが、その延長線上とでも言いますか、まだ大人ではないんだなって思うんです。

自分自身の中学・高校時代を思い返してみると、当時の僕は自分を「子供」だとは思っていませんでした。自分って子どもの延長線上にいるなって思っていた人はあんまり多くないんじゃないでしょうか?

僕は家庭の事情もあり、早くから夜の世界でアルバイトをしていたこともあって少しでも大人として扱われたかったんですよね。

いつも背伸びをしながら、無理にでも“色々と分かったふり”をしていたように思います。ようはスカしていたんですね笑

しかし、今あらためて中高生と向き合うと、彼らは本当にまだ子供なのだとすごく感じるんです。逆に自分はよくこんな幼い状態で夜の世界に入ったな…と、不思議に思います。

強さと脆さを同時に抱えていて、可能性と不安定さが同居している、そんな時期。でも世の中の仕組みについては、ほとんど何も知らないのです。納期、契約、責任、納税…。そういった現実に触れる前段階にいるのは当然のことです。

だからこそなのか、アイデアに向かって突き進む力や、根拠のない確信の強さは大人よりもはるかにあるんですよね。

その未完成さこそが、いまの彼らの最大の特徴なのだと思いました。

強くもあり脆くもある時期だから、柔らかく世界を見てほしい

中学生・高校生という時期に触れていて強く感じたことがあるんですが、この段階で「自分が正しい」「これだけが正解だ」という感覚を持って欲しくないなと思うんですね。

というのも、彼らはまだ「他人」そして「他人の人生」をほとんど知りません。

正直に言えば、37年間生きてきた僕自身ですら他人のことはよく分かりません。自分のことですら怪しいものです。

僕の出来が悪すぎるだけかもしれませんが、それでも15歳や16歳で他人を理解しきろうとするのはどう考えても無理があります。

だからこそ、この時期には、世界をできるだけ柔らかく見ていてほしいと思うのです。

自分の価値観やこだわりを持つこと自体は大切ですが、それを唯一の正義にしてしまうのはあまりにも早いと思うんですよね。

佐伯 胖著 『学びの構造』の中の一文です。

子どもは一貫性を志向し、さらにそれを他にも要求する、とのべた。
しかし、もし子どもをとりまく世界が、完全な一貫性が保たれるだけで、「正義」だけが実行されるとしたならば、これもまた恐ろしい狂気の世界と化してしまう。

自分が正しいという一貫性を、誰かに押し付けることほど無益なことはありません。そこから生まれるのは理解ではなく、対立だからです。

議論は成立せず、学びも深まりません。

双方向で学びが深まらなければ世界は健全に回らないでしょう。

なんだか正義って怖いですね。僕には正義と狂気は表裏一体に見えます。

そんな話はさておき、まずは、相手の世界に関心を持つこと、そして、一度ちゃんと受け取ってみることが大事だと思うんです。

案外学生同士はもちろんビジネスマンへのインタビューとかしたら学びになるかもしれませんね。

子どもたちには「こんな人もいるんだなあ」「こんな考え方もあるんだなあ」と、素直に受け止められる、そんな姿勢を身につけていってほしいなと強く感じました。

机上の「アントレ論」に閉じず、子供達の選択肢を奪わず、より正しい未来を選べるようにするために大人に何ができるだろうか

近年は「アントレプレナーシップ」という言葉が声高に叫ばれていますが、実感がつかみにくい言葉だと思うんです。人によって解釈も違いますし。

体系化されたモデルはあるものの、具体で〇〇をすればいいんだよというレベルにまでは落ちていない印象です。

子供達にはこれから無数の選択肢があります。だから曖昧で耳馴染みのいい「アントレ論」のみを振りかざして接するべきではないというのが僕の考えです。

そう考えたとき、大人はどんな立ち位置で関わるべきなのだろうかと、毎回思うんですよね。

きっとただ単に「答えを指し示すこと」ではないはず。少なくとも、僕はそう感じています。

「こうすればいい」「これが正解だ」と決め打ちしてしまうことは、選択肢を増やすどころか、むしろ奪ってしまうと思うんです。

大人にできることがあるとすれば「問い」を渡すことなんじゃないかなと。

しかし「これを考えてみなよ」「なんでそう思ったの?」と問いを投げて終わりでは意味がありません。渡しっぱなしにせず、一緒に悩み、一緒に考えることが具体の行動として求められると思っています。

そのプロセスを通じて、選択肢は増え、選ぶ力も少しずつ育っていくはずです。どれを選んでも正解になり得るし、しかし同時に間違いにもなり得る。

その不確実さに耐えられるようになること自体が学びなのかもしれません。

彼らが自分で選び自分で未来を引き受けていくために、大人は前に立つのではなく、少し横に立ちながら考える時間を共につくっていけたらいいなと思っています。

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Kentaro Matsuoka