心理的安全性という言葉を、ここ数年で本当によく目にするようになりました。
その背景には働き方の多様化や価値観の変化があるのだと思いますが、実際の現場でこの言葉が使われる場面にふれると、「本来の意味」と「実務での使われ方」に少しずれを感じることがあります。
対立を避けること、相手を傷つけないこと、ひとまず受け入れておくこと。それらは大切な態度ですが、それだけで心理的安全性が成立するわけではないはずです。
むしろ、適切な緊張感の中で議論し、建設的に言葉を交わすための「土台」が心理的安全性ではないかと、最近そんなことを考えるようになりました。
今日は組織論ではなく、ものづくりの現場で日々感じている「心理的安全性」について、自分の視点で書き留めてみたいと思います。
心理的安全性は「馴れ合い」ではないと思う
心理的安全性という言葉を聞くと、つい「みんなが肯定し合う優しい場所」というイメージが浮かびます。(恥ずかしながら、私も最初は誤った解釈をしていました。)
しかし、エドモンドソン教授が指すのはむしろその逆で、対立や異論を恐れずに建設的な議論ができる状態が理想だと説明しています。
つまり、「批判しないこと」ではなく「批判ができること」が安全性なのだと思います。
とはいえ私自身、相手を傷つけたくないからこそ慎重に振る舞い、結果として議論が浅くなる場面があるのも確かです。「相手が落ち込んだらどうしよう」、そうした不安を抱えたまま会話をすると、どうしても言葉に濁りが生まれます。
日本では特に「衝突を避けること」が無意識のマナーのように浸透しており、その延長線上で心理的安全性が「衝突を避ける雰囲気づくり」がと誤解されてしまいやすいのかもしれません。
ですが本当は、衝突しないことが目的ではなく、「たとえ衝突しても壊れない関係性をつくること」、前向きかつ程よい緊張感を常に持てる環境こそが心理的安全性なのだろうと思うのです。
「良い緊張感」とは何か?
では、心理的安全性が生むべき「良い緊張感」とは何でしょうか。あくまで私が感じている条件を挙げるとするならば、以下のようなものです。
- 目的がはっきり共有されていること
- 反論や指摘が“改善のため”だとお互いに理解していること
- 言葉選びの配慮はあっても、内容は濁さないこと
- 批判の矢印が“人”ではなく“事象”に向いていること
- 意見を言っても不利益が生じないとわかっていること
この5つがそろうと、「あ、このチームは話し合っても大丈夫だな」と自然に感じられます。逆に、空気を読みすぎる環境では、場に静けさこそあっても、発言が広がっていきません。
誰も否定されないけれど、誰の思考も深まらない。これは心理的安全性ではなく、単なる「凪」です。
良い緊張感とは、波風立たないのではなく前向きな摩擦が生じることなのだと思います。摩擦は疲れますし、ときに面倒です。それでも、摩擦がゼロの組織は、どこかで停滞してしまいます。
思考の痕跡を見る
ここからは、最近特に強く考えるようになったことです。
制作物のレビューでは、「これは違う」「ここが足りない」と判断しなければならない場面がどうしてもあります。
ただ、その仕上がりだけを見て善し悪しを決めるのではなく、そこに至るまでにどんな思考をたどったのか、思考の痕跡が見えるかどうかで、同じアウトプットでも印象が大きく変わります。
もちろん、準備不足が明らかだったり、目的を理解しないまま形だけ整えたようなものには、率直に改善が必要です。それは単に厳しさではなく、チームとしての責任でもあります。
一方で、結論そのものは的を外していたとしても、そこに至るまでの過程に「どうにか目的に近づこうとしていた跡」が見える場合、それは否定すべき材料ではありません。
むしろ議論を広げるための入口になります。たどり着いた形が少し違っていても、「考えようとしていたこと」そのものは、確かにそこに存在しているからです。
人は完成品だけを差し出しているわけではありません。多くの場合、迷い、仮説を立てながら、未完成の途中経過を抱えて机に向かっています。その途中の揺らぎや痕跡を受け取れるかどうかもまた、心理的安全性を担保する鍵なのだと思います。
レビューや制作現場で心理的安全性を保つ難しさ
とはいえ、デザインや記事、コードといった制作物のレビューになると、心理的安全性は一気に難しくなります。曖昧で優しさだけでは成立しない領域であり、品質を担保しなければクライアントやユーザーに影響が出てしまうからです。
「言いにくいことでも言わなければならない」、そんな場面はどうしても避けられません。それでも、伝え方には工夫できる余地があります。
たとえば、指摘を主観ではなく事実に寄せて話すこと。目的から逆算して「なぜその修正が必要なのか」を示すこと。相手の提案を否定するのではなく、「別の可能性」として提示すること。
どれも魔法のような解決策ではありませんが、受け手の心の負荷を少しでも軽くし、議論を続けやすくするための大切な手がかりになります。
もちろん、私自身これが完璧にできているわけではありません。むしろ反省ばかりです。
それでも、厳格さと優しさのちょうど中間を探し続けることが、制作の現場における心理的安全性を少しずつ育てていくのだと思います。
組織・管理者・メンバー、それぞれの難しさ
心理的安全性は、組織が掲げるスローガンのように見えて、実際にはもっと細かな共同作業です。立場によって果たす役割も異なり、その違いが難しさを生みます。
組織には、安心して意見を出せる制度や場づくりが求められます。管理者は、それを日々のマネジメントの中で運用しつつ、メンバーの感情や迷いにも目を向けなければなりません。両者の間で調整し続けるその負荷は、決して軽いものではありません。
一方で、メンバー側にも、自分の考えを言葉にして、議論に参加しようとする前向きな姿勢が必要です。場がどれだけ整っていても、誰かが声を出さなければ心理的安全性は育ちません。「安全な場」は与えられるだけで完成するものではない、という点は忘れたくないところです。
また、リーダーが背負い込みすぎてしまうのもよくある姿です。チームのためにと尽力するほど、自分自身が疲れてしまいます。心理的安全性は個人の献身では支えきれませんし、その状態では長く続きません。
互いが少しずつ役割を分け合い、「ここなら話せる」と思える空気を整えていくこと。完璧を目指すのではなく、その時々で微調整しながら続けていくこと。
その積み重ねが、チーム全体の心理的安全性を底上げしていくのだと思います。
小さな組織だけれど
私自身の話をすれば、弊社はたった3人という、ごく小さな組織です。
人数が少ないからこそ気をつけなければいけないことも多く、心理的安全性はなおさら揺れやすいものだと日々感じています。誰かの迷いがすぐチーム全体の揺らぎになるし、ちょっとした一言が空気を変えてしまうこともあります。
だからこそ、派手なことはできなくても、一つひとつの対話や姿勢を丁寧に積んでいくしかありません。
完璧には程遠いですし、反省ばかりです。それでも小さな組織なりに少しずつ前へ進んでいくことが、今の私たちにできる精一杯なのだと思います。
心理的安全性は、一度つくったら終わりの仕組みではなく、日々の関わりの中で育て続けるもの。その揺らぎを抱えながら働くことも、ある意味で小さな組織の強みなのかもしれません。