日本には数多くの名だたる文学者がいて、学校の授業や読書を通して彼らの作品に触れてきました。作品そのものはよく知られていても、作者同士がどのように関わり、どんな言葉を交わしていたのかまでは意外と語られる機会が少ないものです。
そうした文学者同士のつながりを考えるうえで象徴的なのが、俳人・正岡子規と文豪・夏目漱石の交流です。
二人は同じ年に生まれ、若い頃から親しく行き来を重ねたようです。子規は俳句や短歌の革新を志し、漱石はのちに『坊っちゃん』をはじめ数々の小説を世に送り出します。進む道は違っていても、互いの才能に刺激を受け合う関係だったことがうかがえます。
そして漱石は子規との関係を振り返り、文章として書き残しています。そのタイトルは「正岡子規」。
今回は、漱石の目に子規がどのように映っていたのか、二人の関係性をのぞいてみましょう。
夏目漱石と正岡子規の関係性
作品は冒頭から、子規の「食意地の張った話」で始まります。蒲焼を勝手に取り寄せ、ぴちゃぴちゃと音を立てて食べ、支払いは相手任せ。挙げ句の果てには金を借り、奈良から「すっかり使い果たした」と平然と手紙をよこすのです。
普通に考えれば、距離を置かれても不思議ではない人物でしょう。
実際に二人の関係の主導権は、常に正岡子規の側にあったようにうかがえます。漱石自身も子規のことを「大将」と呼び、自分をその子分のような立場として描いています。食事も行き先も、いつの間にか子規の思うままに決まっていく。その様子を、漱石は半ば呆れながらも、どこか可笑しがるように書いています。
正岡子規は好き嫌いが激しく、滅多に人と深く交際することはなかったようです。それでも、二人の交流が長く続いた理由に、漱石は子規との付き合い方について「ええ加減に合わしていた」と綴っています。嫌だと感じることがあっても、それを理由に関係を断ち切ることはせず、常に一歩引いた位置から受け止めていたのでしょう。
やがて子規は、三十五歳という若さでこの世を去ります。
漱石は「今正岡が元気でいたら、余程二人の関係は違うたろう」と書いています。この一文には、二人の関係を単なる美談としてまとめるのではなく、時間の経過や成長によって生じ得た衝突や変化までを含めて、見つめ直そうとする漱石の姿勢が表れています。
二人は性格が似ており、趣味も合う部分があったようです。もし同じ時間を生き続けていたなら、関係のあり方は別の形をとっていたかもしれません。
漱石は、そうした可能性を含んだ人間関係として、子規との交際を振り返っているのです。
結びに
二人は俳句を通じても深く関わっていたようです。
漱石が「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」を詠んだ時期と、子規が「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠んだ時期は近く、題材や構図の選び方からは互いの表現をどこかで意識し合っていた様子がうかがえます。
それは直接的な模倣や競い合いというよりも、同じ時代感覚の中で、言葉の置きどころや情景の切り取り方を共有していた関係だったのかもしれません。
私たちは文学者の作品に触れることはできますが、その背後にあった人と人との関係や、言葉が生まれるまでの時間までは、なかなか見えにくいものです。
夏目漱石の「正岡子規」は、当時の二人がどのように交流していたかを知る上で、重要な作品といえます。