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住まいの追憶、「団地」。

先日、いつもの散歩の途中でふと住宅供給公社の展示する「住まい と くらし」展に立ち寄りました。

かつての団地にあったダイニングキッチンと浴室をダンボールで再現するというとても興味深い企画だったのですが、古い写真の中に並ぶ建物や、生活の一場面を写したポスターを眺めているうちに、幼いころに過ごした祖母の団地のことを思い出しました。

コンクリートの匂い、風の抜ける廊下、エレベーターもなく急勾配の階段、夕方に聞こえる子どもの声。そこには「集合住宅」という言葉の響きよりもずっと確かな、人の暮らしの温度があったように思います。

祖母の住んでいた団地の記憶

少しだけ昔話にお付き合いください。

今でこそ一般的な集合住宅に住んでいる私ですが、実は幼い頃、祖母と一緒に郊外の団地で暮らしていました。

18街区まであるとても大きな団地で、託児所、学校、スーパーなど生活の基軸となる施設は一通り揃っており、今思い返せば、単なる集合住宅というよりも「街」に近かったのかもしれません。

建物は低く整列し、どの窓もよく似た形をしています。

ですが、そこに流れていた空気は決して均質ではありません。夕方になると、どこかの部屋からテレビの音が漏れ、廊下を走る子どもの足音と夕飯の匂いが混ざり合う。

誰かが作りすぎた煮物を持ってきてくれたり、玄関先で世間話をしたり。そんな日常が当たり前にあったことを覚えています。

住居は独立しているのに、暮らしはどこかでつながっている。そんな感覚。

自治会の草むしりや清掃には、頼まれなくても集まる人が多く、「暮らしを一緒にまわす」意識が確かに根付いていました。

子どもの私は回覧板にサインをするだけでしたが、紙をまわすというその小さな行為にも、生活の循環があったのかもしれません。

暮らしの「かたち」

あらためて展示で紹介されていた資料を見て、団地という存在が“時代の希望”だったことを知りました。

高度経済成長期、都市部では住宅不足が深刻化し、新しい暮らしを支えるためのモデルとして公団住宅が次々と建てられました。間取りも外観もほぼ同じ。だけどそれは、“みんなが等しく安心して暮らせる社会”を目指す形でもあったのでしょう。

中庭や商店街、集会所や公園がセットで設計され、人と人が自然に出会うための動線が、建築の中に組み込まれていました。

同じような職業、似たような家族構成の人々が集まることで、生活レベルに大きな差がなく、誰もが“同じ時間”を生きることができた。少し質素ながらもその均質さが、戦後の人々にとっての安心だったのだと思います。

暮らしの音と気配

団地の風景を思い出すと、まず「音」が浮かびます。朝の掃き掃除の音、放課後のボールの弾む音、夜になるとどこかから流れるテレビの音。

それらは騒音ではなく、「人の暮らしが近くにある」証のようなものでした。

壁一枚の向こうで誰かが笑っている。それをそこまで煩わしいとは感じず、むしろ安心感さえありました。似たような部屋の形、似たような生活音。同じ間取りの中で、誰もが同じ時間の流れに包まれていたように思います。

格差の少ない環境では、無理に見栄を張ることも、誰かと比べて落ち込むことも少なかったのかもしれません。同じ高さの窓から同じ景色を眺めることが、一つの平等の形をつくっていたのです。

時代の移ろいに伴って、寂れていく団地の景色

先日、かつての記憶をなぞりたくなってかつて祖母の住んでいた団地に訪れてみました。外観はほとんど変わっていませんでしたが、かつて賑わっていた商店街はシャッターが降りたままで、通りを歩く人の姿はまばらです。

私が子どものころにもすでに閉まっていた店は多かったですが、それでもまだ人の声があり、子どもたちの走る音がありました。今はただ、静かで、時間が止まったような空気が漂っています。

建てられたばかりの頃から住んでいた母に団地について尋ねてみると、昔はお祭りもあり、団地全体がひとつの町のように活気づいていたそうです。

「みんな同じ家に住んでるから、気が楽だったのよ。」と笑う母の言葉に、その時代の「均質の優しさ」が滲んでいました。

これも時代のせいなのか、今ではすっかり団地全体の高齢化と空室が進み、私が住んでいたことよりもずっと寂れてしまったように思えます。けれどその寂しさ、静けさには、長く暮らしてきた人たちの時間がゆっくりと染み込んでいるように感じました。

かつて自分が過ごした幼い頃の時間も、この団地の空気の中で今も漂っているのかもしれません。

それでも残るもの

歩いていると、ベランダの鉢植えや干された洗濯物、玄関先に立てかけられたほうきが目に入りました。それだけで、誰かの生活がいまも続いていることがわかります。少しだけ気持ちがホッとしました。

団地とは、建物と建物の間にあった「関係」の空間です。

家族でも個人でもない、もう少しゆるやかな共同体。誰かがそこにいる、というだけで心が少し落ち着く。そんな感覚が、あの場所には確かにありました。

プライバシーや効率が重視される今の暮らしでは、そうした曖昧なつながりは希薄になりがちです。けれど、暮らしを支えるのは、案外そういう小さな余白なのかもしれません。

もう一度あの頃を、とまでは思わないけれど

正直に言えば、あの頃の団地をそのまま再現してほしいとまでは思いません。時代も、暮らし方も、人との距離の取り方も随分と大きく変わりました。

それでも、ふと懐かしくなるのです。誰かが隣にいて、声をかければ届く距離にいたあの感じ。時折廊下で交わされる「おかえり」「おつかれさま」といった隣人の方々の小さな言葉。

団地には、便利さや効率とは別の優しさがありました。きっちり管理されたシステムではなく、人の手と気配で成り立つゆるやかな秩序。

それが暮らしをあたため、日々をつなげていたのだと思います。

今の暮らしは、プライバシーも尊重され、静かで快適です。でも、ときどき思います。ほんの少しだけ、あの曖昧でやわらかな関係が残っていたら、もう少し呼吸のしやすい社会になるのかもしれないと。

それくらいの距離感で、団地のことを思い出すのがいちばん自然なのかもしれません。

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Ryota Kobayashi