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同調の外側で息をする

今月の弊社のテーマである「孤影」。

この言葉の持つ深淵さと向き合いながら社会を観察していると、不思議なことに自分自身の人生の軌跡を俯瞰しているような感覚に襲われます。

さて、私はもとより一人の時間や静かな場所が大好きです。

逆に、喧騒に満ちた賑やかな場所や、大勢でわいわい盛り上がるのがどうにも苦手で、大きな音が鳴り響くような場所も全く得意ではありません。

むしろ無理です。

それよりも一人で静かに本を読んでいる方が幸せですし、落ち着くのです。

そんな自分の気質について言語化してみようと、少し考えてみました。

今回は通常のテーマとは趣を異にし、私個人のことについて綴ってみたいと思います。

過去の自分を振り返ってみる

少しだけ、私のことをお話しさせてください。

私は昔から(特に強く自覚したのは中学生の頃からですが)「マス的なもの」がどうにも苦手でした。

当時教室に入ればアイドルやドラマ、ゲームやスポーツなどの話題が飛び交っていましたが、流行現象に浸食された均質的な空気とでも言えばいいのか、とっても居心地が悪かったのです。

その一方で私はひたすらに本を読み、ジャズを聴いて過ごしていました。

こう書くといかにもかっこつけているようですが、ただ単に本やジャズが心から好きだったのです。

ページをめくるたびに異なる世界への扉が開き、見知らぬ人生や思想との対話が始まるような高揚感。時には慰めとなり、時には挑発され、時には長い沈黙の末の「問い」を与えてくれる。そんな本たち。

また、マス的なものが本質的に「平均化のベクトル」を内包するのに対し、ジャズは「個の表出」という逆方向の運動を許容しているように思えました。ジャケットデザインが持つ視覚芸術としての完成度、正解不在の音楽構造、同一曲でも演奏者による解釈の多様性。

そんな複雑さや「個の解釈」を許す深い余白にどっぷり惹かれていました(ちなみにUndercurrentという社名もジャズのアルバム名から来ています)。

もちろん、このような好みを共有できる同年代は皆無に等しく、同級生からは奇異の目で見られることも少なくありませんでした。当然ながら全くと言っていいほど友達もできませんでしたが、不思議なことに孤立感に苦しんだ記憶はほとんどありません。

好きな本や音楽に囲まれている場所が私にとっての「自分の場所」だと分かっていたからです。

多くの人々が「相互理解」や「共感」を通じて安心感を得るのに対し、私の場合は昔から「理解されなくても大丈夫」という感覚が昔からありました。

これは決して共感されることを放棄しているのではなく、自身の感性に対する基底的な信頼から生まれる自己肯定なのだと、今では思っています。

なんだかこう書くと友達がいなかたことを無理やり正当化しようとしている感が出ますね笑

均質化する世界に感じること

まあ、このようにマス的なものに触れる機会が皆無というかTVを一切観ない人生だったため、妻と結婚するまで芸能人のことをほとんど知らずに生きてきました(現在は少しだけ分かります)。

そんな特性もあってか、今でも私は「流行りもの」をどうしてもすんなり受け入れられないのです。

「みんなが同じ方向を向いている」ことに対する居心地の悪さや反発心があるからかもしれません。

そこには、自分自身の思考や感性を手放してしまうような違和感が潜んでいるように思えて、無意識のうちに「群れ」の安心よりも「個」としての自由や独立性を大切にしたいという欲求が働いているように感じるのです。

大人になった今は、仕事の関係で流行をある程度把握する必要があるため色々とインプットしますが、それでも心から共感することは稀です。

また、私は画一性に対してアレルギーのような感覚を抱くこともあります。

例えば、定型的な広告やテレビ番組を見ると「なぜこういう表現が好まれるのだろう」と冷静に観察してしまいますが、それは「自分とは異なる美意識」という根本的な感覚の違いから来ているのだと思います。

マス向けのコンテンツは分かりやすさ、受け入れられやすさを優先するため、繊細な違いや複雑さ、不明瞭さが削ぎ落とされてしまうことも珍しくありません。そのような平均化、単純化されたものに触れたとき、独自の美意識や知的探究を重んじたい精神にとって「本質の欠落」として映るように思えるのです。

このようなマス的な価値観に触れると「自分はここに属していないなあ」という感覚が鮮明になることがあります。

そうした思いには時に寂しさが伴うかもしれませんが、同時に「無理に合わせる必要はないよね」という静かな誇りと、孤独の中にある自由も感じるのです。

共通言語の外側に立つ選択

多くの人にとって、マス的コンテンツは一種の「共通言語」として機能しています。

コンテンツに限らず、コミュニティの文脈でも同様かもしれません。

多くの人が好意的に評価するものに触れていれば、会話の糸口が自然と生まれ、社会的に孤立するリスクは少ないでしょう。もしかするとこれは人間の社会性において合理的な選択なのかもしれませんね。

しかし私はその構造の中に、内輪ノリというか、ある種の「演出された連帯」とも呼ぶべき不気味さを感じてしまうことがあるのです(もちろん全てに対してそう思うわけではありません)。

「集団内で共有される盛り上がりや暗黙の了解に素直に同調するのではなく、一定の観察距離を確保してしまう」という私の傾向は、外部から提示される「これこそが正解」という価値判断に対する抵抗の表れなのかもしれないと感じます。

それよりもむしろ、光の当たらない音楽や、共感を得にくい本、あるいは自分だけの体験など、他にの人には理解されないものに触れているときに幸せを感じるのです。

「流行を意識しない」「人と違うものを好む」のは、単なる反発ではなく、自分の感性を信じている証拠なのかなと思うようになりました。

そこには、世間の「共感性」や「リアクション」に流されるのではなく、自らの足で美しさ探しにいく態度を大事にしたいという、静かな自信や誇りのようなものがあります。

とはいえ、この感覚はなかなか言語化が難しいものです。

「それのどこがいいの?」と問われても明確な答えなどはなくて、「ただ好きだから」としか言いようがないことがしばしばあるからです。

しかし、その「説明できない好き」にこそ、その人の輪郭が宿るものだと思います。

多くの人が注目するものから少し距離を置くことで見えてくる、小さくて静かな存在たち。時代と距離があったり、あまり光が当たっていなかったり、でも確かに、静かに存在しているものたち。

そういうものは、時間が経てば経つほど、じわじわと人の心に残り、長く寄り添ってくれる気がします。

このような姿勢は社会適応の観点からは非効率に映るかもしれません。

が、これは私個人の思考や感覚の自律性を守るための、静かではあるものの確固とした意識の選択でもあります。

提示された熱量の外側に立つことで見える風景、そこに心地よさを覚えることは決して寂しいことではありません。

孤独な強い声を拾うために

私は編集やデザインの仕事の携わっていますが、この会社はこれまで書き綴ってきたような感覚から生まれたからこそ、マス的感覚をひたすら追いかけることはしていません。

むしろ、喧騒から少し距離を置きながら深く潜り込み、輪郭を丁寧に形づくっていく姿勢を大切にしたいと思うのです。

言葉とデザインのあいだで静かに呼吸するように、奇をてらわず、それでも独自の雰囲気を宿すものを追求したい。言葉の余白に耳を澄まし、人や企業が持つ静かな思想をすくい上げ、大きな声ではなく小さな本音をそっと形にする。

自分から押しつけるのではなく、気付いた人だけが立ち寄れるような作品こそを作りたいものです。

共感を強制せず、理解を急がず、それでも深く心に届くもの。

そうしたものを生み出すにはまだ道は険しく、多くの時間も試行錯誤も要るでしょうが、歩みを止めなければ必ず何かが見えてくると信じています。

もちろん私たちが生み出すものは、万人に届くわけではありません。それでも、どこかで違和感を覚えたり、「このままではない何か」を探している人にとって「心地のいいもの」でありたいと思っています。

このような妙な価値観を持つ企業であるのにも関わらず信じてくださるお客様や、共に歩んでくれる社員たちの存在には本当に感謝しています。

さて、世の中は人々を「セグメント」や「ターゲット層」として分類することが常態化していますが、実際の人間はもっと複雑で繊細な感情と思考の織物のように思います。

私が向き合いたいのは、その「名づけにくさ」の領域です。

言葉で明確に区切れない弱さや、説明しきれない余白こそに面白さや美しさを感じるのです。

標準化や効率化の波に逆らいながら、一人ひとりの独自性を尊重し、それを形にすることが私の編集哲学の中核です。

社会の多くが見逃してきた微かな言葉や、言語化されずに放置されてきた違和感や願い。それらに耳を澄ませることは、ある意味、見えない文化を浮き彫りにする編集行為だと思っています。

私が光を当てたいのは、声高に主張する言説ではありません。引き出したいのは日常の喧騒、雑踏に埋もれがちな、独自の視点です。

それは決して「弱い声」ではなく、ただ騒がしさのなかに埋もれてしまった「孤独な強い声」です。

そんな声をすくい上げる静かな編集者でありたいし、そんな思想のもとに運営される会社でありたいと、私は願っています。

今月の弊社のテーマである「孤影」から、そんなことを思いました。

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Kentaro Matsuoka