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「読書録」人生論ノート – 孤独の深淵を覗く

今回は哲学者・三木清(1897-1945)の著書『人生論ノート』を取り上げます。

本書は、1938年から雑誌で断続的に連載されたエッセイ群をまとめたもので、「死」「幸福」「孤独」「嫉妬」「瞑想」「希望」「利己主義」「健康」「旅」などなど、実に多岐にわたるテーマが扱われています。根底には、「人生とは何か」「いかに生きるべきか」という普遍的な問いがあり、それらが三木独自の視点で綴られている、そんな作品です。

中でも特に注目したのは「孤獨(孤独)」の章。

三木の孤独への眼差しは、私たちが抱く一般的な印象とは少し異なる切り口を含んでいます。三木は「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」とさえ述べ、むしろ孤独と正面から向き合う意義を強調しているように思えるのです。

そんな三木が提示する孤独観をたどりながら、その哲学的意義を考えてみようと思いました。

三木清という人物

まずは三木清という人物を簡単に。

1927年、岩波書店から日本初の文庫本が出版されました。これはドイツのレクラム文庫を範としたもので、この「文庫本」スタイルの発案には三木清が関わっていたとされています。

東京帝国大学(現・東京大学)卒業後、三木はパリに留学し、パスカルの研究に傾倒しました。留学中は日本人との交流をあえて避け、ストイックに学問へ没頭。その成果が帰国後の『パスカルに於ける人間の研究』として結実します。

その後も旺盛な執筆活動、講演活動などを続け、『人生論ノート』をはじめとした数多くの論考を世に送り出しました。

しかし、彼の私生活は決して平穏ではありません。結婚生活7年ほどで妻を亡くし、執筆予定だった『哲学的人間学』も断念。

程なくして「思想」誌上で新たな連載を開始し、妻の一周忌には追悼文集『影なき影』を編集。

その中から娘、洋子のために妻を回想した「幼き者のために」という作品、その一部分を引かせてください。

洋子よ、お前はまだこの文章が讀めないだらう。併しやがて、お前はきつとこれを讀んでくれるに違ひない。その時のために父は今この文章を書いておかうと思う。

彼女の一生は、短いと云へば短いと云へるし、また長いと云へば長いと云ふこともできるであらう。彼女の一生はまことに弛みのないものであつた。そして死んでゆく時には彼女は殆ど人間的完成に達してゐたと信じる。人々の心に自分の若い美しい像を最後として刻み付けてこの世を去つたのは彼女が神に特別に愛されてゐたからであらう。私としては心殘りも多いが、特に彼女の存命中に彼女に對して誇り得るやうな仕事の出來なかつたことは遺憾である。私が何か立派な著述をすることを願つて多くのものをそのために犠牲にして顧みなかつた彼女のために、私は今後私に殘された生涯において能ふ限りの仕事をしたいものだ。そしてそれを土産にして、待たせたね、と云つて、彼女の後を追ふことにしたいと思ふ。

これまで様々な文章に触れてきました。そんな私が知る中で、最も美しい文章の一つです。

この追悼文は三木の深い愛情と哀惜の念が痛いほど伝わってくる名文です。

文章そのものの美しさに胸を打たれますが、語り手である三木の心情たるや。涙が出ます。

実際、この文章を読んだ同時代の論客たちも涙したと伝えられます。

しかし、こうして妻を失った三木に残されていた人生は長くありません。後に獄中で没するまでの残り時間は実に10年にも満たない短い年月でした。

『人生論ノート』の始まり

新たな連載が始まったのは1938年、妻が亡くなって程なくのことです。三木が41歳のときでした

戦時体制が強まり言論の自由が大きく制限されるなかで、1938年から1941年にかけて雑誌に掲載されたエッセイをまとめたのが『人生論ノート』です。

三木自身は日記に「狂人の真似をしなければ、正しいことが云えない時世かもしれない」と綴っています。しかし時代の空気に迎合せず、徹底して思想を探求しようとする姿勢は、当局の警戒を招きました。

やがて特高警察に逮捕され獄中で生涯を閉じてしまうのですが、短い人生のなかで残した文章は厳しくも優しく、そして鋭い洞察で私たちの心に響き続けます。

「孤独について」の前に、同書にある「幸福について」の章を少しだけ。

三木はここで次のように説きます。

幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。

今日の人間は果して幸福であるために幸福について考へないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考へる氣力をさへ失はせてしまつたほど不幸なのではあるまいか。

我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなほ以上の善いことを爲し得るであらうか。

戦時下という困難な時代にあっても、幸福を論じ、さらに「幸福そのものが徳である」と言い切る三木の姿勢。ただの楽観主義とは異なる強靱な精神が感じられます。

幸福が外に表現され、周囲にも幸福をもたらすものであるならば、まずは一人ひとりが幸福であらんとすることが重要だというわけです。

そしてこの章は次の文で締めくくられます。

機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。歌はぬ詩人といふものは眞の詩人でない如く、單に内面的であるといふやうな幸福は眞の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが眞の幸福である。

この視点を踏まえると、三木が「孤独」について論じる際にもただ内に篭る寂しさを説くのではなく、より積極的な意味を見い出しているだろうと思うのです。

知識人とは何か?

「孤獨について」の章に進む前に、「秩序について」という章から、まずはいくつか文章を拾ってみます。

知識人といふのは、原始的な意味においては、物を作り得る人間のことであつた。他の人間の作り得ないものを作り得る人間が知識人であつた。知識人のこの原始的な意味を我々はもう一度はつきり我々の心に思ひ浮べることが必要であると思ふ。

作ることによつて知るといふことが大切である。

道徳の中にも手工業的なものがある。そしてこれが道徳の基礎的なものである。しかし困難は、今日物的技術において「道具」の技術から「機械」の技術に變化したやうな大きな變革が、道徳の領域においても要求されてゐるところにある。

「知識人とは何か?」という問いに対し、単に学問や知識を得るだけでなく、実際に“作り出す力”を伴う存在だと三木は位置づけています。

エウマイオスは自身で革を裁断して履物を作ったように、オデュッセウスが卓越した大工仕事をこなしたように、“知”と“ものづくり”の両立が本来の知識人像だ、というわけですね。

同時に、道具が機械へと変化し大量生産の時代へ突入したように、道徳すらも「大量生産」される恐れがあるとも述べます。現代にも通じる極めて鋭い視点です。

個人の手作業的な思索や試行錯誤を経ず、押し付けられた道徳、思想、思考を鵜呑みにしてしまう、そんな懸念を三木は示唆しているのかもしれません。

ここで重要なのは、自ら考え、自ら生み出す知性的な営みが尊重されるべきという姿勢だと思うのです。ではどう生み出すべきか。

孤独と「心のあり方」、その覚悟

では、いよいよ「孤獨」の章を見ていきましょう。

私は孤独こそ、知性的な営みの根幹をなすものなのではないかと思っていますが、三木はまず次のように語ります。

孤獨が恐しいのは、孤獨そのもののためでなく、むしろ孤獨の條件によつてである。

孤獨といふのは獨居のことではない。獨居は孤獨の一つの條件に過ぎず、しかもその外的な條件である。むしろひとは孤獨を逃れるために獨居しさへするのである。

「孤独」と「独りでいること」は同義ではないと強調されています。むしろ人は雑踏のなかでも、あるいは共同生活の場にあってさえ、深い孤独を感じうる。逆にいうと、独りでいることが孤独を生むのではないし、一人きりになればかえって孤独から逃れられる場合さえある、と。

さらに続きます。

孤獨は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。「眞空の恐怖」――それは物質のものでなくて人間のものである。

混雑した街中でふと感じる疎外感や虚しさを、人は「孤独」と呼びます(一般的にですが)。ゆえに、孤独とは人間同士の“間”にこそ生じる問題であり、単なる寂しさでは済まされない、人間存在の根源的な側面だと言えそうです。

さらに、三木は次のように核心を突きます。

孤獨は感情でなく知性に屬するのでなければならぬ。

多くの人は他者からの承認を得られなかったらどうしよう、世間のレールから外れたらどうしよう、という恐れから孤独を嫌います。

しかし、そこに流されず、あえて自分ひとりで考え自分で何かを生み出す知性を持とうとするなら、孤独はむしろ力となりうる。こうした視点からすれば、孤独に内在するポジティブな意義が見えてきます。

孤独をただ「寂しい」と嘆く感情ではなく、「知的な状態」「自己の思索を深める場」として捉え直す必要があるということかもしれません。

先ほどの「秩序について」とも符合してきますね。

「孤独は知性に属さなくてはならない。」

改めて口にするとすごい言葉です。

誰かに認められたい、多くの人が発信する幸福観や考え方に同調しないと、孤立してしまうのではないか、など不安を抱く気持ちはわかります。しかし「周囲の視線を意識した孤独」は、「寂しさ」「焦り」「嫉妬」といった負の感情を生みやすい孤独感と捉えてよいかもしれません。

しかし一方で、「自分はたった一人の存在だ」という自覚を持ちながら社会の動向を考え、自分なりの価値を創造し、知識人として生きる覚悟を育むことの大事さを感じます。

三木清が語る「孤独」の背後には、こうした「覚悟」の重要性があるようにも感じられます。

孤独の苦しさを知りつつ、それでもなお前進する者同士が互いを理解し合えば、強い連帯や創造的な結びつきが生まれるのかもしれません。

そのような姿勢を共有する仲間と仕事をし、共に成長していきたいという思いを改めて感じることができました。

「欠如」ではなく「人間存在に伴う実在」としての孤独

獨には美的な誘惑がある。孤獨には味ひがある。もし誰もが孤獨を好むとしたら、この味ひのためである。

いかなる対象も私をして孤独を超えさせることはできない。孤独において私は対象の世界を全体として超えているのだ。

孤独はただの「欠如」や「不足」ではなく、人間存在に普遍的につきまとう「実在」だと認識しているような、そんな印象を受けました。

だからこそ、どんな娯楽や他者との関係も孤独を根本から取り除くことはできないのかもしれません。

私たちは孤独と共に在る存在であり、それを否定したり回避しようとするのではなく、むしろ受け入れて向き合わねばならない、自らと対峙し続けなくてはならない。そうした思想が伝わってくるようです。

孤獨であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤獨を知らない時である。物が眞に表現的なものとして我々に迫るのは孤獨においてである。そして我々が孤獨を超えることができるのはその呼び掛けに應へる自己の表現活動においてのほかない。

孤独を深く味わい、自らの知性でものを作り出す活動へと転化すること。それこそが人間にとって大切な「表現」なのかもしれません。

孤独とは他者との関わりを絶つことではなく、「自己を確立しながら周囲へと働きかけるための在り方」なのだと感じます。

結びに

現代社会では、スマートフォンやSNSを使えば即座に誰かとつながり、情報を得られます。

しかし、そうした常時接続の環境のなかでなお、埋めがたい虚しさや疎外感を抱く人も多い印象です。まさに「山でなく街にある孤独」を実感する瞬間ですね。

しかし、もし孤独をただ恐れて避けてばかりいれば、自分が本当に考えるべきことを見失い、かえって孤独感が深まるような気がするのです。

むしろ孤独を受け入れ、自ら内面を耕しながら表現活動に踏み出す。そうすることで、孤独は否定的な感情の源であるだけでなく、「新しい道を切り拓く覚悟」を生み出す契機となるはずです。

「孤独を愛する」という姿勢こそ、現代を生きる私たちが見落としがちな自分自身との対峙を促し、ひいては他者や社会をより深く愛するための道標として機能するのだと思うのです。

孤独を「知性的な状態」として捉える視点は、今も私たちの人生を豊かにしてくれる大きなヒントを与えてくれます。

自分一人の静かな時間を持つこと、その時間を通じて自分の思考や感性を耕し、何かを生み出す努力を惜しまないこと。そこにこそ、三木清が説いた「孤独の積極的意義」があるように思われるのです。

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Kentaro Matsuoka