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知っているようで意外と知らない、シンプルな世界共通ゲーム「テトリス」のこれまで

自分は1985年に生まれたんですが、自分が生まれた年にはどんな出来事があったのだろうと思い、1985年の主な出来事を調べてみました。

まずは、社会・経済についての主な出来事を振り返ります。

1985年4月、日本電信電話公社が民営化されてNTTに変更。日本専売公社が民営化されて日本たばこ産業、いわゆるJTになりました。どちらも、日本の民営化政策を象徴する出来事ですね。

また、男女雇用機会均等法が成立したのもこの頃です。施行は翌1986年ですが、女性の雇用機会をめぐる制度整備が進んだという点で、大きな転換点になりました。

経済面で特に大きかったのが、1985年9月のプラザ合意です。アメリカ・ニューヨークのプラザホテルで、先進5か国がドル高是正に合意。これにより円高が進み、日本経済や輸出産業に大きな影響を与えました。

その後の金融緩和や資産価格の上昇とも結びつき、プラザ合意は、のちのバブル景気につながる重要な出来事として知られています。

一方、カルチャーの面でも1985年は印象的な年でした。

映画では「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が公開され、大ヒットを記録。タイムトラベル映画の代表作として、現在でも高い人気を誇る作品です。

ゲームの世界では、任天堂のファミコン用ソフト「スーパーマリオブラザーズ」が発売されました。家庭用ゲームの歴史を大きく変えた作品であり、現在まで続くゲーム文化の基礎を形づくった存在といえます。

こうして見ると、1985年は社会制度や経済の転換点であると同時に、現在につながるポップカルチャーが大きく動き出した年でした。

そして、もうひとつ個人的に印象的だったのが「テトリス」です。有名なゲームであることは、多くの人が知っていると思いますが、どこで生まれたのか、誰が作ったのかなどは意外と知られていませんし、自分自身も名前やルールは知っていたものの、その背景については全く知りませんでした。

今回は、そんなテトリスについて深掘っていきたいと思います。

商業ゲームではなく、研究機関の「知的遊び」として生まれたテトリス

テトリスは1984年にソ連で誕生し、1985年前後からコンピューター関係者の間で広がり始めたようです。その後、1980年代後半に世界的な人気を獲得し、ゲーム文化に大きな影響を与えていきます。

つまりテトリスは、任天堂、セガ、ナムコのようなゲーム会社から生まれた作品ではないんです。

テトリスの開発者はアレクセイ・パジトノフ。彼は、モスクワにあるソ連科学アカデミー系の計算センターで働いていたプログラマーでした。初期のテトリスは、Electronika 60というコンピューター上で作られたものだったようです。

ゲームは売ることを前提に企画され、パッケージ化され、広告を打ち、キャラクターやシリーズとして育てていくことが一般的ですが、テトリスの出発点は研究機関で働くプログラマーが、パズルへの関心から作った知的な遊びだったんです。

商業ゲーム会社の企画会議から生まれたものではないので、当然ながら最初から大ヒットを狙って設計されたわけでも、キャラクター展開を前提に作られたわけでもありません。

それにもかかわらず、テトリスは国境を越えて広がり、現在でも幅広い世代に知られているゲームへと成長しました。

始まりは、ひとりのプログラマーの興味からできたテトリス。当初は販売することを目的としていないわけですが、ここからテトリスはどのような変遷を辿っていくことになるのか気になるところです。

研究機関の遊びから、世界へ流通するゲームへ

テトリスが生まれた1980年代は、まだ冷戦の時代でした。

世界は、アメリカを中心とする資本主義圏と、ソ連を中心とする社会主義圏に大きく分かれていました。政治や軍事、経済の面では対立が続いており、東西のあいだには大きな隔たりがありました。

そんな時代に、テトリスはソ連の研究機関で誕生します。

初期のテトリスは、現代のようなカラフルな画面ではなく、限られたコンピューター環境の中で動く非常にシンプルなものでした。

その後、テトリスはソ連国内のコンピューター関係者の間で広がり、やがて東ヨーロッパを経由してアメリカや日本などの企業にも知られるようになります。

ここから、テトリスは単なる研究機関内の遊びではなく、商品として世界に流通する可能性を持つゲームになっていきます。

ゲームボーイ版テトリスを実現させたヘンク・ロジャースの存在

大きな転機となったのが、1989年のゲームボーイ版です。任天堂の携帯ゲーム機「ゲームボーイ」とともに広がったことで、テトリスは一気に世界中の人々に知られる存在になりました。

テトリスがゲームボーイと結びつくうえで、重要な役割を果たしたのがヘンク・ロジャースです。彼はゲーム事業に関わっていた人物で、テトリスの可能性に早くから注目していました。

当時、任天堂は新しい携帯ゲーム機「ゲームボーイ」を世界に売り出そうとしていました。

ゲームボーイは任天堂のハードなので、本来であれば「スーパーマリオ」のような自社の人気キャラクターを前面に出す選択肢もあったはずです。

しかし、マリオを中心に打ち出すと、ゲームボーイは子ども向けのゲーム機という印象が強くなりやすい面もあります。そこで白羽の矢が立ったのが、テトリスだったのです。

テトリスは、キャラクターや物語に頼らず、年齢や国籍を問わず遊び方が伝わるゲームです。そのため、ゲームボーイを「子どもだけでなく、大人も楽しめる携帯型のパズルゲーム機」として広げていくうえで、非常に相性のよいソフトでした。

この判断が、ゲームボーイの普及に大きく貢献したことは言うまでもありません。

ロジャースは、ソ連の国営機関ELORGと交渉し、ゲームボーイ向けのテトリスの権利を確保します。その権利が任天堂にライセンスされたことで、テトリスはゲームボーイとともに世界へ広がっていきました。

この権利交渉の過程は、2023年に映画「テトリス」でも描かれており、テトリスが単なるゲーム作品ではなく、冷戦末期の国際的な権利交渉を象徴する存在だったことがわかります。

テトリスには、複雑なストーリーや派手なキャラクターはありません。落ちてくるブロックを動かし、回転させ、横一列にそろえて消すというシンプルなルールです。

画面が小さく、モノクロ表示だったゲームボーイでも、その面白さは十分に伝わりました。自分も例外ではなく、ゲームボーイで相当やりこんだ記憶があります。

ゲームボーイ版テトリスの成功は、偶然ではありません。テトリスの普遍的な面白さ、携帯ゲーム機との相性、そしてゲームボーイを幅広い層に届けたい任天堂の狙いが重なった結果だったのです。

「個人の発明を個人が売る」ことが難しかった当時のソ連の時代背景

一方で、その裏側では権利関係が非常に複雑になっていました。

アメリカや日本などのゲーム産業では、開発者や会社がゲームの権利を持ち、出版社や流通会社と契約して販売するのが一般的でした。作品がヒットすれば、その利益は会社や開発者に還元される仕組みです。

この考え方は自然に思えますが、ソ連で生まれたテトリスは、そうした仕組みとは異なる環境にありました。

当時のソ連では、ソフトウェアの輸出入やライセンス管理に国営機関ELORGが関わっており、テトリスの権利関係は非常に複雑なものだったようです。

そのため開発者であるアレクセイ・パジトノフは、テトリスを個人として自由に海外企業へ販売したり、ライセンス契約を結ぶことができなかったのです。

その結果、テトリスは世界的なヒット作になったにもかかわらず、パジトノフ自身は長い間、その商業的成功から十分な利益を得ることができませんでした。

1990年代に入ると、ソ連の崩壊を経て、テトリスを取り巻く環境も変わっていきます。1996年には、パジトノフとヘンク・ロジャースによってThe Tetris Companyが設立され、テトリスの権利管理やブランド展開は少しずつ整理されていきました。

これにより、テトリスは単なるヒットゲームから、世界的なゲームブランドへと変わっていきます。

その後も、テトリスはさまざまなゲーム機やパソコン、携帯電話、スマートフォンへと展開されていきました。基本ルールはほとんど変わらないまま、プレイする場所や形だけが時代に合わせて変化していったのです。

テトリスの変遷をたどると、ソ連の研究機関で生まれた小さなパズルゲームが、少しずつ世界的なカルチャーへ変わっていったことがわかります。

結びに

今回テトリスについて調べてみて感じたのは、思っていた以上に大きな時代の流れと結びついていたということです。

テトリスの始まりをたどると、ソ連の研究機関で生まれた知的な遊びが、冷戦末期の国境を越え、任天堂のゲームボーイと結びつき、世界中に広がっていったことがわかります。

さらに、その裏側には、権利をめぐる複雑な交渉や開発者がすぐには十分な利益を得られなかったという現実もありました。その背景には国や制度、ビジネスをめぐる複雑な歴史があります。

テトリスは、1980年代という時代背景を色濃く映したカルチャーのひとつだったのだと感じました。

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Kazuya Nakagawa