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  • Editorial
  • Ryota Kobayashi

終了していくブログサービスに想う、私のインターネット黎明期

32歳になった今、インターネットの昔の風景をふと思い出すことがあります。

当時、特別に詳しかったわけでも、何かをせっせと作っていたわけでもありません。現在は当然のように触っているHTMLも当時は全く知りませんでしたし、大流行したMIDIなんて触ったこともありませんでした。

それでも、あの頃のウェブの世界には、今とは違った温度やにおいのようなものがあったと感じています。

たとえば、私を含む多くの人にとっての黒歴史でもある「前略プロフィール」をほんの少しカスタマイズしたり、好きなゲームのレビューをブログに書いたり。誰もが等しく発信者であり、読み手でもある。そこには、小さな表現が無数に浮かんでいて、誰かの声が画面越しにうっすらと届いてくるような感覚がありました。

あれから多くのブログサービスが生まれ、そして惜しまれながらも姿を消していきました。目まぐるしく変わる技術の中で、あの頃の「手ざわり」は少しだけ遠ざかってしまったように思えます。

あたりまえだった、少し不格好ながらも優しいインターネット

私は小学校6年生のとき、初めてパソコンに触れました。なんと20年も前のことです。数字の足し引きが極端に苦手なため、現在の年齢のことはよく分かってはいません。

当時、すでにインターネットは割と身近な存在で、友人の家に行けば検索エンジンを使って好きなアーティストの画像を探したり、攻略サイトでゲームのヒントを調べたりしていました。学校終わりに友達の家へ訪れたかと思えば、これといって何か談笑するわけでもなく、ただお互いの面白いと思った

当時の個人サイトは、どれも手作りのような趣があったことをよく覚えています。

まるでパワーポイントNGデザイン集のようなカラフルな背景、やたらと点滅するGIFアニメ、謎の来訪者カウンター、キリ番踏みに逃げ禁止。(ここで意識が遠のいていく…)

今振り返ると少し不格好にも思えますが、それぞれのサイトに、その人なりの工夫やこだわりが宿っていました。

私自身は、そういったページを作ったわけではありません。ただ、それが日常の一部として、自然にそこにあったのです。自分も「何かを書いていいらしい」と思わせてくれる、ゆるやかで、ちょっと不思議な時代でした。

個人ブログという、ささやかな表現の場

中学生になると、ブログが身近になりました。

JUGEMやFC2、ヤプログといったサービスが次々に登場し、誰もが気軽に日記のようなものをインターネットに載せれるようになる時代が訪れます。

私が初めて作ったブログも、音楽やゲームの話題が中心でした。特にプレステ2のゲームはよく取り上げていたと思います。「クリアした感想」「ボス戦が難しかった」といった、誰の役に立つともわからない文章を、夢中で書いていました。

書いているうちに、「誰かが読んでいるかもしれない」と意識するようになり、文章を見直したり、画像を添えてみたり。コメントがつけば嬉しくなって、次回の更新のモチベーションになったこともありました。

大げさに言えば、あれは自分なりのメディア運営だったのかもしれません。

質素なテンプレートに載せたその文章が、ほんの少しだけ、誰かの時間を埋める。それがインターネットの面白さだと、自然に感じていたように思います。

あの頃の情報の探し方

今では「◯選!」「完全ガイド」など、整ったまとめ記事を目にすることが当たり前になりました。けれど、当時の検索はもっと泥くさくて、試行錯誤の連続でした。

まだ検索エンジンのアルゴリズムも今ほど洗練されていなかったからことも理由の一つかもしれません。とにかく、探したい情報にたどり着くには、それなりの工夫が必要だったと記憶しています。

たとえば、ゲームの攻略情報を探すとき。

「ゲームタイトル+攻略」だけではたどり着けず、「○○ 裏技」「○○ ステージ名 ボス」など、複数のキーワードを掛け合わせてようやくヒントを見つけ出す、ということがよくありました。

その分、偶然たどり着いた個人サイトの充実ぶりに驚いたり、そこにしか載っていないような深掘り情報を発見したときの喜びはひとしおです。

また、個人の語り口にはAIや編集者による整った文章にはない、熱っぽさや独特の癖がありました。それは読みづらさでもありましたが、今になって思えば、発信している“人”の存在がにじみ出ていたのだと思います。

消えていったサービスと、記憶に残るもの

インターネットが成熟するにつれ、さまざまなサービスが生まれては、姿を消していきました。

たとえば、「Yahoo!ジオシティーズ」は2019年に、「teacup」は2022年に、「旧FC2無料ホームページスペース」も2025年の6月末にサービスを終了しました。

ブログサービスでいえば、ヤプログ、So-netブログ、そして執筆時点ではgooブログの終了も発表されています。

いずれも、かつては多くの人が利用していた場所です。特別な何かを残していなくても、自分の言葉が一時的にでもそこに存在していたというだけで、不思議と懐かしく感じてしまいます。

その一方で、閉鎖や終了という言葉があまりにも日常的になってしまった今、私たちは少しずつ、“消える”ということに慣れてしまっているのかもしれません。

情報発信って、どうあるべきだったんだっけ

技術の進歩が目覚ましい昨今、情報を得ること自体はずいぶんと楽になりました。

検索すれば答えが見つかり、AIに聞けば文章まで返ってきます。とても便利で、効率的で、素晴らしい技術ばかりです。私自身も業務でお世話になる機会も圧倒的に増えました。

けれど時々、自分の手で汗をかいて調べ、必死にまとめ、言葉にしていたあの頃の空気を思い出すことがあります。

それは「誰かのため」というよりも、まずは自分自身のための行為でした。自分が読み手としてその内容に満足できるかどうか、ただその点だけを重視して文字をしたためていたように思えます。

でも、結果的にそれが誰かの役に立ったり、知らない誰かの背中を押したりしていたのだとしたら、それはとても豊かなことだったのではないか、と。

効率が重視される今だからこそ少しだけ立ち止まって、「時間をかけて書かれたもの」の価値を見直したい。そう感じる瞬間があります。

決して懐古主義に浸るわけではなく

この話をすると、「ここはインターネット老人会ですか?」と笑われてしまうかもしれません。

でも、たしかにあの時代を体験してきた者として、あの風景を見届けたことを、今では少し誇らしく思っています。

完璧ではないけれど、懸命に言葉を紡ぎ、発信していた数えきれない人たち。彼らが残してくれたものが、今の情報の土台を支えているのだと思います。

そして私自身もまた、少しずつですが、言葉を残す側でありたいと思っています。大好きなお菓子をつまみながらブログを書いていた若き頃のように、静かにゆっくりと。

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Ryota Kobayashi