私たちは日々、さまざまな情報に、文字に触れ、そこに立ち現れる意味を読み取ろうとしています。
しかし、そのとき私たちは本当に何かを「読んで」いるのでしょうか?
スマートフォンの画面をスクロールし、浮かび上がるテロップや短い文、鮮やかな画像や煌びやかな動画を次々と目にしては消していく日々。
それらは確かに文字や情報とのコミュニケーションではありますが、どこか「読む」という行為からは遠ざかっているようにも感じます。
これは果たして「読んでいる」のか、それともただ、「見ている」だけなのか。そんな問いが、ふと心に浮かぶことがあります。
気がつけば、私たちの情報との関わりはいつの間にか「速さ」や「楽さ」に追い立てられるものになってはいないでしょうか。
「読む」とは、本来どんな営みだったのか。そしてそれは、いまどこへ向かっているのか。
今回はそんなことを考えてみました。
「読む」とは何だろう?
私たちは日々、なにかを「読んで」います。
駅の看板、ニュースのテロップ、SNSの広告文。目の前に文字が並ぶかぎり、私たちはそれを無意識に追い、なんらかの情報を受け取っています。
しかし、私がいま考えたい「読む」ということは「単に文字を認識するため」の営みについてではありません。
情報の背後にある構造や意図を感じ取り、深く考え、自分自身の中にあるもので応答していく。そんな「読む」について、改めて立ち止まって考えてみたいのです。
目に入る記号を、意味に変換し、自分のなかで反響させる。そしてそれを、自分の知識や経験と照らし合わせ、言葉と言葉のあいだにある余白に、自らの思考を差し込んでいくこと。
私にとって読むとは、そういう行為です。極めて静かでありながら、非常に能動的です。
あるいは「記号と意味のあいだにあるギャップにもうひとつ別の意味を生み出すこと」と言ってもいいかもしれません。
それらを丁寧に編み直すことと考えれば、「読む」とは非常に編集的な行為でもあるのかもしれませんね。
さて、人が情報に触れる手段は本当にたくさんあります。
例えば画像や映像を「見る」、音声を「聞く」こともそうですね。
それらは情報の即時性や直感性に優れ、感覚的に届きやすいものです。けれど、だからこそ受動的な側面もあります。こちらの準備や構えとは関係なく、向こうからやってくる情報に、ただ身を任せることも多いのです。
それに対して「読む」という行為は決して速くなく、直感的でもありません。
むしろ、ゆっくりとしか進まず、面倒なものです。
文字の列を追いながら、文脈をつかみ、語り手の意図や沈黙に耳をすますようにして、少しずつ深く降りていく必要があります。
往々にしてすぐに正解にたどり着くことはなかなかできません。
だからこそ、読むという行為は旅のような楽しさがあります。
自分が探している情報にまっすぐ向かうわけではなく、むしろ寄り道や回り道の中で思いがけず本質に出会うことがあります。
そのプロセスこそが、読むということの本質ではないかと思うのです。
読むとは、言葉と思想のあいだに生まれる距離に立ち止まり、自らの感情や問いを差し挟むような「ゆっくりとした能動性」を内包する作業です。
そして、読むことが深い知識や洞察へとつながるのは、この能動性の介在があるからに他なりません。
もちろん、そこには「よい読み物」との出会いも欠かせません。質の高い言葉、深く掘られた思考、余白を残す表現など、優れたテキストは読む者の思考を遠くへ連れていってくれます。
深い考えに触れ、それによって深く考える。そのなかで、私たちはときに、自分でも気づかなかった感情や問いに出会うことができます。
読むとは、他者の言葉を通して、自分自身の思考へと静かに潜っていくための行為であると、私にはそう思えてならないのです。
テキストは残っていても、読む前提が消えていないか?
近年、私たちが日常的に触れるコンテンツの多くは、「読むこと」を前提としていないように感じます。
たとえばSNSでは、画像や動画が主役となり、テキストは添え物のように扱われます。ウェブメディアも、「すべてを読ませる」よりも「必要な箇所だけ拾わせる」ことが設計の中心になりつつあります。
コンテンツの構成もまた変化しています。
長い文章よりも、箇条書き、要点のハイライト、結論ファーストが求められ「読み進める」というよりは「スキャンする」ことを前提に作られているケースが増えてきました。
動画や音声コンテンツが普及したことも大きな影響を与えています。
Podcast、YouTube、リール動画…それらは間違いなく優れたメディアですが、「聞けば済む」「見ればわかる」情報があふれた結果として、「読んで考える」という回路が少しずつ鈍ってきてはいないでしょうか。
書かれた言葉にゆっくりと向き合うという姿勢が、設計思想として後景に退いている。それが「読むこと」を前提としないコンテンツの増加に、確かに現れているのだと思います。
もちろん、読むことに比べて視覚や聴覚に訴えるメディアのほうが即時性や利便性に優れているのは確かです。
忙しい現代において、それらが支持される理由もよくわかります。
しかし一方で、コンテンツそのものが「読まれないこと」を前提に設計されていくことには、どこか危うさも感じてしまうのです。
読むことには、時間をかけて深く考えるための設計が必要です。
けれど、今は多くのコンテンツが「思考のため」ではなく「即応のため」に作られているような気がします。
読むことを前提とした世界が少なくなるということは、読む力を必要としない社会へと、静かに移行しているということかもしれません。
読むことは、単なる情報取得手段ではありません。
それは思考の器をつくる行為であり、他者の思想や感情に触れ直すための窓であり、自分の内部へと深く潜る旅でもあります。
その旅を軽んじることは、問いを立てる力を手放し、思考する力そのものを痩せさせてしまうことにつながりかねないと思うのです。
もちろん、わかりやすい情報にすぐアクセスすることは、現代を生きるうえで欠かせない技術です。しかし、豊かな人生を歩むために、それだけでは不十分なのではないかと感じてしまうのです。
読むことの軽視は、沈黙の軽視であり、遅さの軽視であり、ひいては「考える時間」の軽視にほかなりません。
だからこそ、あえて読むという行為に立ち戻りたいのです。そこには確かな意味があると私は思っています。
人類はいつから「読む」をしてきたのか
さて、人はいつから「読む」ということをしていたのでしょうか。
文字が発明されたのは、今からおよそ五千年前、メソポタミアの地においてだと言われています。
粘土板に刻まれた楔形文字は神殿への穀物の納品記録や、取引の覚え書きといった実利的な目的のために生まれました。読むこととは、情報を保存し再生する技術であると同時に、世界を記号によって記述し直す試みでもあったようです。
当時、文字を読み書きできたのは一部の神官や書記といった特権階級のみでした。
読み書きの力は、民衆の言葉とは異なる次元で物事を操作する力と結びつき、ある種の権威を生み出しました。国家が民を統治し、宗教が信仰を制度化する際、「読む」という行為は重要な道具であり続けました。
読むことは、支配と管理の手段でもあったのです。
やがて文字文化は、紙と筆、羊皮紙やパピルスといった素材とともに発展を続け、古代ギリシア・ローマ、中国、イスラム圏など、さまざまな文明圏で独自の知の体系を築いていきました。
中世ヨーロッパでは聖書や哲学書の写本が修道院に置かれ、読むことは神とつながるための内省的な行為でもありました。しかしその一方で、異端審問や弾圧の根拠として聖典が「引用される」場面も多く、人を救う言葉は時に人を裁くために読まれることもありました。
転機となったのは15世紀、グーテンベルクによる活版印刷技術の発明です。
印刷革命は「読むこと」を限られた階級の特権から徐々に人々の手元へと解き放ちました。知識が複製され、拡散されるようになり、宗教改革、科学革命、啓蒙思想といった時代のうねりとともに、読むことは変化の触媒となっていきました。
しかし、読む力が広がれば広がるほど人はその言葉を誤読し、あるいは意図的に歪めて用いるようにもなりました。
ナショナリズムの高まりやプロパガンダの蔓延といった歴史の影には、巧妙に「読ませる」技術があり、書かれた言葉は人を煽り、対立を正当化する道具にもなったのです。
読むことはつねに中立ではありません。人を、文化を育む手でもあり、同時に破壊する手でもありました。
それでもなお、読むことは今日にいたるまで無数の人生を静かに支えてきました。
戦争や災害を越えて、焼かれた図書館の瓦礫から立ち上がるようにして、読むことは何度も蘇り、書くこととともに人と人とをつなぐ力を持ち続けています。
人は読むことで間違いを犯してきたこともありました。しかしまた、読むことでしかたどり着けない豊かな真実も存在しています。
人の手によって記された言葉を、別の人が読み取る。その流れのなかで、私たちは無数の声を聞き、思考し、誰かのまなざしを自分の中に迎え入れることができます。
読むとはただ情報を得ることではなく、他者の経験や思想、願いを受け取ることでもあり、それによって自分をつくり変えることでもあります。
そこにこそ、読むという営みの本質があるのかもしれません。
「すぐわかること」に重きを置かれる時代で「読む」はどう位置づけられるのか
私たちの情報摂取は「見る」「聞く」へと加速度的にシフトしています。
スクロールすれば次々に現れる視覚的な刺激、耳に流し込まれる心地よい語りやBGM。即時性と受動性を兼ね備えたこれらのメディアやコンテンツは、テンポの良さと軽やかな理解を重んじる現代社会と極めて高い親和性を持っています。
その一方で「読む」という行為は遅く、時間がかかり、体力を要します。
言葉を追い、意味を組み立て、文脈を辿り、立ち止まり、行間に潜むものに耳をすます。そんなことを指揮しながら読むとなると、なかなかの集中力が必要です。
たやすく完結する快楽からは遠く、まるで時代の流れに逆らっているようにも思えるかもしれません。
しかし、まさにその「逆行性」にこそ読むことの価値があると私は思います。
「見る」「聞く」が主に担うのは感覚を介した即応的な理解です。
それらは速く、わかりやすく、広く届きます。しかし速く届くものは速く忘れられる宿命も同時に背負っています。意味の厚みや余韻はなかなかにこぼれ落ちやすいのです(もちろんコンテンツの内容や扱うテーマにもよりますし、それらのメディアやコンテンツを否定するつもりは一切ありません)。
対して、読むことはそうした即時性に抗いながら、時間の深度とともに理解を育てる営みです。
読んだ言葉は、すぐに答えをくれるわけではありません。
しかしそれは思考の底に静かに沈殿し、やがて自分自身の言葉や行動として立ち上がってきます。そこには厚みがあり、複雑さがあり、残響があります。読むとは、他者の時間に触れながら、自分の時間で咀嚼し直すことでもあります。
現代社会は「わかりやすさ」を強く求めています。けれど、ほんとうに大切なことは、たいてい「わかりにくいもの」です。
人生や社会、倫理、感情、哲学…。
そうした一見すると扱いづらいものたちに向き合うためには、読むという行為のような、遅くて、面倒で、深く潜る作業こそ大切だと思うのです。
光と音に溢れる社会のなかで、読むことは自分自身の静けさを保ち続けるための技術でもあり、世界を一度立ち止まって見直すための力でもあると感じています。
結びに:それでも「読む」はなくならない
AIの普及。多くのコンテンツの氾濫。そしてすぐに答えに辿り着けそうな情報が溢れる時代。
そんな時代の中にあっても、私は「読む」という行為はなくならないと思っています。
時代がどれほど変わっても、技術がどれほど発達しても、人が人であるかぎり、「読む」は静かに、永く生き続けるはずです。
私たちはこれまでも「読む」ことによって世界を理解し、他者と出会い、社会をつくってきました。時に間違えましたが、それでも人は文化に向き合ってきました。
その歩みは書かれた言葉を読むことでしか始まらなかったはずですし、そこからしか続いてこなかったとも言えるでしょう。
速さが価値となり、過程より答えが重宝される時代にあっても「読む」ことが与えてくれる遅さと迷いと余白は、失われてはならないものです。
読むことでしか届かない場所がある。読むことでしか出会えない感情がある。読むことでしか立ち上がらない問いがある。
だから、読むという行為はなくならないと信じたいのです。
「読む」という静かな営みを、人を深く知るという眼差しと態度を、これからも大切にしていきたいと思っています。