音楽から文学へ。いつもとは逆の旅路です。
ラヴェルのピアノ組曲「夜のガスパール」を聴いたことがきっかけで、原作となった散文詩集を手に取りました。そこで出会ったのが、19世紀フランスの詩人アロイジウス・ベルトラン(ルイ・ジャック・ナポレオン・ベルトラン)。
通常であれば文学作品が先に存在し、それにインスピレーションを受けて音楽作品が生まれますが、私の場合は経験の順序が逆でした。音楽が先で、後から原作を知ることになったのです。
ラヴェルの音楽では「オンディーヌ」「絞首台」「スカルボ」の三篇が取り上げられていますが、実際にベルトランの原作を手に取ってみると、そこには幻想と現実の境界線がぼんやりとした、不思議な世界が広がっていました。
語り手とガスパールの出会い
ベルトランの「夜のガスパール」不思議な序詞(エピグラフ)と序文(プレフェス)、そしてその間に挟まれた語り手の説明から始まります。
語り手がディジョンの古い街を夜に散歩していると、一人の奇妙な男性と出会います。この男こそがガスパールと名乗る人物です。
ガスパールは痩せた体つき、長い指、鋭い目をした風変わりな姿で登場し、芸術への独特の情熱を持った人物として語り手の前に現れます。彼は語り手に自分の手稿を渡し、その後、姿を消してしまいます。この手稿こそが、これから読者が読むことになる散文詩集の本体なのです。
語り手は忽然と姿を消したガスパールの行方を追い、道すがら葡萄作りの小男に話しかけます。しかし小男曰く、彼の居場所として考えられるのは地獄くらいであると、暗にガスパール悪魔的な存在であることを示唆します。
「ありがとう、親爺さん!夜のガスパールは地獄で業火に灼かれろ。僕はこの本を出版するとしよう」
—「夜のガスパール」アロイジウス ベルトラン, 庄野 健著
語り手は、ガスパールの手稿を世に出すという決意を示し序文が締め括られ本編へと続きます。
つまり私たちが読んでいるのは、この不思議な出会いを通じて語り手が手に入れた「呪われた」手稿そのものなのです。
ルーツとなった原文と向き合う
ラヴェルが選んだ三つの詩「オンディーヌ」「絞首台」「スカルボ」。
ベルトランの詩集の中でも幻想的で不気味な雰囲気を放つこれらの詩が、どのように音楽へと変換されたのか、改めて原文に立ち返ってみたいと思います。
オンディーヌ(ONDINE)
聞いて、聞いて
私よ、オンディーヌよ
やさしい月の光がさす窓を
月光に輝く飾り硝子を
夜露のようにそっとたたくのは私私こそは
白絹のようなしぶきに身をつつみ
美しい星空を映した静かな湖を統べる
水の乙女たち騒ぐ波は水の精
すべての流れは私の王宮への径
私の王宮は
火と土と風のはざま
湖底にかくされた秘密聞いて、聞いて
私の父は榛の若木の枝で水を従えるのよ
姉さまたちは白い波で
水蓮やグラジオラスが咲きみだれる
緑の小島をやさしく包み
釣人のように枝を垂れた
柳じいさんをからかっているわそしてオンディーヌは指輪を差しだした
この私に彼女の夫となるべく
水の宮殿で湖の王となるべくしかし私は
限りある命の乙女を
愛していることを告げた
オンディーヌは
恨みがましく涙を流したかと思うと
嘲笑を私に浴びせかけた
そして水のなかへと
帰っていった
オンディーヌのたてたしぶきが
青硝子に白い跡を残した—「夜のガスパール」アロイジウス ベルトラン, 庄野 健著
原文を読んだ時、怖気がしました。怖気の理由は、オンディーヌという詩から放たれる不気味さではありません。
原文を精読し、その文字の先に広がる広大な世界を音に写し取ったモーリス・ラヴェルという一人の作曲家の凄まじい表現技術に圧倒されてしまったのです。
流れるようなアルペジオの中、時折強調される窓ガラスを叩くかのような音の粒。ベルトランの原文に触れると、音楽の一つ一つの動きがいかに詩の言葉と呼応しているかを実感できます。
特に印象的なのは、「そしてオンディーヌは指輪を差しだした」という場面から「嘲笑を私に浴びせかけた」までの劇的な展開です。
ラヴェルの音楽では、優美な旋律から突然の転調を経て、より激しい動きへと変化します。そして最後の「オンディーヌのたてたしぶきが 青硝子に白い跡を残した」という余韻は、曲の終わりに向かって静かに消えていく音の流れに完璧に一致しているのです。
絞首台(LE GIBET)
これは夜陰に吹きすさぶ北風か
それとも、吊るされた罪びとの溜息かあるいは、吊るし木の足元をやさしく覆う
苔と枯蔓に隠れてなくこおろぎか死者の耳もとで
獲物を求めて飛びまわる蝿の羽音かしゃれこうべにしがみついて
血のこびりついた髪に絡みつく甲虫かそれとも縊れた首のまわりに
純白のスカーフを編む蜘蛛かかなたの城壁から鐘をうつ音が響き
罪びとの亡きがらは
夕日のなかで
ゆらりと揺れた—「夜のガスパール」アロイジウス ベルトラン, 庄野 健著
「これは夜陰に吹きすさぶ北風か それとも、吊るされた罪びとの溜息か」という問いかけから始まるこの詩。
その後も「死者の耳もとで獲物を求めて飛びまわる蝿の羽音か」、「吊るし木の足元をやさしく覆う苔と枯蔓に隠れてなくこおろぎか」と複数の疑問形が続きます。
不気味な世界で響き続ける音の正体を探っているのでしょうか。この詩は一貫して「音」についての問いを投げかけています。
肌にまとわりつくような湿った空気の中で、荒廃し、白骨化した死体が転がる陰鬱とした情景ひとつ一つがまるでスライドショーのようにフェードイン、フェードアウトを繰り返し、最後には「かなたの城壁から鐘をうつ音が響き 罪びとの亡きがらは夕日のなかでゆらりと揺れた」と物憂げに締めくくられます。
ラヴェルの作曲した絞首台のインスピレーションの源泉は、おそらく「かなたの城壁から鐘をうつ音が響き」の一文。ゴーン、ゴーンと曲全体を通して繰り返される単音はこの鐘の音を表現しているのかもしれません。
冒頭、音の正体に対する問いかけの答えは、ひょっとするとこの鐘の音なのか、それとも何か別の音なのか。
もう一度絞首台を読み返してみると、詩の後ろでは静かに響く鐘の音と聞こえてくるようです。
スカルボ(SCARBO)
幾度となく私は見た、やつ、スカルボを
金の蜜蜂を縫いとった瀝青色の旗印の
銀色の紋章のように月が輝く夜に幾度となく私は聞いた
壁の暗がりでやつが漏らすあざけりの声を
ベッドのカーテンに爪をたてる音を私は見た
やつが天井からするすると降りてきては
魔女の糸巻きさながら
一本足でくるくると
部屋の中を踊りまわるのをやつは何処へ失せたのか
突然、あやしい小鬼がゴチックの鐘楼のように
月と私のあいだに立ちふさがった
金色の鐘がやつのとんがり帽子で揺れているしかし、すぐにそいつの身体は蒼白に変った
不気味なろうそくのように
頭は燃えつきたろうそくのように
溶けて流れた
そして冷たく動かなくなった—「夜のガスパール」アロイジウス ベルトラン, 庄野 健著
夜に現れては消える不気味な小人、スカルボ。
「幾度となく私は見た、やつ、スカルボを 金の蜜蜂を縫いとった瀝青色の旗印の銀色の紋章のように月が輝く夜に」
この詩の冒頭から、小さい頃に理由もなく怖くてたまらなかった夜の闇に引き込まれます。
月の光が銀色の紋章のように輝く夜、その静けさを打ち破るのが小鬼スカルボです。「幾度となく私は見た」という繰り返しは、この遭遇が一回限りではなく、何度も繰り返される悪夢のような体験なのかもしれません。
スカルボは視覚と聴覚の両方で描写されています。「私は見た」だけでなく「私は聞いた 壁の暗がりでやつが漏らすあざけりの声を」とあるように、目に見えると同時に、耳にも聞こえる存在でもあるのです。
その動きはとにかく奇妙で予測不能。一本足でくるくると部屋の中を踊りまわったかと思えば、突如として巨大化したり、しまいには蒼白い蝋燭のような姿に変化します。
幾度となく形を変える描写は、スカルボという存在自体の曖昧さを示しているようにも思えます。実在するのか、幻想なのか、夢なのか、終始その境界がはっきりしません。
ラヴェルの音楽では、この捉えどころのないスカルボの動きや声が超絶的な技巧で表現されています。急激な音域の変化や予測不能なリズム。ピアノから飛び出してくる音の粒は、不気味なスカルボの動きそのもの。
音楽が終わった後も、どこかで小さな笑い声が聞こえてくるような、そんな余韻が残ります。
「絵画的」な情景描写の連続の中に
ラヴェルという作曲家が詩の持つ情景を精緻に表現できたのは、原作であるベルトランの詩が本来持っている音楽性の高さゆえだと思います。
散文詩という形式でありながら、言葉の響きやリズム、情景の移り変わりにある種の絵画的、音楽的な起伏が含まれているようです。波の揺らめき、死体の揺れ、小人の踊り。こうした情景描写の数々が、ラヴェルの創造力を刺激したのかもしれません。
言葉と音の関係を考える上で、「夜のガスパール」はとても興味深い例だと思います。
文学作品をベースにした音楽の中には捉え所のない難解な作品も多いですが、夜のガスパールは原文に対してかなり忠実です。
こうして音楽から文学へと遡ることで、改めてラヴェルの天才的な解釈力と表現力を実感します。
本当はベルトランの詩自体について自分なりの考察をもっと詳しく書きたかったのですが、興奮のあまりラヴェルがメインになってしまったことをどうかお許しください。