散らかった自室の整理をしている途中、一枚の写真を見つけました。
今年の初め、とある写真家の展示会に訪れた際に購入したポスターカードのようです。
目の前のことに忙殺されてしまいすっかり忘れていました。なので今日は、部屋と記憶の整理がてら、その時に感じたことを書き連ねてみようと思います。
写真に意味を求める行為
私たちは写真家の撮影した一枚と向き合う時、何かそこに特別な意味や示唆を求めてしまうことが多いと思います。
大きなフォトフレームの中心にポツンと置かれていて、その周囲にはたっぷりと余白が残されている。そこに特別でない写真を収めるわけがないと、無意識のうちに信じ込んでいるのです。
実際、著名な写真家の切り取った一枚には、何らかのメッセージが込められていたり、被写体以外のコンテキストも含めて一枚の作品として展示されることが多いと思います。
私も、ささやかな一枚に写し取られた、彼ら彼女らの喜怒哀楽や背景に想いを馳せるのが大好きです。それは今でも変わりませんし、この先も変わらないと思います。
ですが、全ての写真がそうではないかもしれない、と思い知らされたのが、その作品の大半を公表することなくこの世を去った伝説の写真家、ソール・ライターの存在でした。
窓から覗いたような世界
展示会で彼の写真を見て、最初に感じたのは「なんだか覗き見しているような気分になる」ということでした。
いくら公開された写真であっても、なぜか私だけが偶然見つけてしまった瞬間のように思えるのです。
彼の写真の多くには主要な被写体の一部を遮らんばかりの「障害物」があります。雨に濡れた窓ガラス、霧がかかったショーウィンドウ、雪に埋もれたベンチの一角。
何と表現したら良いのかわからないのですが、これらは「偶然そこにあった」のではなく、「必然的にそこにある」と感じさせる力を持っているようです。
見過ごされてしまうような、日常の断片を拾う
ソール・ライターが映し出す世界は、決して特別なものではありません。
着飾ることなく、どことなく等身大で、そして誰かを啓蒙したり、教え導くような、そんな押し付けがましさもない。
彼が切り取るのは、ニューヨークの街角、雨の日の通行人、窓辺の花瓶。これ以上なくありふれた風景。なのに、そのファインダーを通して映された日常はどこか色彩的で、詩的で、儚いものばかりなのです。
「写真は、しばしば重要な出来事を取り上げるものだと思われているが、実際には、終わることのない世界の中にある小さな断片と思い出を創り出すものだ」
彼の遺したこの言葉を、忘れることができません。
私も毎日の通勤途中、同じ道を歩き、同じ電車に乗り、同じ景色を見ています。
でもその中に本当は無数の「小さな断片」が隠れていて、それに気づくことなく過ごしているのかもしれない。そう思うだけで、今まで過ごしてきた時間に対して、申し訳なさと寂しさが入り混じった何とも形容し難い感情が湧いてきます。
没後に咲く
余談ですが、ソール・ライターが世間から注目されたのは晩年になってから。いえ、むしろ没後になってようやく日の目を見ています。
人生、いつ花開くかわからないものです。(没後を人生とは呼ばないかもしれませんが…)
私たちの日常もまた、後から振り返ったときにこそ、その価値が明らかになることがあります。ソール・ライターがそうだったように。
だからこそ、今日見た景色、感じた空気、出会った人々のことを、少しだけ意識的に記憶にとどめておこうと思います。それらすべてが二度と同じ形では現れることなんてないのですから。
そしていつか振り返ったとき、それらが私の人生を豊かに彩る「小さな断片」だったら幸せなことだな、と。ぼんやりと思いました。散文ですみません。