つい先日、奈良県への旅行中に出会った一人の旅館スタッフさんの話を書き留めておきたいと思います。
その方との出会いは、SNSで蔓延する情報群に辟易していた時期と重なっていました。
日々画面に流れてくるのは妙に豪華な生活、成功のためのマインドセット、非日常的な風景の数々、感情を過剰に表現する人、何やら踊っている人たち、妙な寸劇…
などなど、なんだか手触り感のない虚構ばかり押し付けられていることも、そしてそれを欲する空気が広く共有されていることにも次第に疲れを覚えるようになりました。
目立つことを優先し、表面的な数字に囚われるあまり、情報の豊かさよりも「視覚のインパクト」が優先される時代。
派手な嘘が誠実な真実よりも魅力的に映り、そんな倒錯した空気が私たちを取り囲む。そんな情報の海に少々うんざりしていたのです。
「本当の豊かさって何なのかなあ…」
そんな問いを抱えて彷徨っていた時、一人の人物との出会いがありました。
決して表舞台には立たず、しかし本質的な情報をひとり黙々と追求し続ける人。その人が持つ異様なまでの熱量と、それによって培われたあまりに深い知識。決して表層的な輝きではなく、内側から湧き上がる好奇心を追い求め続ける姿勢。
派手な光に目を奪われるのではなく静かに燃える炎に手を伸ばすような、歴史が紡いできた小さな声に耳を澄まし続けるような、そんな人のことを書いてみます。
ある旅館スタッフさんのこと
特定を避けるため場所は明記しませんが、古都の片隅にたたずむ一軒の宿に身を寄せた日のことです。
その旅館で近隣の名刹を巡る解説ツアーが開催されていると聞き、何気なく家族で参加することにしました。そのツアーの案内役は旅館の清掃や受付を担当する若いスタッフの方だと伺っていました。
仮に「Aさん」としましょう。
これまでにも同様のツアーに幾度か足を運んだ経験から、私は観光名所の一般的な説明と写真撮影ポイントの紹介のような内容なのかなと予想していました。
しかし、その浅はかな想像はすぐに打ち砕かれることになります。
私たちを待ち受けていたのは、想像を遥かに超える知識の深淵でした。
寺院という存在が持つ空間的象徴性への歴史的考察、朱や漆などの色彩が持つ意味合い、建築様式とその素材の変遷、木材の伐採から乾燥、加工技術の変化、そこから読み解ける時代の精神性。仏像の指先一つに込められた狙いや祈り、経年によって深まる壁画の意味などなど。挙げ始めるとキリがありません。
一体なぜこれほどまでの知識を持ち合わせているのかと驚くような話が、まるで古井戸から湧き上がる清水のように次々と紡ぎ出されていきました。
その語りは非常に明瞭でありながら、どこか懐かしさを帯びているようでした。まるで親しんだ映画の音声を聞いているような、あるいは千年以上の時を超えて語りかける声に耳を傾けているような感覚です。
さらに衝撃的だったのは質疑応答の時間です。参加者が少し的外れとも言える角度の質問をしても一度もたじろぐことなく的確に応え、さらに補足となる歴史的文脈や背景知識までもが添えられる。
その応答力には、ただただ圧倒されるばかりでした。
ある博識な参加者がAさんの知識を試すかのように「この寺の背後にある政治的文脈を知りたい」と少々専門的な質問を投げかけた時のことです。Aさんはまるで自身がその時代に生きていたかのように、当時の権力構造と宗教政策の複雑な絡み合いを解き明かしていきました。しかも巧みに伏線回収をするように、説明の終わりには冒頭で触れていた謎が明かされ、鳥肌が立つような知的興奮に包まれたことも覚えています。
また、他の参加者が「なんでこの仏さまはこのような顔をしているのですか?」と素朴な疑問を投げかけました。私は恥ずかしながら、仏像の表情について深く考えたことはありませんでした。言われてみれば確かに、それぞれの仏像は微妙に異なる表情を湛えています。
Aさんは仏像の表情に込められた微細な意匠の違い、各時代の仏師たちの流派による表現技法の特徴、表情が伝えようとする救済の思想までもを、まるで古来の物語を語るように伝えます。まるで前夜から用意してあったほど滑らかに。
知識の交歓とでもいうのか、その場で繰り広げられるさまざまな質問とあまりにも深い回答にただただ驚くばかりでした。旅館スタッフという日常の姿と、千年の時を自在に往還する知の案内人という姿が目の前で重なり合い、揺らめいていました。
単に好きなことを追いかける強さ
もし学生時代の歴史の先生がこの方だったら、どんなに楽しかっただろうか。そう思わずにはいられないほどの感銘を受けました。
ツアー終了後、人がまばらになった境内でAさんに話しかけてみました。
なぜそこまで詳しいのかと。
Aさんの言葉は意外なものでした。
自分は元々理系の人間なのだが、中学生の頃から仏像や仏教に魅了され、文献を読み漁り、各地の寺社仏閣を訪ね歩いた結果、仏像や寺院、仏教、ひいては日本の歴史全般に「異常に」詳しくなってしまったのだと。今もなおその学びを継続しているとのことでした。
休日には遠方の寺社へと足を運び、専門書や古文書の解読に夜を明かすこともあるようです。理系の思考と文化財への情熱が交わる特異点のような存在。その姿に私は、現代に生きる求道者の影を見た気がしました。
定期的に人前で話す機会を重ねるうちに、いつしか熱心なファンも増えていったようです。僧侶の方々がわざわざ尋ねてくることもあるほどだそうです。その道のプロフェッショナルをも凌駕する知識を持つに至っていること、これまでのお話を聞けば納得ではありますが、驚きました。
結果、Aさんの周りには自然と本物の知識を求める人々が集まり、寺社の関係者、学者、工芸家、そして私のような旅行者が、Aさん紡ぐ知識の糸に導かれて繋がっていく。Aさんを中心としたある種の文化的コミュニティも形成されているようです。
それは目に見えない文化の継承であり、SNSで「映える」こともなく「いいね」という数字で測ることもできない、本質的な豊かさの交流でした。
そして今、私もまたその感化を受けた一人となり、仏教の奥深い世界へと足を踏み入れつつあります。
最も印象的だったのは、ツアーの最後にAさんが語った言葉です。
「私は単に好きなことを追いかけているだけです。この国の美しさを、次の世代に少しでも伝えられたらと思って」。
その言葉には、華やかな成功や派手な承認を求めない、静かで確固たる情熱を感じました。
派手な嘘ではなく静かな真実を突き詰めることの大切さ
派手な嘘が静かな真実より目立つ時代。
しかしAさんはそうした表層的な時代感とはある種無縁の場所で、純粋な知的探究を一人続けていました。
進んで表舞台に立つことなく、ただ純粋な情熱によって深められた知識の海。派手な演出も華やかな装飾もなく、静かに燃え続ける炎のような存在。
そこには、私たちが忘れかけていた「本物の豊かさ」があるのかもしれません。
そのような深く静かに燃える熱量はいずれ周囲に伝わるものです。
Aさんが突き詰めた知恵は、まるで古の灯明のように人を集め、緩やかながらも強い文化的紐帯を形成していく。それは「虚構としての情報発信」ではなし得ない、本質を基盤とする繋がりなのでしょう。
派手に主張することなく、日常に溶け込みながらも、一歩踏み込めば無限の深みを湛えている。それは日本の美意識の核心なのかもしれないとすら思うのです。
そして私はその日以来、仏像の手のかたちや寺院の柱の佇まいに、以前とは違う物語を見出すようになりました。
熱や知識は伝染するのです。
真摯な情熱は、静かに、しかし確実に、人から人へと広がっていくのでしょう。
表層的な輝きではなく、内側から湧き上がる好奇心をたった一人でも追い求め、人に伝えていくこと。派手な光に目を奪われるのではなく、静かに燃える炎にこそ価値を見出すこと。それがどれほど大切なことか。
そんなことを教えてくれた、奈良の古都での忘れられない出会いでした。