私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。
オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉です。
私たちは、言葉を通して物事を理解し、考え、他者と関わり合っています。もし言葉がなければ、思考そのものが成り立たず、世界の輪郭もおぼろげなままになってしまうでしょう。
もうひとつ、哲学者の印象的な言葉を。
言葉は存在の家である。
ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーによるこの言葉は、人間が言葉という「家」に住むことで初めて、世界を理解し、自らの存在を位置づけることができるという考えを意味します。言葉があることで、過去は物語となり、知識は蓄えられ、感情は誰かと共有されていきます。
古くから人間は、口承によって神話や歴史を語り継ぎ、やがて文字を発明し、それらを記録するようになりました。言葉は文化と記憶の器であり、人類の精神的営みを支える柱なのだと感じます。
とりわけ、デザイナーや編集者にとって言葉は欠かせない要素です。
どれほど美しいビジュアルであっても、適切なキャプションやコンセプトワードがなければ、その意味はぼやけてしまいます。的確に選ばれた言葉が添えられることで、表現に芯が通り、伝えたい世界観やメッセージが読み手に届くようになります。
また、鋭く練られた見出しや文章は、コンテンツに命を吹き込み、その価値を際立たせます。反対に、言葉の選び方を誤れば、伝えたかった意図は届かず、誤解を招くことさえあります。言葉を疎かにすれば、情報は情報としての質を失い、やがて枯れてしまうでしょう。
そうなれば、文化を紡ぐことはできません。
言葉の力があるからこそ私たちは初めて他者と、そして社会と深くつながることができます。
言葉が重要であるのは、それが人間に思考と共有の場を与え、世界を形づくる根源だからなのでしょう。
言葉とは、編集にとってどんな存在なのか。
『編集のかたち』第2回ではその問いについてあらためて考えてみました。
編集のかたち 第1回|編集の編集 – デジタルにおける編集への向き合い方
言葉の網のなかで世界を生きる
世の中のおよそ全てには言葉が割り振られており、私たちはその言葉を通して世界を認識しています。
鈴木孝夫著『ことばと文化』には、こんな一節があります。
世界には、はたして何種類のもの(事物や対象)や、こと(動き、性質、関係など)が存在するのだろうかと考えてみると、気が遠くなるほどである。しかもものやことの数、そしてそれに対応することばの数は、いま述べたような事物や性質の数の、単なる総和に止まらない。
〜
ものとことばは、互いに対応しながら人間を、その細かい網目の中に押込んでいる。名のないものはない。「森羅万象には、すべてそれを表わすことばがある。」これが私たちの素朴な、そして確たる実感であろう。
私たちは、生まれた時から誰かが名づけた言葉の網の中に包まれて生きています。自分で編んだわけではないはずの言葉を使って、自分の感情を語り、思考をまとめ、他者と世界を共有しようとしています。
言葉という他者の遺産を借りながら、自分の世界をつくっているのです。
なんだか不思議ですね。
そうした言葉の網のなかで、私たち編集者はすでに名づけられたものと、まだ名づけられていない何かの間を、そんな世界を行き来しています。
世界には、まだ言葉が追いついていない感情や光景があります。
それらに最もふさわしい言葉を模索すること、あるいは、すでにある言葉の組み合わせを少しずらして、新しい角度から意味を立ち上げること。それも編集という役割のひとつではないかと思います。
編集とは、名づけられた世界の中で言葉を選び、組み直し、再び名づけていく作業でもあります。そしてその作業は、ただ情報を整えるということにとどまらず、世界の見え方そのものを変えていく力を持っています。
たとえば、ある記事のタイトルをほんの数文字言い換えただけで、それまで読み流されていた内容が急にこちらの胸に迫ってくることがあります。あるいは、言葉の順序を入れ替えただけで、散らばっていた印象がひとつの像を結び、読者のなかに静かな共鳴を残すこともあります。
編集者は、そのようにして、言葉が紡ぐ世界の輪郭を、少しずつ調整していく存在なのだと思います。
誰が名づけたのかも定かではない言葉たちを用いて、私たちは日々、他者と関係を結び、新たな意味を立ち上げ、次の時代へと手渡していきます。
言葉が紡ぐ世界は、有限の語彙の中にあっても、きっと無限に開かれているのでしょう。
言葉が人と世界をつなぐ限り、編集という仕事もまた、絶えることなく求められ続けるはずです(そう信じたいものです)。
編集者にとって言葉とは何か
私たち編集者は、思考を形にし、外に立ち上げることを生業としています。
そんな私たちにとって、言葉とは何でしょうか。
言葉は単なる情報伝達の道具ではなく、思考や感情を形づくる、もっとも根源的な素材のようなものです。
そして言葉は作者の想いと読者の心をつなぐメディアであり、また時に、編集者自身に問いを投げかけてくる存在でもあります。
言葉に込められた重みや香りを感じ取りながら、その本質を損なわぬよう選び抜く。編集とは、言葉と誠実に向き合い続ける仕事だと思っています。
言葉は、人の心を傷つける刃にもなれば、そっと癒す薬にもなり得ます。だからこそ編集者は葉の力をより強く意識し、丁寧に取り扱うべきなのでしょう。わずかな言い回しの違いが、文章全体の響きを左右することを知っているからです。
しかし言葉とは本当に難しいですね。
私自身、言葉を適切に使えるのかと問われると正直自信はありませんし、きっといつまでも自信はつかないのかもしれません。
さて、編集者の仕事を表面的に見れば、誤字脱字を正し、文の構成を整える作業に見えるかもしれません。しかし実際には、もっと繊細で、感覚的で、職人的な作業です。
どの表現が著者の真意をもっとも的確に、かつ美しく伝えられるか。編集者はそのような問いの中を歩き続け、言葉たちの森の中から、ふさわしいひとことを探し当てていきます。
また、編集者は著者と読者のあいだに立つ橋渡し役でもあります。
著者の声に深く耳を傾けながら、同時に読者の立場に立って、意味が正確に、そして豊かに届くよう調整する。そのために求められるのは、想像力と共感力です。行間に潜む感情を感じ取り、読者の反応を先回りして思い描きながら、言葉と言葉のあいだに、静かに道筋を通していく。そこに編集者としての技術と美学があります。
だからこそ編集者は声高に自らを主張する必要はありません。
むしろ、黒子のように文章の背後に身をひそめ、言葉が本来の姿で輝くように支えることが求められます。
フィクションであれノンフィクションであれ、著者の表現と声の輪郭を壊さず、そのまま届けるための調整を行う。語順を整え、余分をそぎ落とし、より伝わる言葉へと差し替えながらも、あくまで語り手は著者であるという姿勢を崩さないこと。それが、編集者としての矜持です。
編集にはもうひとつ、見過ごせない役割があります。
それは、言葉と作品に対する倫理的な責任です。
文章は、著者の思考や記憶、感情が刻まれた繊細な表現であり、ただの文字データではありません。だからこそ、私たちは文章を、書き手そのもののように扱うべきだと考えています。
傷つけないように、歪めないように、過不足なく伝えるように。編集とは、そうした配慮の積み重ねでもあります。たとえ過激な表現や複雑なテーマであっても、文脈に沿って言葉のトーンを調整し、誠実に届ける。その一語の選択が、読者の理解や社会的影響を左右することもあるからです。
言葉とは文化の鏡であり、時代とともに変化する生き物でもあります。編集者は、その変化に敏感でありながらも、言語文化の豊かさや美しさを次代へ手渡す「言葉の案内人」であるべきだと思っています。
流行や技術に合わせて新しい表現を柔軟に取り入れつつ、言葉に宿る歴史や倫理を見失わない。そのバランス感覚こそが、今求められる編集者のあり方なのかもしれません。
結局のところ、編集者にとって言葉とは何か。
それは、日々の仕事を支える実用的な道具であると同時に、著者と読者を結ぶ橋であり、文化を運ぶ器であり、そして守るべき大切な命です。
編集者は言葉を通じて、声なき声をすくい上げ、余白に潜む想いを掬い取り、それを社会へと届けていきます。
編集者にとって言葉とは、生涯をかけて向き合う相棒であり、文化と知の灯を絶やさぬための小さく確かな希望でもあるのだと感じます。
あまりに難解な言葉たちに圧倒され驚いた日
ここで私個人の体験の話をさせてください。
言葉が面白いものだとはじめて強く感じたのは実は中学生の頃でした。
ある日、家でふと手に取ったカントの『純粋理性批判』。この本が言葉の衝撃の原体験なのではないかと思っています。
今思えば、あまりにも無謀な挑戦でした。難解を通り越して、まるで呪文のような文章が延々と続いていました。
情けない話ですが、内容はまったく理解できませんでした。どこからどこまでが主語なのか、いったい何を述べようとしているのか…。
文の構造すらまともに読み解けません。
読み進めるというより、ただひたすら文字を追いかけていたような記憶があります。
けれど、なぜかその体験は強く印象に残っています。
理解できなかったにもかかわらず、いや、理解できなかったからこそ、言葉がもつ未知の可能性に出会ったような感覚があったのです。「言葉って、こんなにも難しく、こんなにも深く、こんなにも暴力的で自由なものなのか」と。
日常会話では決して使わないような単語、幾重にも折り重なる論理、読者の理解をまるで待たない速度感。
そのすべてが「言葉」の力を見せつけてくるようでした。
意味を伝えるだけでなく、読む者の認識そのものを揺さぶるような言葉の使い方が、この世にはあるのだという驚き。それが、私にとって言葉を「面白い」と思った最初の体験だったのだと思います。
後年、あのとき読んだ文章の一部がふいに意味をともなって立ち上がる瞬間がありました。それは知識の蓄積というより、あの頃まいた種が、時間をかけてゆっくりと発芽したような感覚だったのです。
編集の仕事に携わるようになってからも、あの驚きはどこかで忘れずにいます。
言葉には、今すぐには理解されなくても、いつか誰かの中で芽吹くような力があるのかもしれません。その可能性を信じられることが、私にとって言葉と向き合う理由のひとつになっているのかもしれません。
ちなみに、この『純粋理性批判』は今もずっと私の手元にあります。
表紙はすり切れ、ページの角は折れ曲がり、今ではすっかりボロボロになってしまいましたが…。
内容を理解できなかった一冊がいつしか言葉の奥深さを教えてくれたような気がして、今では小さな宝物のような存在になっています。
「言葉ではない言葉」に向き合うということ
さて、言葉は必ずしもテキストに限られるものではありません。
私たちが日々触れている「言葉」には、文字や音声を超えた、もっと深く、もっと広い「層」が存在しているのではないでしょうか。
言語学者・丸山圭三郎は、その著書『言葉と無意識』の中でこう述べています。
演劇や音楽、絵画、彫刻もまた一つの言葉なのである。見るたびに、聞くたびに、その都度新しい意味を与えられ与え返す体験の一回性は、単に芸術作品との出会いという特権的状況に限らない。さりげない日常会話においてさえ、伝達する意味とは無関係に、ある時は人の言葉のイントネーションに感動し、ある時はそれによって深く傷ついてしまう。私たちは怒りを赤い顔で表しているのではなく、赤い顔そのものが怒りであるのと同様に、そこには表現と内容を切り離すことのできない、いわば身振り・表情としての言葉がある。
ここで語られているのは、「言葉とは何か」という問いを、意識の手前、もっと身体的で、もっと感覚的な次元まで降ろして見つめる試みのように感じます。
つまり、意味が語られる前に、すでに身体が語っているということ。たとえば、赤くなった顔は怒りを説明する必要がないほどに、それ自体が怒りそのものとして受け取られます。
私たちは、ただ言葉の内容を理解しているのではなく、「どう語られたか」「どんな声で、どんな間で、どんなまなざしとともに語られたか」といった、言語外の要素からも大量の意味を受け取っています。
そこには音のリズムや表情のニュアンス、身体の配置や沈黙の時間さえも含まれています。声の震えや沈黙のタイミング、うまく言えない語尾の濁りに、私たちは敏感に反応し、そこから意味を受け取っています。内容と表現は切り離せるものではなく、ひとつのまとまりとして、私たちの前に立ち現れているのです。
言葉とは、構文や表現だけでは完結しない「場」としての現象なのかもしれません。
このような言葉の在り方は、芸術の文脈において特に顕著に表れます。
絵画の筆致、音楽の旋律、俳優のまなざしや歩幅。そうした要素は、文字に還元されることのない、直接的な「言葉」として私たちの感性に触れ、意味を超えた印象を刻み込みます。鑑賞とは、目に見える情報を読み解くというより、「言葉にならないもの」と呼応する体験なのかもしれません。
しかし、こうした非テキスト的な「言葉」は、芸術の場に限られたものではありません。
また、現代の編集には映像や音、構成や空間設計といった非言語的要素も数多く含まれます。タイトルやキャプション、ナレーション、あるいはサムネイルに書かれたたった一行の言葉が、その意味の枠組みを決定づけているのです。
UI/UXの現場においても同様です。ボタン、ラベル、メッセージなどの言葉遣いひとつで、ユーザーの動きも感情も変わってしまう。
そうした意味で言えば、言葉は操作性と感情設計の交差点にある存在とも言えるかもしれません。
そしてこの「言葉ではない言葉」に向き合うには、論理よりも時として感覚が求められることがあります。
編集という仕事においても、ただ文法的に正しい表現を並べるだけでは届かないものがあるためです。
言葉の背後にある沈黙、書かれていない行間、言いよどみや気配をすくい取る力。そうした身体的な読解力が、言葉の奥に潜む真意を照らし出すことは珍しくありません。
「語る」という行為は、情報を伝えるだけでなく、自らの存在を現すことでもあります。
そしてそれを受け取る私たちの側にも、言語を超えた次元で相手の声を受け止める準備があります。文化、感情、記憶、無意識といった多層の感受が、ひとつのやりとりの中で重なり合っているのです。
だからこそ、編集者にとっても、表層のテキストだけに目を奪われず、言葉の背後にある「かすかな揺れ」に耳をすます姿勢が大切なのだと思います。
それは、伝わらなかった一文の原因を、表現や文法にだけ求めないということ。行間に潜む「言葉ではない言葉」に注意深く向き合うということです。
編集とはそうした微かな波紋に気づき、それを必要なかたちに整えて届けることでもあるのだと、私は思います。
言葉を楽しむという態度
言葉とは、本当に不思議なものです。
同じ意味を伝えているはずなのに、言い方ひとつで空気が変わよりも。あるときは鋭く胸に突き刺さり、あるときはやわらかく心に沁みる。同じ「ありがとう」でも、タイミングや語尾、言い手によって、まるで違う意味を帯びて届く。
それほどまでに、言葉は不安定で、繊細で、奥深い存在です。
だからこそ、言葉に向き合う仕事をしている人間には、「正しく扱う」こと以上に、「楽しむ」姿勢が大切なのではないかと思うことがあります。
言葉の選択に悩んだとき、語感に耳を澄ませ、ふとした言い回しに面白がる余裕を持つことや、予定調和から少しはみ出す表現に心を躍らせること。言葉との関係を、制御でも管理でもなく、対話のように感じること。
編集という仕事は、ともすれば「整えること」に意識が傾きがちです。しかし言葉を楽しむ態度は、むしろ「揺らぎを許すこと」に近いのかもしれません。
意味が複数に分岐する曖昧さを受け入れたり、論理のすき間にある詩的な違和を大切にしたりする。そのゆらぎにこそ、人が感じる「気配」や「余白」が宿ります。
もちろん、書き手として、あるいは読み手として、言葉の重みや責任から逃れることはできません。ですが、その重さに押しつぶされないためにも、言葉と戯れる余白を自分の中に持ち続けることが、長くこの仕事を続けるうえで重要なのではないかと思うのです。
ときに行き詰まり、ときに言葉が出てこなくなる日もあります。それでも言葉を楽しむという姿勢だけは手放さないようにしたい。
言葉の面白さに目を向け続けること。それこそが、編集者という存在を支える見えない芯のようなものなのではないでしょうか。
言葉を大切にするということは何を意味するのか
編集に携わる私たちは、日々、無数の言葉に向き合い、それを選び、並べ、磨く仕事をしています。
そのなかで「言葉を大切に」という言葉を何度となく耳にし、また自ら口にします。けれども、それは具体的にどういう態度を指しているのか、少し立ち止まって考えてみました。
言葉の微かな違いに耳を澄ますこと
言葉には、ひとつひとつ異なる響きや質感、背景があります。
例えば「希望」と「望み」。そして「美しい」と「麗しい」。
似ているようで、それぞれが放つ空気はなんだか微妙に違います。
言葉を大切にするとは、こうした違いを粗く捉えず、伝えたい内容にもっともふさわしい表現を選び取る姿勢のことです。
あまりに広く知られている例で恐縮ですが、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという有名な逸話がありますね(あくまで俗説ですが)。この意訳は、ただ意味を移し替えたのではなく、言葉に宿る余韻や文化的な肌ざわりを掬い取った好例です。
単に内容を伝えるだけでなく、その背景にある感情や情緒まで含めて編み直す。それが、私たちが日々行っている「編集」の核心に近い行為なのかもしれません。
また、小説家の井上ひさしはこんなふうに語っていたようです。
「難しいことを優しく、優しいことを深く、深いことを面白く、面白いことを真面目に、真面目なことを愉快に、愉快なことはあくまでも愉快に。」
難しいですね。
言葉には、伝える内容に応じて、最適な言葉の温度や距離を探る感性が滲んでいます。言葉の持つ繊細な表情を見極めることは「言葉を大切にする」という態度のひとつだと思うのです。
誠実さを重んじること
「盛る」ことや「映える」言葉を選ぶことは、時に魅惑的です。
けれども、言葉を本当に大切にするならば、事実に寄り添うという誠実さを手放してはいけないと思うのです。
美しく聞こえる言葉が実は何も伝えていないこともありますし、逆に地味で素朴な言葉が誰かの心に深く届くこともあります。
言葉には、人を励ます力も、傷つける力もあります。だからこそ、過不足のない言葉を選ぶことに慎重でありたいと思うのです。
現代は、誰もが手軽に言葉を発信できる時代です。その便利さの裏で、言葉が粗雑に扱われ、意味が空洞化していく場面も少なくありません。
だからこそ私たちは、なおさらゆっくりと、言葉を選ぶ時間を持ちたいと思うのです。
一語を発する前に、ほんの一呼吸おく。それもまた、言葉への敬意だと感じます。
沈黙や余白の価値を知ること
パラドックスのようですが、本当に言葉を大切にする人は言葉を過剰に使おうとはしないように思えます。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最後でこう記しました。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」
言葉にできないことを、無理に言葉にしようとすると、かえって真実から遠ざかってしまう。それは編集にも通じる感覚だと思います。
行間に余白を残し、読者の想像に委ねる。必要な言葉を慎重に選び、余分な飾りを削る。
それもまた、言葉を大切にするひとつの態度です。
『1984』の著者ジョージ・オーウェルは「意味が変わらないのであれば、余計な言葉はすべて削れ」と述べました。
それは効率のためではなく、言葉が本来持つ輪郭を損なわないための美意識であり、ある種の倫理なのかもしれません。
まだ名づけられていない何かが「言葉になる瞬間」のために
「言葉がなければ可能性は開けない」。
この言葉は矢野茂樹の著書『語りえぬものを語る』に登場する章題です。
初めてこの言葉に触れたとき、その簡潔さと鋭さに大変驚いたことを覚えています。
言葉とは、過去を記録するための器であると同時に、未来をひらくための鍵でもある。そのようなことを思ったのです。
編集という仕事に携わる私たちは、日々、数えきれないほどの言葉と向き合っています。
けれど、その奥には、まだ言葉にされていない思考や感情、輪郭を持たない何かが、静かに息を潜めているように感じるのです。
言葉が与えられることで、初めて思考は輪郭を持ちます。
まだうまく言えないこと、まだうまく考えられていないこと。それらは編集という行為によって、少しずつ、言葉へと導かれていく。
言葉にならないものは、他者と共有されることがありません。そして、共有されないものは、世界を動かす力を持ちえない。
だからこそ、どんなに不完全でも、どんなに揺らいでいても、言葉にしようとすることには深い意味があります。
その言葉が現実を照らし、わずかでも新たな選択肢を示すのだとすれば、それはまさに「可能性を開いた」ということなのかもしれません。
編集とは、そうした言葉の可能性を信じ、そっと手を添える仕事でもあります。著者や文化の中に眠っている言葉に光を当て、その言葉が本来持っている力が、よりよく届くように調整し、磨き上げていく。
その地道な作業のなかに、まだ見ぬ誰かの視界をそっとひらく力が宿っています。
だからこそ、私たちは言葉を粗雑に扱ってはならないのだと思います。ただ削るのではなく、曖昧なものを乱暴に輪郭づけるのでもなく。言葉の迷いを理解し、試みとしての言葉に寄り添いながら、最も正直なかたちへと導いていくこと。
それが、編集者という職能に託された使命のひとつなのではないでしょうか。
そしてなにより、編集者自身もまた言葉によって開かれていく存在です。
たとえ文章を書くのが著者であっても、その言葉のあいだに耳を澄まし、選び取り、整えていくなかで、私たち自身の世界もまた、静かに拡張されていきます。
言葉がなければ、世界に光は差しません。
言葉があるからこそ、まだ語られていない想いに名前を与えることができる。
そしてその名づけは、時に人の生を変え、世界を変える力にもなるのだと思うのです。
編集者の仕事は、まだ名づけられていない何かが「言葉になる瞬間」に立ち会い、それを手助けすることなのだと思います。
そのような言葉の誕生の場面に何度でも立ち会うことができるということは、とても幸せなことなのかもしれません。
「日々言葉を探す」という態度
私はいつも「言葉を探すこと」を大切にしています。
編集者にとって、言葉は単なる道具ではありません。それは、自分の手の中で磨き続けるべき技術であり、感覚であり、思想です。自身の言葉への感度が未熟であれば、編集の仕事もどこかで稚拙なままになってしまう。
だからこそ、言葉を磨くという姿勢は、編集者にとって極めて重要な態度のひとつだと感じています。
その中でも、最も静かで、最も豊かな時間のひとつが「本の中から言葉を探す」ことです(私にとっては)。
時に引用のために、あるいは思考の補助線として、またはただ確かな言葉を見つけるために繰り返し、本のページをめくります。
言葉の選び方、語順、トーン、リズム、それらがどのように編まれているかを読むことで、私たちは「書くための感覚」や「読むための耳」を静かに育てています。
他人の文章を読むことで、自分の中の言葉が、少しずつ研がれていく。そんな時間が、確かにあるのです。
それは辞書を引くような作業ではなく、もっと感覚的なものです。意味を調べるのではなく、記憶や余韻を辿りながら、本の中に沈んでいる言葉をそっと掘り起こす。そんな時間です。
まだうまく言い表せない感情や状態に出会ったとき、本の中の誰かの言葉がそれに輪郭を与えてくれることもあります。そして何気なく読み返した一節が、まるでこちらの意図を見抜いていたかのように今まさに必要としていた語句を差し出してくれることもあります。
村上春樹の小説に漂う空白や乾いた描写がある原稿の行間にそっと光を差すこともあれば、詩人のひとことが宙ぶらりんだったテーマをようやく着地させてくれることもありました。
本を読むということは、ある種の共同編集でもあると感じています。
書き手がその作品の中で選び抜いた言葉たちは、時を越えて、別の誰かの表現を導き出す触媒となる。一つの表現が、また次の表現を連れてくる。その連なりの中で、私たちは過去の知と手を取り合いながら、今ここにある意味を編み続けているのです。
もちろん、言葉が見つからない日もあります。どれだけ本を開いても、どれだけ読み込んでも、腑に落ちるものが見つからない。そんな時間もあります。
しかし大事なのは見つからなくても探し続けるということです。
ページのなかで、書き手の声のなかで、そして自分自身のなかで言葉を探し続ける。この探すという行為そのものがすでに言葉への誠実な態度なのだと私は思います。
探すことでしか出会えない言葉が世の中にはたくさんあるのです。
本の中に眠っている表現たちは、かつて誰かが、時間をかけて、悩みながら選び抜いた、かけがえのない言葉たちです。
編集者はその言葉に、もう一度、別の文脈で呼吸を与えることができます。新しい文章の中で再び光を放つように、そっと言葉を置き直すのです。
探し続ける限り、言葉はきっと、どこかのページの中でこちらを待っているのだと私は信じています。
結びに – 意味を編むために言葉を編む
ここまで見てきたように、言葉は世界をかたちづくり、人と人をつなぎ、そして編集という営みを根底から支えています。
編集者はその言葉を編む人であり、その力を引き出す職人でもあります。
最後に、この「編む」という言葉に込められた示唆について考えてみたいと思います。
英語の “text(テキスト)” は、ラテン語の“textus(織られたもの)”を語源に持ちます。そこから「textile(織物)」という言葉も派生しました。文章はもともと「織られたもの」として捉えられてきたようです。
ロラン・バルトは「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来る引用の織物」だと語りました。
どんな文章も、孤立して存在しているわけではありません。あらゆる言葉は、歴史や他者の思考、文化的背景といった無数の糸と結びつきながら織り上げられているのです。
編集者は、その既存の織物を一度ほどき、必要に応じて新たな糸を加えながら、再び意味のある模様を編み直す人だと言えるでしょう。
この「織物」のメタファーは、日本語の感覚にも響きます。
たとえば、三浦しをんの小説『舟を編む』では、辞書をつくる編集者が、言葉を束ねて一艘の舟を編み上げる姿が描かれます。辞書とは、言葉の海を渡るための舟。編集者は、その舟を一つひとつ、丁寧に編んでいくのです。
言葉という糸を選び、編み込み、やがて知識や思考を運ぶかたちにする。この根気の要る作業は、まさに編集の本質をよく表しているように思います。
私たちは、意味を編むために言葉を編むのかもしれません。
まるで未来への贈り物をするように。
しかし私たち編集者は、編んだ舟に自分の名を記すことはないかもしれません。
けれど、その舟に乗った言葉は、静かに、しかし確かに読む人の胸に届きます。ときに、人生の一場面に、小さな灯火をともすこともあるのです。
日々の忙しさのなかで見落としがちになるかもしれませんが、ふと立ち止まって「言葉と編集」の関係に思いを巡らせるとき、自分たちの手元にある一語一語が、愛おしく、尊いものに思えてきます。
振り返ってみれば、私たちの仕事は、言葉への愛そのものなのかもしれません。
私たちはこれからも、言葉を編み、意味を紡いでいきます。静かな情熱を胸に、その手作業を丁寧に、誠実に続けていきたいと思います。