気がつけば、ずっとジャズを聴いてきました。
意識していたわけではないのですが、振り返ると、私の耳はいつもジャズに引き寄せられていた気がします。
社名にもジャズアルバムの名前を選んでしまうほどですし。
きっかけは父でした。
父はちょっとした趣味人で、家にはいろいろなCDやレコードが並んでいました。クラシックもロックも歌謡曲もありましたが、なぜか私の手が伸びたのはジャズの棚だったんです。
14歳の頃でした。
当時学校ではジャズを聴く友人なんてひとりもいなくて、話が合う人なんてどこにもいませんでした。それでも、ひとりでMDプレーヤー(懐かしいですね)を取り出して音の海に潜る時間は、私にとって何よりの幸せだったように思えます。
今思うと、「ジャズが好き」というよりも、ジャズを通して「音楽を知る」ことが楽しかったのかもしれません。レコードに針を落とすときのあの緊張感や、最初の一音で世界が変わるあの感覚。
ジャズはいつだって、私の知らない景色を見せてくれました。
今回は私とジャズについて、自分のために振り返ってみようと思いました。
ブルーノートとECM
ジャズを聴き始めた頃、最初に夢中になったのはブルーノートというレーベルでした。
中古レコード店で偶然見つけた一枚を家に持ち帰り、針を落とす。その瞬間、胸の奥で小さな火が灯るような感覚がありました。
1500番台や4000番台。
その時代の音源を、片っ端からむさぼるように聴き漁ったものです。ハードバップの熱量も、新主流派のちょっと実験的な響きも、10代の私にはただただ眩しくてたまりませんでした。
何より惹かれたのは、リード・マイルスが手がけたジャケットデザインです。
音楽を聴く前に、まずジャケットをずーっと眺めていました。
なかでもエリック・ドルフィーの『Out to Lunch!』。あの時計と「OUT TO LUNCH」の札が映る冷たく謎めいた写真を、どれだけ長く見つめていたかわかりません。
紙ジャケを探すために、なけなしのバイト代を握りしめてあちこちの店を巡りました(どうしても紙ジャケが良かったのです)。
イセザキモールの今はもうないヤマギワ電気。関内のディスクユニオン。知らないジャケットを見つけるたびに胸を高鳴らせ、家に帰ってひたすら聴きました。
そして、もうひとつの深い沼がECMでした。
ブルーノートが「動」なら、ECMは「静」の印象です。霧に包まれたような透明で硬質な音、余白の中に漂う緊張感。そしてECMのジャケットのような写真を、今もいつか撮ってみたいと思っています。
とりわけキース・ジャレットには強く惹かれましたね。月並みですが『ケルン・コンサート』を初めて聴いたとき、世界がふっと静止したように感じたのです。ピアノが紡ぐ即興の旋律が、目に見えない何かを掬い上げては、ゆっくりと空気に溶けていくような、その一音一音を聴き逃すまいと、ただ息を詰めて耳を澄ませていました。
あの頃、家のピアノでケルン・コンサートの真似事をよくしていました。
朝までひたすら鍵盤を叩きながら、「あの音」に近づきたくて仕方なかったのです。おかげで常に寝不足でしたが。
もちろん、同じにはなりません。けれど今思えば、その「ならなさ」こそがジャズの自由さだったのかなとも思います。
譜面に縛られない。そして解釈が許される。その余白に、10代の僕は抗えず惹かれていったのです。
なんでジャズが好きなんだろう
ジャズを聴き続けてきた理由を考えると、まず思い浮かぶのは「同じ曲でも、演奏する人によってまったく違う顔を見せる」ということでした。
スタンダードナンバーひとつとっても、マイルスがやれば夜の街の匂いがするし、コルトレーンが吹けば祈りのようになる。ハンク・モブレーならちょっと人見知り感がありながらも柔らかく、リー・モーガンならそこに力強い光が差し込むような、そんな感じ。
ピアノであっても同様です。ホレス・シルバー、デューク・ピアソン、マッコイ・タイナー、そしてハービー・ハンコック。
譜面上では同じ曲だったとしても全く違い世界を見せてくれました。
当時の私にとって、それは世界を広げてくれる体験でした。
「正解がひとつじゃない」という事実に、ジャズを通して出会った気がします。
誰かの解釈に触れるたびに、自分の中の何かが揺さぶられる。そのたびに、「じゃあ自分だったらどう演奏するだろう」と想像するようになりました。家のピアノで、たどたどしくコードを探りながら、勝手にフレーズを崩して遊んだりもしていました。全然うまくできませんでしたが。
私はピアニストではないためわかりませんが、ジャズは「模倣」から始まって「自由」にたどり着く音楽なのかもしれないなと思ったりしていました。
ライナーを読むのが楽しくて
新しいアルバムを手に入れると、まずはジャケットを眺めて、次にライナーノーツを読むのが習慣でした。
誰がいつどこで録音したのか、誰と誰がセッションしたのか、なぜこの曲が生まれたのか。小さな紙に書かれた文章が、音楽を立体的にしてくれる気がしたんです。
この文章を書いていて思ったんですが、私が文章を読むのが好きなのはこの頃の経験が楽しかったからなのかもしれません。
たとえば、ある一枚のライナーで「この録音は一発勝負で行われた」と知ると、ピアノの一音一音が途端に違って聴こえたりします。録音当日のスタジオの空気まで想像してしまうんです。
また、共演者同士の逸話や、その時代のジャズシーンの動きも、ライナーを読むことで初めて知りました。演奏者同士の関係性、レーベルが生まれた背景。音だけでは触れられない「物語」に、ページをめくるたびに出会えた気がします。
また、当時は、今とはまるで異なる世界でした。まだ黒人への差別が色濃く残っていた時代で、レコードのライナーノーツやインタビュー記事を読んでいると、薬物の影も頻繁に登場しました。
10代の、世間を何も知らない僕にとって、それは現実感を伴わない、遠い世界の物語のようでもありました。
「なんだ、この世界は…!」とよく驚いたものです。
小説よりもずっと生々しく、同時にフィクションよりも深く刺さる何かがあったんです。
音楽の向こう側には、差別も、孤独も、依存も、才能も、すべてが入り混じった現実が広がっていました。私にとっては商業的に塗り重ねられた音楽よりもずっとリアルだったのです。
レコードを聴きながら、僕は少しずつ、音だけでは見えない「世界の複雑さ」に触れていったように思います。
ジャズは即興の音楽だけれど、その一瞬を生み出すまでの時間には、必ず誰かの人生が折り重なっています。
ライナーノーツは、そんな背景を垣間見せてくれる小さな窓でした。曲を聴くたびに、その人の過去や街の風景、時代の空気までもが、そっと重なって聴こえてくるような缶かう。そんな広がり方をする音楽は、他にはなかったように思います。
結びに:ある種、答えのない音楽だからこそ
ジャズを聴き始めてから、もうずいぶん時間が経ちました。
最初はただかっこよくて、ただ新鮮で、ただ夢中で追いかけていただけだったのに、気づけば、僕の時間の節々にはいつもジャズが流れていました。
同じ曲なのに、人が変わればまったく違う音になる。譜面にない一音で、景色がひっくり返る。「正解はひとつじゃない」ということを、ジャズはずっと教えてくれたような気がします。
ジャズの面白さは音そのものだけじゃないと思っています。
人と人が交わる偶然、歴史や街の匂い、誰かがその瞬間に選んだ一音。その文脈すべてが、音の奥に潜んでいると感じるのです。
だからこそ、今も答えを探すみたいに、同じ曲を何度も聴き返してしまうんでしょう。
それがジャズであり、たぶん、私がずっと惹かれ続けている理由です。