今回、手に取ったのは江戸後期の碩学、佐藤一斎による『言志四録』。
幕末の志士たちをも奮い立たせた佐藤一斎の思想。そこには、激流のような時代を生き抜くための精神の糧、あるいは己を支える思想の力が凝縮されているように思えます。
幕府の財政難や国内の不安、そして欧米列強の影が忍び寄る中で従来の秩序や思想が揺らぎはじめた激動の時代。朱子学に基づく儒教倫理を根幹としながらも、新たな学問の在り方を模索しなくてはならない時代。
これらの点において、現代に生きる私たちの状況は遠い昔の人々の状況と驚くほどよく似ているように感じます。人が向き合うべき状況や本質は幾度となく形を変えながらも、常に同じような問いを抱き続けているのかもしれませんね。
思えば、いつの世にも内憂外患はあり、人々はその都度、既存の価値観に疑問を投げかけ、新たな道を探ってきました。
時代の変遷に敏感に呼応しいかに学ぶべきか、いかに生きるべきかということに人は絶えず向き合ってきたのでしょう。
『言志四録』を通じて、その思考の一端にほんの少しでも触れることができれば、今に生きる私たち自身の学びや生き方にも新たな光が差し込むのではないか、そんな思いで読み進めてみました。
碩学・佐藤一斎
まず佐藤一斎という人物をごく簡単に眺めてみます。
美濃・岩村藩の出身である儒学者、佐藤一斎(1772~1859)。
常に時計を持ち、時間に厳しい人だったようです。
彼は若い頃に大坂の懐徳堂で中井竹山に師事し、学問の礎を築きました。
やがて22歳で江戸の林家(林述斎)に入門し、なんと34歳の若さで塾長の座に上り詰めます。儒家の正統派ど真ん中で頂点を極めたにもかかわらず、一斎は権威の座に安住することなく、後進を育てることに全身全霊を注ぎました。
この「人を育む」「後世に伝える」という姿勢こそが、彼が単なる「体制側の学者」で終わらなかった大きな要因だと思います。
そんな一斎が『言志録』をこつこつと書き始めたのは彼が42歳を迎える頃。大江戸八百八町が文化文政の華やぎに舞っていた、そんな時代でした。
よくもまあそんな時代にこんな内省的で本質的なものを書き記したなと驚くばかりです。
後世に伝えるために書き残すという姿勢。何だか世阿弥を想起させますね。
世阿弥は、芸の記録と伝承の大切さを説き、「能の本を書くことが能役者にとって極めて重要である」と強調しました。芸の核心を後世に残すためには、自ら筆を執って書物を著す必要があると。
実際、世阿弥が『風姿花伝』の執筆に着手したのは37歳のときでした。自分たちの芸を子孫に伝えるための秘伝書として、その要諦を文字に刻み残そうとしたのです。
こうした姿を見ると、後世に何かを伝えようと志す人は、ちょうどこのくらいの年齢から「書くこと」「伝えること」「遺すこと」などに真剣に向き合い始めるのかもしれませんね。
さて話を戻します。
一説によると彼の門下生は全国で3,000人にも及んだと言われ、各藩から集まった多彩な才能が一斎のもとで薫陶を受けています。彼の弟子には、松代藩の佐久間象山、備中松山藩の山田方谷、田原藩の渡辺崋山、肥後熊本藩の横井小楠といった、維新前夜を彩る名だたる思想家・改革者たちが名を連ねました。
例えば、佐久間象山は「東洋道徳・西洋芸術(技術)」を唱えて、儒学による伝統的道徳や精神性と洋学による技術革新を融合させ、門下から吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らを育てあげました。この辺りの登場人物は今更触れるまでもないでしょう。
こうして、一斎から象山へ、象山から松陰へ、そして伊藤博文・高杉晋作へと続く師弟の流れを見れば、一斎の思想が幕末から明治のリーダーたちへ脈々と継承されていったことが分かります。
この時代の背後には、伝統を重んじつつも新しい学問や価値観を取り込み、次代を切り拓くための一斎の「柔軟な知」と「強靱な精神性」があったのでしょう。
また、薩摩藩の西郷隆盛は直接の門人ではないものの、一斎の著作をこよなく愛した人物として広く知られています。
尊王攘夷の荒波に揉まれ、島流しを経験した西郷。彼は『言志四録』全1133条の中から自ら感銘を受けた101条を選び、手書きで抄録して携行しました。
どんな過酷な状況にあっても自分の軸を見失わず、自らを鼓舞し律するための“精神の羅針盤”がそこにあったのでしょう。実際に西郷は生涯を通じ、この手抄言志録を肌身離さず愛誦したと伝わります。
四十年をかけて磨き抜かれた言葉と思想に触れる
今更ですが、実を言うとこの言志四録、ずっと本棚にあったのですがほぼ読んだことがありませんでした。すいません。
昔の名言がずらりと並ぶ「堅苦しい本」という印象が先に立ち、ちょっと抵抗があったため真剣に読み込んでいなかったのです。
いやはや、未熟というほかありません。
今回本棚から久々に手に取って読んでみましたが、読めば読むほど、仕事や人との関わり、そして人生そのものに丁寧に向き合っていく必要性を、ひしひしと感じさせられました。
都合40年にわたって「言志」に向き合い続けた一斎だからこそ浮き上がってきた言葉たち。その重みたるや。
さてさてこの『言志四録』、彼が40代から80代まで、およそ40年もの歳月を費やして書き継いだ随想録・箴言集です。
具体的には『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録(てつろく)』という4部作に分かれており、学問の心構えや思想上の心得、人生観や処世訓など、実に多岐にわたる内容が収められています。
その総条数は実に1133条にもおよび、一つひとつが短い格言形式で綴られているため、いずれも凝縮された思想のエッセンスが際立ちます。
この大部の書全体を通じてみえる重要なテーマの一つは「志を尊び、ひたすらに自己を修養する」という姿勢です。たとえば『言志晩録』第六〇条には、次のように生涯を通して学び続けることの大切さを説く名言が含まれています。
「少にして學べば、則ち壮にして為す有り。壮にして學べば、則ち老いて衰えず。老いて學べば、則ち死して朽ちず。」
有名な一文ですね。
これは「少年期にしっかり学べば壮年期に大成し、壮年期に学び続ければ老いても衰えず、さらに老年になって学ぶことを怠らなければ、死後までも名声は朽ちないよ」という意味の文で、生涯を通じて学ぶことの大切さを端的に示しています。
人生の各段階で学ぶことの意義を説くこの言葉は、自分を高める努力を怠らないよう促しています。
全てご紹介すると大変な量になってしまうので一部のみを簡潔にご紹介させてください。
原文:立志の功は、恥を知ることを以て要と為す。
訳文:志を立てて成功するためには、恥を知るという心構えが大切である。
原文:学を為す、故に書を読む。
訳文:我々が学問をするのは自己修養・吾づくりのため、そのために本を読むのであって、知識を増やすために読むのではない。
原文:真に大志有る者は、克く小物を勤め、真に遠慮有る者は、細事を忽せにせず。
訳文:本当に大きな志を抱く者は、小さな事柄でも一生懸命に勤め、また本当に遠大な考えを持っているものは、些細な事柄もゆるがせにしない。
原文:己を喪えば斯に人を喪う。人を喪えば斯に物を失う。
訳文:自分の自信がなくなると、周囲の人々の信用を失うことになる。人の信用を失うということは、何もかもなくなってしまうということである。
原文:国乱れて身を殉ずるは易く、世治まって身を韲(さい)するは難し。
訳文:国家が乱れている際に一身をささげて粉骨砕身するのは困難なことではない。むしろ大事なのは世が治まっているときに身を砕くことである。
原文:春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む。
訳文:春の風のような穏やかな態度で人に接し、秋の霜のような厳しい態度で自らを律する。
原文:真の光明は道徳便ち(すなわち)是なり、真の利害は義理便ち是なり。
訳文:真の功績や名誉というものは道徳を実践した結果自然に得られるものだ。本当の利害というものは、義理に拠ったか背いたかによって生まれくるものである。
原文:我れ自ら感じて、而る後に人これに感ず。
訳文:先ず自分が感動して、その後に人を感動させることができる。自分が感動せずに他人を感動させることなど出来る筈がない。
などなど挙げ出したらキリがないのですが、まあ刺さる刺さる。
各条の格言には、現代にも通用する鋭い洞察が随所に散りばめられています。
「忙しいと嘆く人がこなしていることのうち、本当に大事なものは一、二割に過ぎないよね」といった趣旨の言葉も登場します。何だか現代でもこんな感じの言葉聞いたことありませんか?
人の本質は古今を通じてあんまり変わっていないのかなーと思います。
一斎は朱子学の体系的な倫理・理論を深く究める一方で、王陽明の「致良知」に象徴される陽明学の主体的な実践精神にも通じていました。
そのため、彼の言葉には抽象的な教条や机上の理想論に終始しない、どこか地に足の着いた力強さが感じられるのです。
「朱子陰王」とまで称された一斎の思想は、すでに200年もの月日が流れた今日においてなお、鋭い洞察として生き続けています。
結びに
「思想」とは人から人へと受け継がれ、時代の変革とともに新たな価値を育んでいく。その普遍的な真理は、歴史を形づくってきたさまざまな断片から、ありありと浮かび上がります。
佐藤一斎が遺した言葉やそこに込められた学問的探究は、単なる学説や教えを超えて、私たち自身が「知をどう繋ぎ、どう活かしていくのか」という問いを強く投げかけてくれるようです。
最後に、私が最も心を打たれた一文を引用します。
「性分の本然を尽くし、職分の当然を務む。此くの如きのみ。」
人が生まれつき天から授かっている人間としての心、仁・義・礼・智・信の「五常の道」を誠意を持って努め、それぞれ自分に与えられている立場で社会的人間としての義務、五倫の道を実践する。人はただそのようにして生きていけばいい。
という趣旨の言葉です。
まさに言うは易く、行うは難し。
当たり前を行い続けることこそ最も難しい。至難の戒めだと思います。
しかし現代ではこの仁・義・礼・智・信が軽んじられているような気がするのです。
近年はAIなどデジタル技術が目覚ましい進歩を遂げていますが、それゆえにこそ「人としての在り方」をいま一度見つめ直す必要があるのではないかと思います。思いやりや礼節、誠実さを軽んじる風潮があるとすれば、そこには学ぶことや深く考えることへの怠慢が潜んでいるのかもしれません。
人として人とどう接するか。社会と、知と、家族と、仲間と、様々なものとどう接するか。本当に大事な問いです。
熱苦しいかもしれませんが、私自身の人間性をさらに高め、社会に少しでも貢献できるよう、もう一度「人として磨くべき部分」に厳しく向き合っていこうと思わせてくれた一冊となりました。