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歴史上の人物を少し違う角度から。武田信玄の強さを組織から見てみる

個人的に歴史が好きなので、何かのきっかけで興味を持った人物について調べることがあります。

大きな功績を残した理由はもちろん、その人がどんな性格だったのか、どんな人たちと関わっていたのか。そういうところまで知っていくのが、歴史の面白さのひとつだと思っています。

出てくるのは立派な話ばかりではありません。

「そんなことをしていたのか」と驚くような話があったり、家族や身近な人と激しく対立していたり、教科書で名前を覚えたときとはずいぶん違った人物像が見えてくることもあります。

今回取り上げるのは、武田信玄です。

武田信玄といえば「風林火山」や上杉謙信との川中島の戦いなど、「戦に強い武将」という印象があります。

あらためて調べていくうちに信玄自身の強さだけでなく、その周りにいた人たちや武田家の仕組みにも目が向きました。

今回は少し視点を変えて、信玄のもとにはどんな人たちが集まり武田家がどのように成り立っていたのかを見ていきます。

武田信玄は、どのように勢力を広げていったのか

まずは、信玄が武田家の当主となったころから見てみましょう。

武田信玄は1521年、甲斐国(現在の山梨県)に生まれました。もともとは武田晴信といい、1541年には父・信虎を駿河(現在の静岡県中部・東部を中心とする地域)へ追放し、20歳ほどで武田家の当主となります。この追放には、武田家臣団の動きも関わっていたと考えられています。

その後、甲斐を基盤に信濃(現在の長野県)、西上野(現在の群馬県西部)、駿河などへ勢力を拡大。武田氏は、戦国時代を代表する大名のひとつへと成長していきました。

ここで少し考えてみたいのが、領土が広がった後のことです。

支配する地域が増えれば、それだけやることも増えていきます。各地の城を守る人や土地を治める人、戦で軍を率いる人、外交や政務を担う家臣も欠かせません。

こうして役割が増えていくと、信玄一人ですべてを見ることは難しくなっていきます。

武田氏も勢力を広げるなかで、多くの家臣がそれぞれの場所で役割を担うようになっていきました。

武田家には、どんな人たちが集まっていたのか

武田信玄の家臣というと、「武田二十四将」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。

山本勘助や山県昌景、馬場信春など、信玄を支えた武将たちをまとめた呼び方です。

ただ、信玄の時代に「この24人」と固定された集団が存在していたわけではないようです。

武田家には、信玄の弟・武田信繁のような一門もいれば、板垣信方や甘利虎泰といった古くから仕えてきた重臣もいました。さらに、もともとは武田家の外にいた人たちも加わっています。

たとえば、信濃出身の真田幸綱(幸隆)。

のちに真田昌幸や真田信繁(幸村)を輩出する真田氏の人物で、武田家に仕えてからは信濃攻略などで力を発揮しました。

春日虎綱(高坂弾正)も興味深い人物です。

虎綱は、石和(現在の山梨県笛吹市)の大百姓の出身でした。信玄に仕えた後、次第に大きな役割を任されるようになり、やがて北信濃の海津城を預かります。

海津城は、現在の長野市にある松代城の前身です。当時は上杉勢と向き合う武田氏にとって大切な拠点でした。

大百姓の家に生まれた人物が、こうした場所を任されるまでになったわけです。

また、若いうちから信玄の近くで経験を積み、その後、役割を広げていった家臣もいました。

土屋昌続は金丸氏の出身で、信玄の側近として仕えた人物です。その後は土屋家を継ぎ、駿河出兵では信玄の指令を各部隊へ伝える役割を担いました。

三枝昌貞も若いころから信玄の奥近習衆に加わり、のちに足軽大将へ抜擢されています。

もちろん戦国時代の話なので、現在の会社のような採用制度や人材育成の仕組みがあったわけではありません。

それでも家臣たちの経歴を見ていくと、一門や古くからの重臣だけでなく、外から加わった人や若いうちから経験を積んで役割を広げていった人もいたことがわかります。

勢力を広げるなかで、さまざまな背景を持つ人たちが武田家のなかで役割を担っていたようです。

人が増えれば、ルールも必要になる

人が増え、それぞれが違う場所で動くようになると、考え方や立場の違いも出てきます。

武田家にも一門や古くから仕える家臣、新たに従った国衆など、さまざまな立場の人たちがいました。

信玄は1547年、「甲州法度之次第」と呼ばれる分国法を定めました。最初は26カ条で、その後、内容が付け加えられていったと考えられています。

そこには家臣が守るべき決まりのほか、領地をめぐる問題や争いについてのルールなども記されていました。

人数が少なければ、「言わなくてもわかる」で済むこともあります。しかし、人が増え、それぞれが別の場所で活動するようになると同じようにはいきません。

さまざまな立場の人たちが一緒に動くためには、ある程度の決まりも必要です。

こうして見ていくと武田家で「甲州法度之次第」が定められたのも、自然な流れだったのでしょう。

人だけでなく、暮らす土地にも目を向けていた

ここまで、武田家に集まった人たちや、彼らをまとめるためのルールを見てきました。

もうひとつ見ておきたいのが、武田家を支えていた領国です。

家臣たちがそれぞれの役割を果たしていくためには、その土台となる領国の安定も欠かせません。

武田氏の領国経営を調べていくと、代表的な取り組みとして出てくるのが治水です。甲斐国の中央部に広がる甲府盆地(現在の山梨県中央部)では、釜無川や御勅使川などの氾濫がたびたび起きていました。

山梨県によると、信玄が甲斐の国主となった翌年にも御勅使川が氾濫しています。その後、信玄堤をはじめ、将棋頭や石積出しなどを組み合わせた治水工事が進められました。

今でこそ川沿いに堤防がある風景は珍しくありませんが、当時の甲斐では洪水から田畑や人々の暮らしを守ることが大きな課題でした。

洪水の被害を抑えられれば農作物を安定してつくりやすくなり、人々の暮らしも支えられます。領国を維持していくうえでも、治水は重要な取り組みだったと考えられます。

武田氏の時代には、街道の整備や金山の開発も進められました。

街道が整えば、人や物が行き来しやすくなります。さらに金山から得られる資源は、武田氏の経済を支えるもののひとつでした。

また、甲州金や甲州桝といった仕組みも、武田氏の時代の民政と結びつけて語り継がれています。

人をまとめる仕組みに加え、治水や交通、資源の開発など、領国そのものを支える取り組みも進められていました。こうした基盤も、武田氏が勢力を維持していくうえで欠かせないものだったのでしょう。

それでも、武田家がいつもまとまっていたわけではない

ここまで見ていると、信玄は人を集め、ルールや領国まで整えながら、かなりうまく武田家をまとめていたように思えてきます。

ただ、実際にはそんなにきれいな話ばかりではありません。

そもそも信玄が武田家の当主になった経緯からして、かなり穏やかではありませんでした。

前述したとおり、1541年に信玄は父・信虎を駿河へ追放しています。

信虎が追放された背景には、家臣たちの動きなども関係していたと考えられており、単純な親子げんかとして片づけられる話ではありません。それでも、武田家のなかに大きな対立があったことは確かです。

さらに信玄は、後継者となるはずだった長男・武田義信とも対立しました。

義信は東光寺(現在の山梨県甲府市)に幽閉され、その後、自害しています。

なぜ親子が対立することになったのかについては諸説ありますが、信玄が今川氏への攻撃を進めようとしたのに対し、義信が反対したことなどが背景として挙げられているようです。

この出来事は、親子だけの問題では済みませんでした。

義信の補佐役だった飯富虎昌も謀反の疑いをかけられ、処罰されています。信玄と義信の対立は、武田家の内部にも影響を及ぼしました。

そのころ、信玄の家臣たちは、現在の長野県上田市にある生島足島神社へ起請文を提出しています。

現在も83通が残っており、そこには信玄に対して謀反を企てないことや、敵方に味方しないことなどが記されています。しかも、家臣たちは血判を押して忠誠を誓っていました。

今の感覚で見るとなかなか重い話ですが、それだけ家臣の離反や内部の対立が現実的な問題だったのでしょう。

人を集め、役割を任せ、決まりを整えても、考え方や利害までひとつになるわけではありません。

信玄も、そうした違いを抱える家臣たちをまとめながら、武田家を動かしていました。

武田家の歩みを見ていると勢力を広げることと、大きくなった武田家をまとめ続けることには、それぞれ別の難しさがあったように思えます。

武田信玄の強さを、あらためて考えてみる

武田信玄について調べ始めたとき、私のなかにあったのは「戦に強い武将」というイメージでした。

ただ、家臣たちや領国のことまで見ていくと、その印象は少し変わってきます。

武田家には、一門や古くから仕える家臣だけでなく、異なる土地や立場から加わった人たちもいました。若いうちから信玄の近くで経験を積み、重要な役割を任された人物もいます。

人が増えれば、みんなが動くための決まりも必要になります。さらに、治水や街道の整備など、人々が暮らし、活動する土地にも手が入れられていました。

一方で、父・信虎や長男・義信との対立があり、家臣たちに起請文を書かせるほど、内部のまとまりに気を配らなければならない時期もありました。

人を集めれば、それだけでうまくまとまるわけではありません。役割を任せ決まりをつくり、活動できる環境を整えていく。武田家も、そうした試行錯誤を重ねながら大きくなっていったように見えます。

もちろん、戦国大名と今の会社をそのまま比べることはできません。

それでも今回調べてみて印象に残ったのは、武田氏の強さを支えていたのが信玄一人だけではなかったことです。

「風林火山」や川中島の戦いで知られる武田信玄ですが、その周りで多くの人が役割を担い、武田家全体が動いていたことにも目を向けると信玄の強さが少し違って見えてきます。

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Kazuya Nakagawa