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文豪から学ぶ現代に通じる宣伝術

日本には、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治といった、近代文学を代表する作家たちが数多く誕生しました。

彼らの作品は独自の文体や深いテーマ性を持ち、日本文学史に大きな足跡を残し、今なお多くの人に読み継がれています。

しかし、どれほど優れた作品であっても、読者に届かなければ世に埋もれてしまいます。小説家には「書く力」だけでなく、「読ませる工夫」も求められました。

実際、明治から昭和にかけて活躍した文豪たちは、自らの作品を広めるために、宣伝や演出に様々な工夫を凝らしていました。“物書き”であると同時に、“読み手に届ける演出家”でもあったのです。

今では文豪と称される彼らは、どのようにして自作をアピールし、読者の心をつかんでいたのでしょうか。宣伝、仕掛け、自己演出といった文壇の舞台裏を少しのぞいてみましょう。

新聞と雑誌が支えた、文芸と宣伝の黎明期

明治から昭和初期にかけて、日本の出版文化は急速に発展しました。その中心を担ったのが、新聞と雑誌という二大メディアです。

新聞には創刊当初から連載小説が掲載されており、とくに「新聞小説」は大衆向けメディアの象徴として定着しました。物語を1回ごとに小出しにしながら展開するスタイルは、続きが気になるという読者心理を刺激し、紙面の目玉コンテンツとなっていったのです。

たとえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」は雑誌「ホトトギス」で連載が始まりましたが、その後「それから」「こころ」などを朝日新聞で連載し、多くの読者が続きを心待ちにしたといわれます。

一方、文芸雑誌も盛んで、同人たちによる文芸誌や批評誌が次々に創刊されました。純文学系から娯楽寄りのもの、婦人向けや少年向けといったジャンル誌まで幅広く登場し、作家たちは自らの作風や対象読者に合わせて媒体を選び、寄稿していたのです。

さらに、講演会というリアルな舞台もまた重要な宣伝の場でした。作家自ら全国を巡って講演を行い、その様子が新聞に掲載されることで、作品と作者の知名度が一気に広がっていきました。

このように、新聞・雑誌・講演というメディアの三本柱は、当時の作家にとって欠かせない広報手段だったのです。

昭和に入ると、出版界はさらに商業化が進みます。とくに1920年代半ばは「宣伝狂時代」とも称され、出版社は大々的な広告を打ち出し、作家自身が自著の魅力を語る座談会記事なども多く見られるようになりました。今で言う出版プロモーション戦略の原型が、この時代に形づくられたのです。

たとえば、文藝春秋を創刊した菊池寛は、雑誌そのものの広告を新聞に出すことで話題性を演出し、認知拡大に注力しました。作品を書くことと同じくらい、どう売るかが重視された時代。それが、大衆文学が急速に浸透していった背景でもあります。

宣伝上手だった文豪たちから学ぶ売れるための工夫

文学は芸術であると同時に、ひとつの商品でもあります。

明治から昭和期の文豪たちは、ただ名作を書くだけではなく、それを読まれる形で世に送り出す工夫にも長けていました。

作家と経営者を両立させた文壇のプロデューサー「菊池寛」

菊池寛は、大正から昭和にかけて活躍した人気作家であり、同時に出版界の名プロデューサーでもありました。彼の最大の功績のひとつが、1923年に創刊した文芸雑誌「文藝春秋」です。

創刊号には芥川龍之介や川端康成など、当時の人気作家が揃って寄稿し初版3,000部はわずか3日で完売。話題性と人脈を駆使し、見事に雑誌を“ヒット商品”として世に送り出しました。

その後も菊池は、「文藝春秋」をメディアの拠点として育て上げ、数々の作家と読者をつなぐハブとなっていきます。そして1935年、自社の知名度と若手作家の育成を兼ねて、芥川賞と直木賞という2つの文学賞を創設しました。

この賞は、現在でも権威ある文学賞として知られていますが、当時の菊池にとっては「作家を世に出す仕掛け」であり、「雑誌の宣伝装置」でもあったのです。

彼の姿勢には、「良い作品も、読まれなければ意味がない」という明確なビジョンがありました。読者を意識した編集方針と、大胆なプロモーション展開。菊池寛はまさに売れる文学のプロデューサーだったのです。

自らのスキャンダルすら糧にする魔性の作家「谷崎潤一郎」

谷崎潤一郎は、“美”と“官能”の表現を極限まで追求した作家です。その作風のみならず、彼自身の生き方さえもが読者の関心を集める宣伝材料となっていました。

とりわけ有名なのが、いわゆる「細君譲渡事件」。妻の千代を友人である作家・佐藤春夫に“譲る”という前代未聞の出来事は、世間を大いに騒がせました。

谷崎はこの実体験をもとに、愛憎と倒錯を描いた小説「痴人の愛」を執筆。1924年に朝日新聞で連載されると、センセーショナルな内容が読者の好奇心をかき立て、一大ブームを巻き起こしました。

谷崎は「自分という存在」そのものを作品の一部として演出し、大衆メディアを通じて計算された作品を届けていたのです。その後も「卍」や「鍵」など、性や欲望の心理をリアルに描いた作品を次々に発表し、常に話題の中心にあり続けました。

谷崎作品の魅力は、文学性の高さと娯楽性の見事な両立にあります。過激な題材で注目を集め、ロマンチックな文体で読者を惹き込み、そして何よりも「読ませる」ことに徹していました。

その姿は、現代のエンターテインメント系作家にも通じるものがあるといえるでしょう。

破滅型作家というブランド戦略「太宰治」

自らのスキャンダルを作品にし世に送り出した谷崎潤一郎と同様に、太宰治もまた、自ら世間の注目を集めた作家でした。

太宰治と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、「自殺未遂」「放蕩生活」「心の闇」といった波乱に満ちた私生活かもしれません。彼の人生は、まるで一編のドラマのようでもありました。

太宰は、まさに自分自身を物語として提示した作家でした。その象徴ともいえるのが、芥川賞への異様なまでの執着心です。若き日の太宰は、どうしても受賞したいあまり、選考委員に嘆願書を送るなど、情熱的なアピールを繰り返しました。

結局、芥川賞を受賞することは叶いませんでしたが、その姿勢は賛否を呼びつつも話題を集めます。結果的に彼の名前は文壇に広く知られるきっかけとなりました。

また、彼の作品はその多くが私小説風で、読者は「これは小説か、それとも告白か」と戸惑いながらも惹き込まれていきます。「人間失格」「斜陽」などに代表されるように、作品には自己否定や敗北感が色濃く漂い、それが戦後という混乱の時代に生きる人々の心に深く響きました。

作品だけでなく、その人物像までもが“読む対象”となった太宰治。

彼の「宣伝」は決して意図的なものではなかったかもしれません。しかし、自己をさらけ出すことで生まれる強烈な存在感は、まさに現代的なアーティスト像そのものです。

知を広め、市場を創った啓蒙家「福沢諭吉」

小説家ではありませんが、明治の啓蒙思想家として名を馳せた福沢諭吉もまた、自著を世に広めることに卓越した人物のひとり。

彼は「学問のすゝめ」を空前のベストセラーに育て上げ、教育・出版・新聞を駆使して自らの思想を社会に広めた、先駆的なセルフプロモーターでした。

慶應義塾の創設者でもあり、新聞「時事新報」の創刊者でもあった福沢は、「伝えたいことは自ら世間に売り込むべきだ」という信念のもと、発信の場を自分の手で築き上げていきます。

また「商売には広告が必要だ」と説き、自著の宣伝文すら自分で書いていたその姿勢は、現代のマーケティング思考にも通じるものがあります。

「学問のすゝめ」は、当時としては平易な言葉で書かれており、庶民にも読みやすく、瞬く間に全国へと広まりました。累計発行部数は340万部を超え、まさに国民的ベストセラーとなります。

口コミだけでこれほど売れるのは考えにくく、福沢は自身の新聞や人脈を駆使して積極的に宣伝と普及に努めたのではないでしょうか。

この偉業の背景には、内容そのものの普遍的な価値だけでなく、「どう伝えるか」「どう届けるか」を徹底的に考え抜いた福沢の戦略性があったのです。

世間の反応を気にすることなく、作品の完成度と一貫した文学的姿勢を追求した文豪

宣伝やプロモーションに積極的な作家がいる一方で、あえてそうした手段を取らず、「作品の力」で勝負した作家もいました。その代表格が、夏目漱石と森鷗外です。

彼らは、読ませることを意識しながらも、自己を売り込むことには慎重で、むしろ筆一本で読者を惹きつけようとする姿勢を貫いていました。

宣伝に頼らず、読者の心に届いた国民的作家「夏目漱石」

夏目漱石は、明治・大正期を代表する国民的作家として、今もなお高い知名度を誇ります。しかし、その名声を築くうえで、彼は派手な宣伝活動に頼ることはほとんどなかったようです。

もともとは英文学の研究者として東京帝大で教鞭をとっていた彼は、のちに朝日新聞社の専属作家へと転身します。その際、彼が契約条件として提示したのが「作品の内容に干渉しないこと」。この一文には、作品の自由と質を最優先する漱石の強い信念が表れています。

漱石自身は派手に自己アピールすることを好まず、文壇の派閥にも属さず独立独歩の姿勢を貫きました。

とはいえ、漱石がまったく宣伝をしなかったわけではありません。有名なのが「こころ」の新聞広告に使われた文句で、これは漱石自身が書いたものとされています。

「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む」

現代語に訳せば、「自分の心をつかみたいと思う人に、人の心を描ききったこの作品をおすすめします」という意味。
短いながらも、文学者としての誇りと気概がにじむ一文です。

ただし、このような例は異例なケースでした。漱石は、メディアや世間の評価には左右されず、ひたすら作品そのものに力を注ぐ作家だったのです。

結果的に、その真摯な創作姿勢こそが、多くの読者の共感を呼び、口コミや新聞の連載を通じて彼の名声は自然と広まりました。

文学は自己表現であり、売れ行きは二の次だった「森鴎外」

森鷗外もまた、宣伝には極めて消極的だった作家のひとりです。

職業軍医として安定した地位を持ちながら、並行して作家・評論家として活動を続けた彼は、生活の糧を文学に頼る必要がなかった分、創作には終始マイペースを貫き、作品の売り方にはあまり関心を示さなかったようです。

1889年には、自ら編集・発行を手がけた雑誌「しがらみ草紙」を刊行し、同時代の文壇に鋭い批評を投げかけましたが、部数はごく限定的で、主に一部の知識人層の間で読まれるにとどまりました。

鷗外は、史伝・翻訳・小説といった多彩なジャンルに取り組みながらも、大衆向けの題材や企画にはほとんど手を出しませんでした。

晩年に発表された「高瀬舟」や「渋江抽斎」なども、今でこそ評価の高い作品ですが、当時は決して大きな話題を呼んだわけではありません。それでも鷗外は、世間の反応を気にすることなく、作品の完成度と一貫した文学的姿勢にこだわり続けました。

読者をまったく意識していなかったわけではありませんが、あくまで「作品が先」という信念に徹した森鷗外。その“寡黙さ”が後の世に「本物」として評価され、今なお愛読される理由にもなっているのでしょう。

戦略的に取り組んだ作家から見えてくる共通点

全ての小説家に限った話ではありませんが、かつての文豪たちはただ筆を執るだけでなく、読者に届くための“戦略”を持って作品を世に送り出していました。

彼らの振る舞いを振り返ると、“売れる作家”たちにはいくつかの共通点が浮かび上がります。

読者を意識し、関心を見極めて書くことの大切さ

まず注目すべきは「読者への強い意識」です。

新聞小説が人気を集めた明治・大正期、作家たちは読者の興味を持続させるために、1話ごとの構成に細心の工夫を凝らしていました。

「続きが気になる」展開や、「次も読みたい」と思わせる人物設定や出来事など、“読ませる”構造が重視されていたのです。

菊池寛は、芥川賞・直木賞という文学賞を創設することで、「次は誰が受賞するのか?」という期待感を世の中の読者に浸透させました。賞という装置を使って、作品だけでなく作家や文学そのものに注目を集める仕掛けをつくりあげたのです。

谷崎潤一郎もまた、当時の道徳観や社会通念をあえて逆手に取り、刺激的なテーマを物語に取り込むことで読者の好奇心を掻き立てました。

作品の中に読者の見たいものや知りたいことを巧みに織り込み、それらを高い文学性で包み込むことで、大衆性と芸術性を両立させました。

こうして見ていくと彼らは単なる“書き手”ではなく、読者あっての文学であることを彼らは熟知しており、「読者に届いてこそ作品は生きる」という視点を持って創作や発表の形態を工夫していたのでしょう。

媒体を最大限に活用する戦略家

“売れる作家”たちは、利用できるメディアを的確に見極め、巧みに活用していた点も見逃せません。

新聞や雑誌での連載はもちろん、講演会や座談会といった対面の場にも積極的に登場し、さらには自ら出版社や新聞社を立ち上げるなど、メディア戦略の最前線に立った作家もいます。

文藝春秋を創刊した菊池寛や、時事新報を創刊した福沢諭吉は、その代表例といえるでしょう。

一方で、太宰治のように直接的なメディア発信には消極的だった作家もいますが、“文学賞への執着”や“私生活を反映させた私小説”といった自らがメディアとなり、結果的に世間の注目を集めることに成功しました。

また谷崎潤一郎に至っては、自らが耽美派作家として世に認知されるような題材やエピソードを好んで取り上げ、それを文学の土壌に落とし込んでいます。常に「谷崎潤一郎らしい」作品が読者に届くよう、自分というブランドを築き上げていたとも言えます。

重要なのは、彼らが「どこで」「どう見せるか」を意識していたこと。文学はただ文字を綴るだけで成立するものではなく、作品が発表される場やタイミングが、評価や読者への届き方を大きく左右することを、彼らは本能的に理解していたのかもしれません。

読者への想像力、発信メディアの選定、そして自己演出。これらは、時代や技術が変わっても変わらない“伝える力”の本質です。

現代に通じるセルフプロデュースのヒント

時代は移り変わり、現代はインターネットとSNSの時代です。私たちはSNSや動画サイト、個人ブログなど、あらゆる手段で自由に発信できる時代に生きています。

そしてこれは個人に限らず、企業にも当てはまる話です。どれほど優れた商品やサービスがあっても、それを「どう届けるか」を考えなければ、選ばれることは難しい時代です。

とはいえ、基本的な構図は昔から変わりません。自ら工夫して発信し、受け手とつながる努力を惜しまないこと。それが、作品でも商品やサービスでも、広く届けるために欠かせない姿勢なのです。

むしろ現代は、誰もが気軽に情報発信できるからこそ、発信者自身がセルフプロデュースに取り組まなければ、簡単に埋もれてしまう時代ともいえます。

いま、まさに“届ける力”が問われる時代です。そんな現代の表現者にとって、かつての文豪たちの姿勢には多くのヒントが詰まっています。

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Kazuya Nakagawa