突然不躾な話題で恐縮ですが、皆さんにとって『葬儀』とはどのような存在でしょうか。私はこれまで、少なくとも葬儀という儀式に対して明るいイメージを抱いたことはありません。
大切な家族が、友達が、恋人が、明日もきっとどこかで息をしていてくれている、そう都合良く信じ込んでいた時に限って「葬儀」はやってきます。いつか確実に来るとわかっていても、絶対に訪れてほしくない瞬間です。もしかすると全てが嘘で、きっとどこかでケロッとして生きているかもしれない、そんな想いが「葬儀」によって否定されてしまう。
私は葬儀という文言を見るたびに心の中に暗い影を落としていました。だからこそ、あえて本書を手に取ってみようと思ったのかもしれません。
「人間の死」という最も厳かな事象に対して、私の住む国以外では一体どのように扱われているのか、どのように向き合っているのか、それを知ることで自分の中で何か葬儀に対する考え方が変わるかもしれない。
そんな気持ちからふと手に取ってしまった一冊です。
「死んだら終わり」か?
死を迎えた時、人の存在は完全に消え去ってしまうのでしょうか。
肉体の死は、その人との全ての関係性が途切れることを意味します。二度と会えない、話せない、触れ合えない。私も長らく、そう考えていましたし、紛れもない事実だと思います。
ある人の「死」は、人生における全ての営みの終着点であり、残された者たちにとっては永遠の別れを意味する。だからこそ私たちは、大切な人を見送る時、ああこれで本当に最後なのだと、耐えがたい喪失感に苛まれるのかもしれません。
しかし、世界の一部の文化圏において、死はむしろ新たな始まりとして捉えられています。
死は「終わり」ではなく、魂の旅立ちであり、別の形での「継続」なのだと。死者と生者の関係もまた、途切れることはなく、形を変えながら永く続いていくものだと信じられているのです。
緩やかな死後の旅路
死は必ずしも「終わり」ではないという考え方は、世界中の様々な文化の中に見ることができます。
日本における「お彼岸」や「お盆」は、すでに他界した故人の魂が一時的に戻ってくることを意味するものです。葬儀自体はしめやかに執り行われ、49日を過ぎると魂は黄泉の国へ旅立つ、と考えられることが多いように思えます。
一方で「死」すなわち黄泉の国への旅立ちを意味せず、緩やかな「死」への移行プロセスを辿ると考える民族も存在します。その最たる例が、インドネシアのスラウェシ島に住むトラジャ族です。
日本では通常、葬儀は死後数日以内に執り行われるのが一般的ですが、彼らの場合、葬儀は数ヶ月から数年後に実施されます。
しかも葬儀が行われるまでの間、故人は「病人」として扱われるのです。適切な遺体衛生保全(エンバーミング)が施されたのち、家族はこれまでと変わらずまるで生きているかのように身の回りのお世話を行います。
死んでしまったからといって即座に別れが訪れるわけではなく、向こうの世界に旅立つための準備を家族総出で行うことで、故人はようやくあの世への旅路を歩み始めるわけです。
肉体的な死が、黄泉の国へと旅立つためのスタート地点であるかのような考え方は、死者と生者の関係は切れることなく、むしろ形を変えて継続し続けることを意味しているように思えます。
自然の循環の中に溶け込む死生観
チベットの鳥葬は、死を自然の循環の一部として捉える死生観を最も象徴的に表す例といえるでしょう。
遺体は高地に運ばれ、最終的に鳥たちの餌となります。一見、厳しい印象を受けるかもしれませんが、この習慣の背景には深い思想が隠されています。
人は大地の恵みを受けて生き、死後は鳥たちの糧となる。
そしてその生命は、また別の形で大地に還っていく。この永遠の循環の中で、人の死もまた自然の一部として受け入れられているのです。
こうした死生観は、死を「終わり」としてではなく「循環の一部」として受け入れることで、より大きな生命の営みの中に人の死を位置づけています。それは、先ほどのトラジャ族のような緩やかな移行とは異なる形で、死者と生者、そして自然との永続的なつながりを示唆しているのです。
葬送儀礼に秘められた「見返り」の思想
本書で紹介されている様々な民族の死生観から浮かび上がってきたのは、実は生きている者たちが葬儀を通じて無意識に「見返り」を期待しているのではないか、という視点です。
残された者たちが無病息災で暮らせるように願うこともあれば、一族が華々しく繁栄し財を成すことができるよう願う人もいるかもしれません。
はっきりと口には出さなくとも、故人を大事に扱うという行為は、巡り巡ってなんらかの形で自分に返ってくる、そんな風に考える人が多いように思えたのです。
例えば、ボリビアのアイマラ族は、ニャティタの日と呼ばれる催しで、故人の頭蓋骨を箱に入れて街を練り歩きます。頭蓋骨を大切に扱うことで、功徳がもたらされると信じられているのです。(※時に見ず知らずに他人の頭蓋骨が飾られていることもあるようです。頭蓋骨であればなんでも良いのでしょうか。)
このように利得がもたらされるというポジティブな死生観がある一方で、儀式を怠ると不利益が生じるという考え方も存在します。ルーマニアの「ポマナ」がその典型例です。
「ポマナ」では、ルーマニアでは故人の誕生日に、ローソクを灯したテーブルの上に豪華な食べ物を並べ、現世に戻ってくる故人の魂を待ちます。適切に供養されない死者は飢えに苦しみ、穀物畑を荒らしてしまうと考えてられているからです。
いずれも「死者を敬う気持ち」と「実利的な目的(見返り)」、本来であれば相反しそうな二つの考えがその土地の文化や信仰によってごく自然に調和しています。
死後の世界でも続く「格差」
冒頭でも触れた、トラジャ族の葬儀に関する興味深いお話を最後にもう一つ。
トラジャ族の盛大な葬儀では「テドン」と呼ばれる水牛の屠殺が行われます。
故人はその水牛に乗ってあの世への道を進むと考えられているのですが、逆に水牛を捧げられずに旅立った場合、水牛に乗って旅立った故人と同じ場所に行くことはできない、つまり死後の世界にも格差が存在しているのです。
また、生贄としてささげる水牛の数によっても死後の行き先が変わると言われています。葬儀を行う家庭に経済的な余裕がない場合は、望ましい場所へと到達できないわけです。
生きている間の社会的なヒエラルキーが、死後の世界まで影響を及ぼす、死してなお格差と決別できない人間の性。せめて魂の行き着く先は、安らかで平等な世界が待っていると信じたいものです。
果たしてそんな世界があるのか、ないのか、それは私にもまだわかりません。
結びに
葬儀では、大切な人を失う深い悲しみという自分自身の「内面」側面と、生前から親しんでくれていた人への感謝の気持ちを葬儀を通じて表さなければならない「社会的」側面が混在します。これらの側面は国や民族によって大きくその様相を変えるものだと気づきました。
そして、最も印象的だったのは、多くの文化圏で死が「終わり」ではなく、むしろ新たな旅立ちの「始まり」として捉えられているという事実です。
死者と生者の関係は途切れることなく、形を変えながら循環し続けていく。この普遍的な死生観に触れることで、私の中にあった葬儀への暗い影が、少しばかり和らいでいくのを感じました。
単に別れを告げる場ではなく、むしろ新たな関係性の始まりを告げる、人生の重要な通過点が「葬儀」なのかもしれません。