私は、幼い頃からクラシック音楽に親しんできました。(当リトルプレスでも何度か扱っているので、読んでいただいている方はすでにご存知かもしれません…)
日常的に聴いていたのも、意欲的に楽曲の時代背景やルーツを調べていたのも、自然とクラシックが中心だったと思います。
一方で、今まさに私が働いているUndercurrentという会社の屋号は、ジャズの超名盤に由来しています。無類のジャズ狂いの弊社代表からイロハをレクチャーしてもらう中で、少しずつジャズにも興味を持つようになり、以前よりもずっと、聴く音楽の幅が広がってきました。
それでも、どこかでずっと思っていたことがあります。クラシックとジャズは、同じ「少し古い音楽」の領域に属しながらも、本質的には交わらないものなのではないか、という感覚です。
譜面に忠実で、再現性を重んじるクラシック。即興を軸に、その場の反応で形を変えていくジャズ。理屈としては理解していても、両者が自然につながるイメージは、正直あまり持てていませんでした。
そんな中で、なぜか強く惹かれてしまう演奏に出会います。キース・ジャレットというジャズピアニストが、バッハの楽曲を弾いている演奏でした。
拍は揃っているはずなのに、どこか揺れている。譜面通りの音が並んでいるのに、言葉のように聞こえてくる。「正しいかどうか」とは別のところで、音楽が生きている不思議な感覚を覚えたのです。
再現性のクラシック、反応のジャズ
クラシックはいわば「文脈と再現性の音楽」です。
演奏者に求められるのは、作曲家が残した設計や様式、時代背景を踏まえながら、当時の音楽を可能な限り忠実に再現すること。個々人の解釈の幅こそあれ、「この作品はどうあるべきか」という枠組みから完全に離れることはありません。
一方、ジャズは「反応と流動性の音楽」。
共演者の音、空間、その瞬間の空気に即座に反応しながら、音楽が進んでいきます。過去の文脈は踏まえつつも、最終的に優先されるのは「今、どう鳴っているか」という感覚です。
この二つは、音楽への向き合い方そのものが大きく異なっています。だからこそ、ジャズの奏者がクラシックを弾くとき、そこには避けがたい“ズレ”が生まれるのだと思います。
私がそのズレをはっきりと意識したのは、キース・ジャレットによるバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を初めて聴いたときでした。そこで鳴っていたのは、私の親しんできたゴルトベルク変奏曲とは少し趣の異なる音楽です。
拍は保たれているのに、フレーズの呼吸が微妙に揺れ、音と音の間に独特の余韻が残る。文脈を尊重しながらも、音は常に「今ここ」で鳴らされている。そんな感覚。
その感覚が、クラシックとしてはどこか異質でありながら、不思議と耳を離さない魅力でもありました。
右に倣わず、自分の音楽的言語体系の中で鳴らしている
ジャズピアニストが演奏するクラシック音楽を耳にするとき、強く感じるのは「正解に寄せようとしていない」という姿勢です。
テンポ、フレージング、間の取り方。どれもが、いわゆる模範的なクラシックの演奏スタイルとは少しずつ違います。けれどそれは、意図的な逸脱というより、「そう鳴ってしまう」感覚に近いのかもしれません。
彼らはクラシックを、クラシックの文法で再現しようとせず、自分が長年使ってきた音楽的言語体系の中に、その作品を一度通してから鳴らしているように見えます。
ジャズピアニストにとって、音楽は譜面に書かれたものではなく、身体と反射神経の延長線上にあるものなのでしょう。だからこそ、たとえどんな作品であっても、一音一音が「判断の結果」として現れるわけです。
結果として、音楽は少し不安定になり、時に整っていないようにも聞こえます。それでも、不思議と説得力があるのは、その演奏が「その人の言葉」で語られているからなのかもしれません。
ジャズピアニストは、なぜかバッハを弾く
不思議なことに、ジャズピアニストがクラシック音楽と向き合うとき、行き着く先としてバッハの楽曲が選ばれることも少なくありません。
たとえば、キース・ジャレットやブラッド・メルドー。彼らはいずれも、キャリアのどこかでバッハの楽曲を取り上げています。
これはあくまで私個人の考えですが、バッハの音楽は感情表現を前面に押し出すロマン派以降の作品と比べると、「どう弾いてもいい余地」が多分に残されている楽曲である点が、演奏のきっかけになっているのではないかと思っています。たとえばテンポ、アーティキュレーション、フレージングに至るまで、演奏者の裁量に委ねられている範囲が意外にも広いのです。
もちろん模範とされる演奏こそあるにせよ、ある種の即興に近い集中状態で向き合える、自分の呼吸や間合いの中で鳴らすことができるバッハの音楽は、ジャズ演奏者にとって馴染みやすかったのかもしれません。
境界に立つ演奏者たちが教えてくれたこと
ジャズピアニストがクラシック音楽を弾く。その行為を通して感じるのは、ジャンルの違いよりも、「音楽との向き合い方」の違いです。
彼らはクラシックを崩そうとしているわけでも、ジャズに引き寄せようとしているわけでもありません。ただ、自分が音楽を理解してきた方法、自分が音を選び取ってきた感覚を、そのまま持ち込んでいるだけです。
その結果、演奏は伝統から少しはみ出すこともあります。整っていない部分もありますし、好みが分かれるところもあるかもしれません。それでも、不思議と説得力があるのは、その演奏が「誰かの正解」ではなく、「その人自身の判断」でできているからだと思います。
クラシックの歴史を尊重しながら、同時に即興音楽として育ってきた身体感覚も手放さない。良い意味でどちらの文脈にも寄りかかりすぎない演奏スタイルが、クラシック音楽そのものに独特の輪郭を与えているように思えました。
一見するとクラシックとジャズは、遠く離れた対極の音楽です。けれど、その間に立つ人たちの音楽を聴いていると、両者の境界は思っているほど固くないのかもしれないと気づかされます。