カメラとの出会いは時として人生を変えてしまいます。
「Leica Q2」との邂逅は、私にとって非常に大きな意味を持つものでした。
それまで私は様々なメーカーのカメラを使用していたのですが、ひょんなことから「Q2」というモデルを手にすることになりました。
使い始めた当初、無駄を削ぎ落とした独特の操作感や、現実をあまりにも鮮明に切り取る写実性に戸惑ったことを覚えています。まるで慣れ親しんだ世界の輪郭が急に鋭く尖ったかのような錯覚に陥ったほどでした。
しかし、ある日ふと撮った一枚の写真に宿る物寂しさに心を奪われてからQ2の世界にのめり込んでしまいます。
いつしか、他のカメラに手を伸ばす機会が自然と減っていきました。Q2を通して見える世界の寂しさに、その特殊な静けさに強く惹かれてしまったからかもしれません。
LeicaQ2を手にして
私は10代の頃からカメラを携えて日本各地や海外を旅していました。
しかし年を重ねるにつれ、日々の仕事に追われ、いつしか旅することも、カメラを手にすることも少なくなっていきました。結果、20代半ばから旅に出る機会はほとんどなくなってしまいました。
仕事をいただけることはこの上ない幸せです。
ただ、振り返ってみればその時期の私の人生には、確かに何かが欠けていたように思います。
「家族で日本各地を旅し、その場面をQ2で切り取る」と決めたのはQ2を手にして間もない、2023年の夏のことでした。
この決断が人生の転機となったような気がしています。それは単なる旅の記録ではなく、私と世界との新たな対話の始まりだったのかもしれません。
そうと決めてからは色々なところに行きました。
久しく忘れていた旅の歓び、日常に潜む小さな美しさを発見する感動。このカメラを通して覗く世界は、どこか現実とは異なる文脈を帯びて見えます。
それは日常に潜む非日常を捉えるような感覚でした。Q2は私の目には見えない何かを、確かに写し取っているのかもしれません。
これからもこの不思議な魅力を持ったカメラと共にまだ見ぬ風景を求めて歩み続けたいと考えています。それは失われた時を取り戻す旅であると同時に、家族と私の新たな物語を紡ぎ出す旅でもあって欲しいとも思っています。
28mmという不自由
以前は重厚な大口径レンズや焦点距離の異なるレンズを幾本も携え、シーンごとに付け替えていました。しかし、その重圧は時に自由な歩みを阻み、美しい瞬間との邂逅を遅らせることがあったのも事実です。
対するQ2はコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)です。一般的なコンデジと同様に、レンズを交換することはできません。この制約は当初、写真を撮る楽しみを大幅に制限してしまう「枷」となるのではないか?と感じていました。
しかし、一見すると制限に思えるものが実は創造性の源泉となるような、そんな逆説がLeicaQ2の魅力の核心であり、新たな視点を育む土壌となっていると今は感じています。
LeicaMシリーズやSLシリーズはレンズ交換が可能ですが、Q2で使用できるのは28mmの固定レンズのみ。ズームもできません(35mm、50mm、75mmにクロップすることは可能です)。
しかし本体に用意されているのは「ズミルックス28mm F1.7 ASPH.」。28mmでF1.7というハイスペックで贅沢なレンズです。収差を抑えて、すっきりとしながらもコントラストの高い描写、広角な28mmながらも歪みの少ない画作り。
このレンズが切り取る世界の解像度、解釈にはいつも驚かされます。
商店街の雑踏も、古びた路地の静けさも、Q2と歩くことで違う物語を語り始めるように思えます。
レンズを交換できないからこそ自らの足で移動し、身体全体で被写体との距離を測る。足を前に出し、時には屈み、時には背伸びをする。そうして全身で距離を測り、風景との対話を重ねていく。
それは単なる撮影という行為を超えて、世界と対話する営みに近いのではないかと感じています。
交換できないレンズという制約。ある種の健全な不便さがあるからこそ、新たな視点を生み出す感覚が宿るのかもしれません。
モノクロームの世界が描く静穏な美、寂寞な美
私が趣味で写真を撮る時はしばしばモノクロームの世界を選びます。本記事で使用している写真も全てモノクロ写真ですね。
色彩豊かな写真も魅力的ですが、白と黒だけで構成される世界にはどこか心を澄ませるような静謐さが宿っているように感じるのです。
ブレッソンやジャコメッリの作品に魅了されるのも、そんな理由かもしれません。彼らがモノクロームで描き出す静謐で深遠な世界。色彩が消え去ることでかえって浮かび上がる、時間が凍結したような瞬間の美しさ。
私もいつかそんな写真を撮ってみたいと、常々思います。
私たちの日常は、あまりにも多くの色彩、情報に満ちています。スマートフォンの画面も、街頭の広告も、鮮やかな色や華やかなメッセージで溢れかえっています。
しかし、私はそんな賑やかな色彩や装飾を排した静けさを好む傾向にあります。だからモノクロ写真に惹かれるのかもしれません。
光と影だけの世界。
本質的な美しさとは、むしろ色彩という装飾を削ぎ落としたところにこそ宿るのかもしれないと感じます。陰影の濃淡が織りなす表情には、色彩では表現しえない深い静寂、余韻ある空白が漂います。
たくさんのカメラを使用してきましたが、Q2で切り取るモノクロの世界からは特に静けさを感じるのです。
広がりのある風景を捉えながらも、どこか孤独な視点を強調するような画作り。あるいは、何も際立たせない平板な構図によって、余白に情報が溶け合っていくような静かな喪失感。
このアンビエントな空気感に静穏な美しさ、寂さを覚えます。
それは決して否定的なものではありません。むしろ、美の本質に触れるような体験であり、自らの内側に眠るものを呼び覚まされるような感覚です。
私はその感覚の中にこそ私が本当に求めている何かが潜んでいるような気がするのです。
優しい孤独、温かな寂しさ
ファインダーを覗き込む瞬間、私たちは否応なく世界から一歩身を引き、静かな観察者となります。
シャッターを切る、その一瞬。
被写体は日常という重みから解き放たれ、より本質的な存在として立ち現れます。それは無言の対話であり、時として心の奥底で揺れ動く複雑な感情の投影でもあるように思えます。
Q2の豊かな階調は影の中にさえも微細な明暗の変化を捉えます。
それは風景と対峙した時の、心の奥で揺れ動く感情を映し出しているかのようです。輪郭を優しく包み込まれた被写体は、記憶の中の風景のようにどこかぼんやりとして儚いのです。
喜びの中にある哀しみ、孤独の中にある温もり。そんな相反する感情が、一枚の写真の中で静かに共存しているような感覚。
このカメラで撮影した写真には、どこか儚さを纏った寂しげな懐かしさが宿るように感じます。
それはまだ見ぬ未来への淡い憧れなのか、それとも失われた過去への郷愁なのか。
何かが欠乏しているような寂しさ、儚さ。この不確かな「寂しさ」こそが、美しさの正体なのかもしれません。
しかし、Q2が捉える「寂しさ」は、決して暗い闇のようなものではありません。
それは夕暮れ時に差し込む斜光のような、あるいは早朝の街角で出会う朝露のような、どこか儚くも温かな寂しさなのです。生きることの美しさと儚さを同時に感じさせる、深遠な寂しさのように。
そしてその寂しさの先に待っているのは、きっと深い祝福のようなものなのだとも感じます。
写真を撮るという行為は、本質的には孤独と向き合うことなのかもしれません。だからこそ家族の笑顔も、見知らぬ街の佇まいも、全てが美しい物語として紡がれていくと思っています。
物事の無常さを感じ取り、それを愛おしむ心。私にとってQ2は、そんな繊細な感性を呼び覚ましてくれる、かけがえのない存在です。