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「読書録」白

「読書録」白 (原研哉 著)

「白は感受性である」

原研哉さんの著書「白」はこの一文から始まります。白があるのではなく、白いと感じる「感受性」があるのだと。

私たちが日常的に目にする白という色は、実は深い文化的背景を持つ「受容の器」です。

色としての白、日本文化における空白の意味、そして現代における「エンプティネス(空っぽ)」の価値。本著は、私の日常に溢れる「白」の意味を捉え直すきっかけとなった一冊です。

受け入れる「器」としての白

「白」を読み進めて最も心に残ったのは、白が「受け入れる器」として機能するという視点です。

冒頭の「白は感受性である」という言葉は、本書の核心を表しています。白は自らを主張せず、何かが生まれるのを待っている状態なのです。

日本語の古語「いとしろし」にも、この本質が表れています。

白は単なる色ではなく、神聖さや清浄さ、そして何かを受け入れる器としての意味を持っていました。神社の白木や白い紙も、神を迎え入れる「器」としての役割があったのです。

また、白は物理学的には全ての光の波長を反射する状態です。しかし不思議なことに、私たちの感覚では「何もない」空白として認識されます。矛盾しているかもしれませんが、白は「色」であると同時に「色の不在」を表しているのです。

不在というのは空っぽとか、虚無とかそういった消極的な意味ではありません。むしろそこには「これから何かが生まれる場所」であるという「予兆」や「可能性」が秘められています。

色彩性の不在は「機前の可能性」を秘める

本書では白を「色は発色の未然、つまり機前の色」と表現しています。何も起きていないようでいて、何かが起きる直前の状態。

身近な事象で例えるならば、新しいプロジェクトが始まる前の一瞬の静けさでしょうか。

デザインワークを行うとき、最初に真っ白なアートボードと向き合います。アイデアがまとまらず、ただ白い画面を眺めることもあります。でも、その「何もない」時間こそが大切な気がします。

白い画面はまだ何も決まっていない状態、つまり可能性に満ちた空白です。この「未発の状態」が、創造の源泉になっているのかもしれません。

日本文化に息づく「空白(エンプティネス)」の考え方も、この白の本質と深く関わっています。たとえば、美術館で日本画を見るとき、描かれていない部分に目が行くことがあります。描かれた対象より、むしろその周りの空白に惹かれることが多いのです。

音楽を聴くときにも、音と音の「間」に心が動かされることがあります。

とりわけジャズの世界では、演奏者が音を出さない瞬間、沈黙の中に緊張感が高まり、次の音が生まれる期待感を生み出す。その「間」の感覚こそ、白が教えてくれる「機前の可能性」の一つなのかもしれません。

余談ではありますが、ジョン・ケージの「4分33秒」もまた一つの「白」を体現した作品だと思います。彼自身、美術家のロバート・ラウシェンバーグ氏の作品「White Paintings」というシリーズに影響を受けていると公言していたそうです。

聴衆に様々な解釈を委ねる「無音の時間」は、本書にも登場する長谷川等伯の「松林図屏風」の見せる余白のあり方と通底している部分も多いように感じます。

白い紙が世界を変えた

もし原始、紙という存在そのものになんらかの色がついていたら、今頃世界はどうなっていたのでしょう。

偶然、紙が色としての属性を持たず、ただ白くハリのある存在として誕生したからこそ、今の文明があるのかもしれません。

真っ白な紙は想像の源泉のような、無限に広がる宇宙のような存在です。

白には、ことが始まる前の無垢な静謐さや、膨大な成就を呼び込む未発のときめきがたたえられている

この言葉が胸に響きます。紙は実用性だけでなく、人の創造性そのものに計り知れない影響を与えてきたのです。

これは石器時代の石斧にも通じる考え方です。石斧の重量感、テクスチャ、加工適正が人間に「何かをしたい」という衝動を起こさせる。握れば何かを作りたくなる力が秘められていたからこそ、石器文化が発展したのでしょう。

白い紙にも同じ力があります。見れば何かを書きたくなる、描きたくなる、創りたくなる、そんな衝動を呼び覚ます力。

私自身、コピー用紙が好きでたまりません。あの冷ややかなオフィスの壁のようなキリッとした白が思考を澄み渡らせ、雑念を削ぎ落とし、目の前のタスクだけに集中させてくれます。思考が混沌としてきたら、また新しい紙に取り替える。

自分にとって白い紙の存在はとても大きく、この文章をしたためる今も、思考の整理として横に白いルーズリーフを置いています。白い紙は単なる書く場所ではなく、思考を受け止め、整理し、次なるステップへと導く「器」なのです。

人の好みを受け入れる「器」という視点のものづくりに惹かれて

この書籍を読む遙か前から、私は無印良品のファンです(良品週間、いつもお世話になっています)。

ダイニングテーブルも、ペーパーコードチェアも、シェルフも無印で購入したものばかり。なぜ無印の商品ばかりを購入してしまうのか、自分でも理由はよくわかっていなかったのですが、ようやく腑に落ちました。

私自身、「かくあるべし」というデザイナーの意図や狙いが込められすぎている製品があまり好みではなく、「好きにしていいよ、自分が心地よいと感じる方法で使ったら良いじゃない」そんなあり方のプロダクトに惹かれるのです。

無印良品のプロダクトは、私の好みを受け入れてくれるまさに「器」です。表面的には木目や麻といった素材で形作られていたとしても、そのデザインの根幹に流れる理念、クラフトマンシップの背後にある「白」に無意識のうちに反応していたのかもしれません。

原さんは無印良品のコンセプトについて「『が』ではなく『で』」という言葉で表現しています。「これがいい」ではなく「これでいい」という満足感をユーザーに与えること。

ただし、その「で」にもレベルがあり、できるだけ高い水準に掲げることが目標だと。主張しすぎず、かといって品質を妥協せず、使う人に寄り添う「器」としてのデザイン。

ふんわりとした概念ですが、少しづつ私にも「白」の輪郭が見えてきたような気がします。

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Ryota Kobayashi