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LeicaQ2と歩く – 水を撮る

昔から水を撮るのが好きです。

水はつねに動いていて、決して同じかたちにはとどまりません。波紋、反射、ゆらぎ、沈黙。それらは一枚の写真の中に封じ込めるにはあまりに流動的で、つかみどころがありません。それでも私は、水という「かたちのない存在」が見せる一瞬の表情を、なんとか捉えてみたいと思うのです。

写真を撮るという行為は、流れゆく時間のなかで、ある一秒を選び取ることでもあります。その選び取った瞬間に、何が写り、何がこぼれ落ちてしまったのか。

何枚か撮影した水の写真を見ながら、水というものについて考えてみたくなりました。

静かな水面は時に鏡のように風景を映し出します。しかしその「水鏡」は、決して完全な鏡ではありません。風が吹けば像は揺れ、形は歪み、映るものは絶えずその表情を変えてゆきます。

水に映る世界は、常に定まらず、決して同じ姿をとどめることがありません。ある瞬間には木々を上下逆さまに映し出し、次の瞬間には波に砕かれ、像はたちまち千々にほどけてしまいます。

その儚さと不確かさのなかに、現実には存在しえない「余白」や「あわい」がそっと立ち上がります。

水が映す像は、現実をただ忠実に複写するのではなく、揺らぎによってその構成を変容させます。

すべてが明瞭に輪郭づけられた世界よりも、たえず形を変えつづける像のほうが、私たちに多義的な解釈の余地を残してくれるのかもしれません。

編集とデザインと水

編集やデザインの営みとは、散在する情報や素材や断面を見つめ、重心を与え、それらを一つの構造へと編み上げていく試みです。

時に意味を持たないように思える断片が漂うなかに、形を与え、伝わるものとして立ち上げていく作業。そこには混沌の中に秩序を立ち上げる態度(覚悟?)が求められているような、そんな気がするのです。

けれども、秩序だけがすべてを救うわけではありません。

整いすぎた構造や、明晰すぎる配置は、ときに作品から息づかいを奪ってしまうことがあります。あまりに整いすぎたレイアウトや、過剰に整理された物語は、確かに分かりやすくはありますが、その明瞭さゆえに、どこか無機質で平板な印象を与えることがあるのです。

むしろ、優れた編集やデザインであればあるほど、秩序立てられた構造の内側に、微かな揺らぎや「遊び」のような要素が忍ばせてあるように感じられます。

たとえば、幾何学的に整えられたグリッドの中に、手書き風の文字や不揃いなモチーフがひとつ加わるだけで、作品にあたたかみや奥行きが生まれるように。

文章で言えば、文と文のあいだに漂う余白や沈黙が、読む者に思考の余地を与えるようなものです。

人間の感覚は、完全な規則性だけでなく、そこに微細な不規則性が混ざることで、はじめて心地よさや驚きを覚えるものなのだと思います。

水のせせらぎが耳にやさしく響くのは、その音に規則と逸脱が織り交ざっているからなのかもしれません。

創造の現場においてもまた、すべてを予定調和で仕上げるのではなく、偶然のひらめきや予想外の展開を受け入れることで、あらかじめ想定していなかった新たな表現へと至ることがあります。

構造を立てる意志と、揺らぎを受け入れる余地。

このふたつは、相反するどころか、ひとつの創造を動かす両輪であるように思われます。

水に器がなければ水は流れ出てしまい、器があまりに堅固すぎれば、水はその内側で澱んでしまいます。編集やデザインにおいても同じことが言えるような気がするのです。

確かな構造と、許された揺らぎ。その共存こそが、創作物に生命を吹き込むのだと、私は思います。

時間と記憶と存在と

私たちが生きる時間もまた、水のようにとどまることなく流れ続けています。

古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、「同じ川に二度入ることはできない」と語ったそうです。それは、常に新しい水が流れ込む川と同じように、一瞬たりとも同じ時間が訪れることはないという比喩です。

時間とは、止めることのできない流れです。私たちは、その奔流の只中に立ち尽くし、移ろいゆく現在という水の上にかろうじて立っているだけにすぎません。

記憶もまた、静的なものではなく流動する存在です。

過去の出来事を思い返すたびに、記憶はまるで水面に広がる波紋のように揺らぎ、その輪郭は少しずつ変化していきます。「水に流す」という表現があるように、水は私たちの痛みや怒り、過去のしがらみをやさしく洗い流してくれるかのように思われます。

記憶は生きた水のように、その時々の感情や状況によって、そのかたちを変えてゆくのかもしれません。固定された記憶よりも、揺れ動きながら姿を変える記憶のほうが、むしろ私たちの存在に寄り添っているようにも感じられます。

変化を拒み、留まり続ける水は、やがて淀み、命を育むことができなくなります。それと同じように、変化のない生には、停滞と死が忍び寄ってきます。むしろ、絶えず形を変え、流れ続ける水の中にこそ、生命の豊かさと、創造の種子が息づいているのかもしれません。

構造と揺らぎ

構造と揺らぎ。

一見すると相反するもののように思われますが、水という存在を通して眺めると、むしろ両者は深く結びついていることに気づかされます。

揺らぎが際立つのはそれを受けとめる構造があるからこそ。逆に、構造が生き生きとしたものになるのは、そこにわずかな揺らぎが含まれているからです。

水面に映る風景はただの写しではありません。波の加減や風の気配によって像は歪み、揺らぎながら、現実には存在しないもうひとつの世界を私たちにそっと見せてくれます。そこには、構造化された現実にわずかなずれが生じたときにだけ現れる、新たな意味の可能性が浮かび上がっているように感じられます。

私たちのような編集やデザインといった仕事に従事し、創作に携わる者にとって、この水が示すバランス感覚は大切にすべきなのかもしれませんね。

時間や記憶、そして人生そのものが水のように絶えず流れ、かたちを変えてゆくものだとすれば、私たちはその変化を拒まず、むしろ受け入れていく姿勢を持ちたいと思います。

とはいえ、ただ流されるのではなく、自らの中に芯となる理念や構想という「器」をしっかりと持つこともまた大切です。堅固なだけの器では水は濁り、器を欠いた水はただ拡散してしまうためです。

構造と揺らぎ、その両者が共にあるとき、はじめて創造の営みはしなやかに、そして豊かに実を結んでいくのではないかと、そんなことを考えました。

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Kentaro Matsuoka