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冬支度「切り枝を生ける」

花瓶と切り枝

すっかり朝夕の冷気が染みわたる今日この頃。

早朝、布団から出て間もない温まった肺に取り込まれたひんやりと冴わたる空気が、私の体と心をリセットしてくれる気がしています。

木枯らし月に差し掛かり静かな冬の気配を感じると、決まって自室に木の枝を生ける習慣がついたのはいつからでしょうか。

青々とした新緑や、可憐な花々も嫌いではないのですが、私のこもり部屋を小さく彩っているのは、どこかもの寂しい1本の切り枝なのです。

余白を愛でる日本特有の美意識である「間」の考え方に共感を覚えるようになったのは、記憶の埃も積もっていないくらいの頃のことです。

かつて、その澄み切った眼差しで世界を切り取った松尾芭蕉が『枯枝に烏のとまりたるや秋の暮』と詠んだことからも、たった一本の枯れ枝でさえ、季節の情景を映し出す器となることは、脈々と受け継がれてきた美意識の証左であることはきっと違いありません。

切り枝は、椿のように色鮮やかでもなければ、梅の花のように鼻腔をくすぐる芳香を放つわけでもありません。

「生けた」その瞬間から、彼岸への旅支度を始める儚さと、静寂の中に宿る確かな生命力の対比に、なんとも形容し難い美しさを覚えるのです。

用の美

飽和状態に至った華美な装飾と技巧の「虚さ」に嘆き、いつしか「素のままの佇まい」に美しさを感じるようになる、という循環はこれまでの長きにわたる歴史において幾度となく繰り返されてきたように思えます。

例えば、かつての柳宗悦に始まった民藝運動では、陶芸、染織、日用雑貨等の分野において、これまで至上とされてきた華美な装飾や技巧ではなく、日々の暮らしの中で使われる物の「実用性(用の美)」の価値が主張されました。

名もなき人々が紡ぎ出す、あまりに普遍的な無名の日用品。「灯台下暗し」とはよく言ったもので、日々の暮らしに溶け込む物の「無名の美」には案外気づかないものなのかもしれません。

私自身、デザイナーとして日々さまざまな意匠と向き合ううちに、近頃頓に「本当に美しいものは何か」という問いに向き合うようになりました。

誤解を恐れず言うのであれば、質素であること、実用的であること、この辺りが私の考える「美しさ」です。

足して、引いてを繰り返し、本当に必要な要素が整然と並んだ状態を眺めると、昨年まで当然必要だと考えていたものの多くが、実はエゴだったことに気付かされることもあります。

一方で、私自身、あらゆる装飾や技巧から脱却できるほど成熟してはいないのも事実です。そんな自分の未熟さもある程度許容しながら、「足す」と「引く」を繰り返し、そのサイクルが、少しづつ自分の感性を成熟させると信じています。

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Ryota Kobayashi