私は世界をそのまま見ているのではなく、あらかじめ用意された“見え方の枠組み”を通して世界を見ているのではないか、と思うのです。
言語や価値観、習慣、物語。そうしたものを介して、私たちは世界を読むように受け取っています。
だからこそ、人は「もの」より先に「意味」を見ているのかもしれません。同じ風景を前にしても、人によってまったく違う意味が立ち上がるのは、そのためなのでしょう。
ある人にとっては落ち着いた住宅街に見える景色が、別の人には監視の行き届いた都市空間のように映ることがあります。
風景が違うのではなく、風景を成立させる文法が違っているのです。
こう考えると、私たちの“当たり前”の多くは、他者から受け取った編集ルールの集積によってできているように思えてきます。
この“編集ルールの束”を、私たちは文化と呼ぶのかもしれません。文化とは、歴史のどこかで誰かが設定し、長い時間をかけて共有されてきた「こう見るものだよ」という既定値の体系だと、私は捉えています。
私たちは世界を解釈する前に、そんな文化という初期設定の中にログインしてしまっています。その事実を踏まえ、私たちは文化の中でどう生きるべきか。文化に対する編集性のあり方ってなんだろうか。
そんなことを考えてみました。
世界は生のデータではなく、編集された情報で見えている
私たちは日々、膨大な情報を「受け取っている」ように思っていますが、実際には生の情報をそのまま受信しているわけではありません。
目の前の世界は、一度“編集”されたうえで認識に立ち上がってきます。これは認知科学でも哲学でも繰り返し指摘されている構造ですね。
さて、人間は「見る」よりも先に「意味を読み取る」生き物です。
たとえば地面に紙切れを見つけたとき。
私たちの頭の中では「ゴミだな」「誰かが落としたのかな」「拾ったほうがいいかな」といった解釈が一瞬で起動します。物質としての紙より、意味のほうが先に現れるのです。
また、「赤信号を見て止まる」という行動も、光の仕組みを理解しているからではありません。“赤は停止を意味する”という文化的なルールが、先にインストールされているためです。
この仕組みは日常のあらゆる場面で働いています。
他人の表情を見て怒っていると判断したり、声のトーンから機嫌を推測したりするのも、生のデータを見ているのではなく、私たちの経験や文化が編集した“意味の像”を見ているのです。
つまり「世界を見ている」と感じるその瞬間、すでに世界は編集済みだったりします。
「世界は生のまま届くことはなく、常に何らかの文法に沿って整形された状態で立ち上がる」ということを理解すると「自分が見ている世界は、必ずしも唯一の世界ではない」という実感が少しずつ出てきます。
「暗黙の編集規則」について
私たちは世界を“自由に”読み取っているつもりでいます。
しかしその読み方の多くは、自分で選んだものではありません。生まれ育つ過程で自然と身につけた、いわば“暗黙の編集規則”によって解釈が方向づけられてしまうことがしばしばあります。
この暗黙の編集規則とは「こう振る舞うのが普通だよ」「こういう状況ではこう読むよね」という、社会的・文化的に共有された見え方の文法の総称だと思ってください。
沈黙はその典型例です。
沈黙が気まずさを意味する文化もあれば、沈黙こそ敬意と落ち着きを示すとされる文化もあります。物理的な現象は同じでも、意味はまったく異なります。
言語の使い方にも深く刻まれています。
主語を明確にする文化もあれば、曖昧さを思いやりとみなす文化もありますね。
人との距離の取り方、目線、声のボリュームなど、身体的な反応も含めて、“なんとなく”の感覚には文化的規則が働いているのです。
そして厄介なのは、このルールが“極めて暗黙的”であることです。
自覚されないまま作動するため、自分の本心との区別がつきにくくなります。
結果として「自分がそう思うから、そうなのだ」と感じますが、実際には“そう思わされて”いることが多々あるはず。
暗黙の編集規則とはつまり、世界をどう読むかを気づかぬうちに決めてしまう文化的アルゴリズムなのです。そして私たちは、そのことに気づかないまま、文化が提示する既定値を「自然なもの」として生きてしまうのです。
これは幸せなことなのか、それとも不幸せなことなのか、なんとも判断しにくいところではありますが。
文化は“世界の既定値”なのか
文化という言葉は、ときに「伝統」「価値観」「習慣」といった外側の装飾のように扱われます。しかし実際には、もっと深い層で働いていると思うのです。
例えるなら、文化とは世界をどう読み取るかをあらかじめ決めてしまう“既定値”のようなものなのではないかと。
世界を理解する前に、すでに私たちは「ある文化のOS」にログインしていると言えます。
OSが違えば、同じアプリケーションの挙動も変わるように、文化が違えば、同じ出来事の意味も変わります。
知らぬ人から急に話しかけられたとき、警戒として受け取るのか、好意として受け取るのか。これは状況の違いというより、背景にある文化的な既定値の違いによって判断が変わります(ちなみに僕は警戒するタイプです)。
価値観が働くのは、私たちがすでに「どういう世界があり得るのか」という前提を共有しているからでしょう。
そしてこの文化の既定値は意識的に選べるものでは到底ありません。
というのも、文化の既定値は個人が意識的に選択するものではなく、生まれてから日常の中で自然とインストールされていたりするからです。気づかないうちに、私たちは「どんな世界をあり得るものとして認識するか」という初期設定を身につけてしまうのです。
なんだか怖いですね。
そしてこの既定値は自動的であるがゆえに、ほとんど疑問を持つことがありません。「世界とはこういうものだ」と感じてしまうのです。
しかし一度でもこの既定値の存在に気づくと、価値観や反応の多くが文化的な設定にすぎないと理解でき、「世界には別の読み方があるんだなあ」という視点を持つことができます。
「海外旅行に行って価値観が変わった」という話をしばしば耳にしますが、アレはこれのことだと思っています。
文化を“既定値”と捉える視点は、世界をより深く理解するための鍵となると考えています。そして同時に、それは自分自身の見え方を編集し直すための出発点にもなると感じています。
編集的視点から既定値を書き換えることができるのか
文化が「世界の見え方の既定値」だとすれば、編集とはその既定値を“上書きする”行為だとも言えます。
編集という言葉は文章やデザインの領域で使われることが多いですが、その本質はもっと広く、もっと根源的なものです。本質的には、“世界の読み方を別の角度へずらす作業全般”を指すはずです。
そして既定値を書き換えるとは、「新しい価値観を押しつける」ということではなく、むしろ、読者やユーザーが“当たり前だと思い込んでいた前提”を一度ゆるませ、「世界には別の読み方もあるんだよー」という可能性を提示することです。
ある写真を「美しい風景」として見るか、「開発によって失われた自然」として見るかは、文脈をどう編集するかで大きく変わります。

賑わう街か、自然が失われた光景か

ただ荒廃した土地か、それとも豊かな自然か
同じ像でも、言葉や構成を変えるだけで、その意味はまったく異なる物語として立ち上がります。編集者とは、この“意味の立ち上がり方”そのものをデザインする存在です。
さらに編集には「見えすぎているものをいったん外す」という側面があるなと思うのです。
文化が押しつける“当たり前の見方”に小さな揺らぎをつくることで、「それは本当に自分の見方なのかな?」という問いを差し込める仕事でもあると思います。
そこにすごく大きな社会性を感じるのです。
一冊の本、一つの広告、一つのサイト、一つの文章が、人々の既定値を静かに書き換えていくことがあります。
「こういう生き方もあるよ」「こういう価値の捉え方もあるよ」という別のルートを示すことで、世界を複数の読み方が共存できる場所へと変えていくのです。
ここに私は面白さを感じています。
編集者の力量とは、言葉やビジュアル表現の巧みさだけではありません。“見え方の文法そのものをいじる視点を持てるかどうか” がその力量の本質だと思っています。
文化のOSの上にアップデートを重ねるように、世界の読み方にそっと別の可能性を埋め込む力。それが編集の根幹にある力なのかもしれません。
既定値を書き換えるという行為は、小さな作業のようでいて実はとても大きな意味を持つ行為です。
それは世界を変えるのではなく、世界の見え方を変える試みだからです。そして見え方が変われば、世界そのものが変わったのと同じ効果を生み出すのかもしれません。なんだか壮大ですね。
人は既定値から自由になれるのか
文化の既定値は、私たちが世界を理解するための土台でありながら、同時に認識を縛る枠でもあります。
人はこの既定値から自由になれるのでしょうか(なる必要があるのかはさておき)。
おそらく完全には無理です。
生まれてから積み重ねてきた経験、言語、価値観、身体感覚は、すでに深く根を下ろしてしまっています。これらは単なる知識ではなく、世界をどのように“感じるか”というレベルにまで浸透しているため、文化の既定値は自分の骨格の一部のようになっているのです。
しかし、距離を置くことはできます。
自由とは、文化を脱出することではなく「自分が文化の中にいる」ことを自覚することから始まります。
ある価値観について「自分は本当にそう思っているのか、それとも社会がそう思わせているのか?」と問い直すこと、その一歩が、既定値に対する“自覚的な立ち位置”を生むと考えています。
これも哲学者たちが口にしてきた「反省的態度」だと思うのです。
反省的態度とは、文化をただ疑うことではありません。
むしろ「文化の内側にいる自分」を認識しながら、その枠組みとの関係を調整していく姿勢として反省的態度があるべきです。
喜び、怒り、恥ずかしさ、誇り、善悪、嫌悪、幸福などいった感情の読み方を少しずつメタ的に眺めてみることで、その感情が文化的に“教え込まれた反応”なのか、自分の内側から湧いたものなのかが見えてきます。
こうした視点が生まれると、「自分の価値観=世界の真実」という固定的な視点ではなく、「自分の価値観=一つの読み方にすぎない」という柔らかな認識へと変わります。
その瞬間、人は既定値に吸収されるだけの存在から、既定値に能動的に関われる存在へと変わっていくと思うのです。
自由とは文化を消し去ることではなく、文化と自分の関係に余白をつくる能力だと言えます。その余白が生まれたとき、人は初めて“自分で選ぶ”という感覚を持つことができるのでしょう。
たとえそれが限定的な自由であっても、それは確かに「自分の人生を生きる」という手触りを与えてくれるはずです。
余談ですが、この余白こそが学びの核心でもあると思っています。
学ぶとは、“既定値に揺さぶりをかける行為”そのものであり、既定値を絶対視せず、必要なときには柔らかく書き換える力を育てることなのかもしれません。
結びに:文化の中で生きつつ、文化を少しだけ書き換えるという在り方
私たちは生まれた瞬間から文化という既定値に包まれます。この事実に向き合うと、私は少しだけ息苦しさを覚えます。
「自分の見ている世界は、自分のものじゃないのかもしれないな」と思うからです。
しかし同時に、文化の内側にいるということは、文化をただ受け取るだけの存在ではなく文化を更新する側にも回り得る、ということでもあります。
文化はとても巨大で強固に見えますが、日々の言葉、行動、作品、思考の積み重ねによって静かに書き換えられ続けています。
既定値に守られつつ、既定値を疑い、既定値を使いこなし、ときに再編集する。その揺らぎこそ、人間に与えられた自由の形なのだと思います。
文化を敵視するでもなく、盲信するでもなく、文化の中で呼吸しながら、自分自身の感性でほんの少しだけ既定値をポジティブな方向に書き換えてみることができれば、それはとても幸せなことかもしれません。
それは“小さな編集性”から始まると思っています。
一つの言葉、一つの気づき、一つの問い。それらがやがて、自分自身の世界も、誰かの世界も、そっと更新していくのだと信じています。