今年初の読書録は思考の整理学。
1986年に発売された本なのですが、すごく本質的で現代でも通用するようなことがたくさん書かれていました。」
特に「編集」という文脈において、久々にとんでもない本に出会ってしまったなという感じです。
情報をただ集めるのではなく、情報と情報をどう関係づけるか。どう寝かせ、どう熟成させ、どう別の価値へ変換していくか。その流れが整理されていました。
私たちはつい、知識を増やすこと自体を前進だと思ってしまうように思えます。しかし本書が扱うのは、知識の量というより、知識の扱い方です。頭を倉庫にするのではなく、工場にする感じ。そのために必要なのは、才能やセンス以前に、思考の工程を設計することなのだと思いました。
「情報と情報をくっつけて新しい情報を生み出す」という編集性において、もっと具体的な情報への向き合い方を提示してもらえたような、そんな気がしています。
個人的に学びが深かった点を書き残していこうと思います。
飛行能力とグライダー能力から見る文化への向き合い方
まず提示されるのが「グライダー能力」と「飛行機能力」という比喩。受動的に知識を得るのがグライダーで、能動的に発明・発見するのが飛行機なようです。
「人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。」
「しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という〝優秀な〟人間がたくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も〝翔べる〟という評価を受けているのである。」
いきなり辛辣な言葉から始まる本ですが、この比喩は非常にわかりやすいですね。
グライダーは風があれば飛べるものの、自分で推進力を持っているわけではありません。いわば受動的な飛行。一方で飛行機は、自分で飛ぶための構造とエネルギーを内側に持っています。いわば能動的な飛行。
与えられた情報をうまく吸収し、再現できる人は多いものの、自分で問いを立て、まだ名前のついていない問題に踏み出していける人は驚くほど少ない。学校教育ではこのようなグライダータイプを量産してしまうという点は本書でも指摘されていました。しかもグライダータイプは「優秀」と評価されやすい傾向にあるようです。なんだか思い当たることが多いような…
さらに文化への向き合い方にも視点が及びます。
「われわれは、花を見て、枝葉を見ない。かりに枝葉は見ても、幹には目を向けない。まして根のことは考えようともしない。とかく花という結果のみに目をうばわれて、根幹に思い及ばない 。」
「明治以来、日本の知識人は欧米で咲いた花をせっせととり入れてきた。中には根まわしをして、根ごと移そうとした試みもないではなかったが、多くは花の咲いている枝を切ってもってきたにすぎない。これではこちらで同じ花を咲かせることは難しい。」
この指摘は知識や学問の話にとどまらず、文化全体にも当てはまる内容ですね。
成果や見た目、すでに完成された「花」ばかりを追いかけ、その背後にある思想や構造、問いの立て方にはなかなか目が向かない。
日本人は模倣が得意だと言われることがありますが、確かにそうなのかもしれません。ただ、それは裏を返すと、自分の頭で問いをつくり、根から考え直す訓練が十分に積み重ねられてこなかったということでもあるように感じます。
疑問を持つこと、問い続けること、能動的に考え抜くことなど、そのような姿勢が弱まると文化はどうしても「加工」と「再編集」に寄っていくのかもしれません。海外で生まれた人気のものを輸入し、分かりやすく整え、大衆向けに組み替える。その作業自体が悪いわけではありませんが、それだけでは自前の文化は育ちにくいと思うんです。
今、日本に求められているのは、風待ちのグライダーではなく、自分の推進力で飛ぼうとする思考のあり方なのだと思います。
根を掘り下げ、問いを持ち、自分の文化的文脈の中で飛行するという姿勢。その姿勢こそが、編集の前提として必要なのだと感じました。
三上、発酵、醸造。思考のために「寝かせる」という考え方
アイデアがなかなか形にならなかったり、考えているはずなのに前に進まなかったり。
そういう感覚は誰にでもあると思うんですよね。僕自身も、書きたいのに書けない、考えているのに輪郭が見えないという状態を何度も経験してきました。そんな自分に光明が刺したのが以下にご紹介する観点。
まず登場するのが「三上」です。
「〝三上〟という語がある。その昔、中国に欧陽修という人が、文章を作るときに、すぐれた考えがよく浮ぶ三つの場所として、馬上、枕上、厠 上をあげた。これが三上である。」
馬の上、枕の上、厠の上は、現代に置き換えるなら、通勤中、枕の上(就寝前/起床後)、トイレの中といったところでしょうか。集中して机に向かっている時間よりも、少し力が抜けた瞬間のほうが、ふとした考えが浮かびやすいという感覚には強くうなずけます。
にもかかわらず、その貴重な時間を何となくスマートフォンを眺めて過ごしてしまうことが多い多い。ショート動画をひたすら見てしまったりとか。
思考が生まれやすい場所を、自分から潰してしまっていると言わざるを得ません。なんと勿体無い。
本書は、そこで生まれた着想を「すぐメモする」ことの重要性も説きますが、僕がより強く惹かれたのは、その先にある「発酵」と「醸造」という考え方でした。
アイデアは思いついた瞬間が完成形ではないという観点で、むしろ、そこからが本番だという姿勢が一貫して語られていました。ひとつの考えをすぐに結論に押し込めるのではなく、あえて寝かせる。時間を与える。
一晩寝てからもう一度考えると、昨日とはまったく違う見え方をしていることがあります。行き詰まっていたはずの問題に、朝になって自然と解決策が浮かぶあの感覚。まさに発酵です。
誰もが一度は経験していることですが、それを「方法」として自覚的に扱っている人は意外と少ないように思いました。
「素材といっしょにして、どれくらいか、はっきり記憶していないけれども、二年か三年はそっとしておいたら、人間は、正本に対して、つねに異本をつくろうとする。」
次に語られる「醸造」は、単なる放置ではなさそうです。
Aというアイデアと別のBという素材が、時間の中でしっかり混ざり合い、いつのまにかAでもBでもない別のものに変わっている状態です。
このプロセスは、まさに編集そのものだと感じましたね。
情報と情報をただ並べるのではなく、時間を媒介にして関係性を変質させ、その結果として、新しい意味が立ち上がるあの編集性。
急がず、焦らず、しかし考えることをやめないという「寝かせる」という行為は、思考を怠けさせることではなく、思考に自由な時間を与えることなのだと教えてくれました。
醸造と編集性
この本を読みながら僕が一番強く引き寄せられたのが「醸造」と「編集」がほとんど同義として語られている点でした。情報を集めることでも、アイデアを思いつくことでもなく「どう組み合わせ、どう並べ、どう時間を通過させるか」にこそ創造性が宿る、という視点です。
もちろんただ情報を混ぜ合わせれば、新しいものが生まれるわけではありません。
むしろ、多くの場合は本書で言う質の悪いカクテル、あるいは「ちゃんぽん酒」になってしまいます。本書はその危うさをかなり厳しい言葉で指摘します。
「AからDまでの説があるとする。自分が新しくX説を得たとして、これだけを尊しとして、他をすべてなで切りにしてしまっては、蛮勇に堕しやすい。Xにもっとも近いBだけを肯定しようとするのも、なお我田引水のうらみなしとしない。AからDまでとXをすべて認めて、これを調和折衷させる。こうしてできるのがカクテルもどきではない、本当のカクテル論文である。すぐれた学術論文の多くは、これである。人を酔わせながら、独断におちいらない手堅さをもっている。」
カクテル論文…。なんかもうほんとすいませんという言葉が自然と出てきます。
「自分の新しさ」をしっかり持たなくてはいけませんし、持ちすぎてもいけない。そうなると思考は一気に貧しくなってしまいます。
本当の意味で人を酔わせる思考とは、複数の視点を引き受けた上で、それらを無理なく共存させる構成力にあるようです。
次の文を見てみましょう。
「独立していた表現が、より大きな全体の一部となると、性格が変わる。見え方も違ってくる。前後にどういうものが並んでいるかによっても感じが大きく変わる。構成部分が同じなら、どのように並べようと、大差はない、などと考える人には、編纂本を作る資格はない。」
この一節は情報発信や文章を書く人間にとって、かなり重たい言葉だと思います。
素材が同じでも、配列が変われば意味はまったく別物になリマス。むしろ、素材そのものよりも、配列のほうが価値を決めることすらあると、そんな指摘。適当に並べればいいよねという感覚で編集に関わってはいけないよと捉えました。
「作者の腕前はむしろ、何をどういう配列で並べるかというところにかかっていたと思われる。創造的才能はむしろ編集に注がれた。」
創造とはゼロから何かを生み出すことだと考えがちかもしれませんが、そうでもなさそうです。創造性は、素材の多寡ではなく、それらをどう扱うかに現れる。つまり、編集そのものが創造なのだという立場です。料理人みたいですね。
「原稿を書くのを第一次的創造とするならば、原稿を新しい、より大きな全体にまとめ上げるのを第二次的創造と呼ぶことができる。」
この「第二次的創造」という言葉は、個人的にかなり刺さりました。梅棹 忠夫著『知的生産の技術』でも触れられていた編集性と被ります。
自分は何かを生み出しているのか、それとも整理しているだけなのか。そんな問い自体が無意味なのかもしれません。整理し、編み直し、配置し直す行為そのものが、立派な創造であるという視点を与えてくれます。
「〝知のエディターシップ〟、言いかえると、頭の中のカクテルを作るには、自分自身がどれくらい独創的であるかはさして問題ではない。もっている知識をいかなる組み合わせで、どういう順序に並べるかが緊要事となるのである。」
「方々へ書いたものを集めて本にし、短篇小説をまとめて短篇集をつくりあげることはごく普通に行なわれているのに、既存の知識を編集によって、新しい、それまでとはまったく違った価値のあるものにする〝知のエディターシップ〟が技法としても、充分自覚されていないのは不思議である。」
知のエディターシップ…。素敵です。が、憧れる反面、自分には全然できていないことも突きつけられたような、そんな言葉。
重要なのは、すでに持っている知識や経験を、どう結び、どう順序立てるか。そしてその結果として、人に届く形になっているかどうかなのでしょう。
編集とは、自己主張ではなく、関係性を設計する仕事なのだとこの文章たちは教えてくれました。
抽象化の重要性
メタ化していく、抽象化していくという観点は、振り返ってみると僕の思考の中でかなり抜け落ちていたように思います。
考えてはいるし、感じてもいるはずなんですが、それを「使える形」にまで引き上げられていなかったという感覚です。
「思考の整理というのは、低次の思考を、抽象のハシゴを登って、メタ化して行くことにほかならない。第一次的思考を、その次元にとどめておいたのでは、いつまでたっても、たんなる思い付きでしかないことになる。」
「本当の整理はそういうものではない。第一次的思考をより高い抽象性へ高める質的変化である。いくらたくさん知識や思考、着想をもっていても、それだけでは、第二次的思考へ昇華するということはない。量は質の肩代わりをすることは困難である。」
「量は質の肩代わりをしない」。どれだけ多くの知識や着想を持っていても、それを高い次元へ引き上げなければ、思考としては成熟しないとのことです。耳がいたい。
この引用を読んで、かなりはっきりと自分の状態が言語化されまして、「思いつきはあるし、情報もそれなりに集めているけど、でもそれらは“第一次的思考”のままで止まっている」んですよね。情けない。
メタ化、抽象化というと、少し難しく聞こえますが、僕なりには「今ある情報を、よりよくするために工夫を施し、使える形に整えること」くらいの感覚で捉えました。
思いつきや、特定の場面でしか使えない考えは、その瞬間は役に立つかもしれませんが、別の文脈では使えません。
汎用性が低い状態のままだからです。
抽象化されていない情報は、再利用がきかないんです。
だからこそ、ただ集めるだけでは足りません。能動的に向き合い、少し距離を取り、寝かせて、別の角度から見直し、組み直す。そうやって初めて、より高次の情報へと仕上がっていくのだと思いました。
そのプロセスの中で、僕が特に意識しようとしたのが「書くこと」です。アウトプットしないと、自分が何を考えているのかが、実はよくわからないんです。どこに熱量があり、どの考えとどの情報を結びつけるべきなのかも、頭の中だけでは曖昧なままです。
書くことで、思考は否応なく形を与えられます。
形にした瞬間に、粗さや弱さ、飛躍が見えます。その作業を通じて初めて、思考は「思いつき」から「使える知」へと変わっていくんですよね。
抽象化とは思考を次のステージに連れていくための、極めて実務的な工程なのだと強く感じました。
結びに:考え、寝かせ、くっつける
飛行機型人間として与えられた情報を受け取るだけでなく、自ら取りに行く。そのうえで、すぐに答えを出そうとせず、考え、寝かせ、熟成させ、醸造させ、そして別の情報とくっつけていく。
この一連の姿勢そのものが、この本の中で一貫して語られていたことのように思います。
読み進めながら、「ああ、これは自分が本当はやりたかったことだ」と何度も感じました。同時に、それをどれだけ実践できていなかったかという未熟さも、否応なく突きつけられました。
- 情報に触れること自体で満足していなかったか?
- 考えきる前に、次の情報へと移っていなかったか?
- 編集する前に、消費して終わっていなかったか?
この本は、そうした自分の態度そのものに向き合うきっかけになりました。
もっと、あらゆる情報に対して敏感でなくてはなりません。そして、ただ集めるのではなく、編集することにももっと意識を向けなくてはなりません。
そのために自分の頭を「倉庫」ではなく、「工場」として使わなくては。
考え、寝かせ、くっつける。
その地味で時間のかかる一連のフローこそが思考を思考たらしめるのだと、改めて自覚させてくれる一冊でした。