本書は、著者の深澤さんが日常の中にある「ふつう」を拾いあげ、そんな「ふつう」の良さを、深澤さん自身の飾らない素のままの言葉で紡いでいます。
そして、ただ妥協と平凡の上に成り立つものを「ふつう」とするのではなく、時間をかけて人々の生活の中で淘汰され、残ってきた本質的な価値に目を向けること。
「ふつう」であることの中に見出される豊かさや、日常の中にある美しさに気づくこと。それは、私が今後デザイナーとして仕事をするにあたってとても大切なことであると思いました。
「ふつう」を感じる瞬間
ひょっとすると私たちが「ふつう」を感じる瞬間なんて、「ふつう」に過ごしていたらほとんど無いのかもしれません。
「特別」や「非日常」とまでは言わないものの、日常になんらかの変化があった時、その変化が落ち着いてまたいつもの日常を取り戻した時に、はじめて人は「ふつう」の素晴らしさを実感する生き物なのだと思います。
例えば私の場合、仕事に忙殺されていると入浴はついシャワーだけで済ませてしまいます。
そして、ようやく仕事が落ち着いてくると、また当たり前のように湯船にお湯を張って入浴するわけです。少し熱めのお湯に爪先から膝下あたりまで浸かり、交感神経が刺激されて全身に穏やかな鳥肌が立った瞬間、「ふつう」の入浴のありがたさを感じます。
「ふつう」を自覚しないほど、「ふつう」に過ごせていること自体が実はとても幸せなことなのかもしれません。
等身大の自分
「本当は自分の中にもつ光の強さと同じ輝きのものを身につけることが美しいのだ。(p.35)」
私は「等身大の自分」という言葉をよく耳にし、その意味について考えることが多いのですが、実際にはどのような状態を指すのか、また他者に説明する際にどう表現すべきか、明確な答えを見出せずにいました。なんとも言葉にし難い、ぼんやりとした部分を端的に表現してくれました。
その一方で私個人としては、等身大を至上とするのは、少しお行儀が良すぎるかなとも思います。
「身につける衣服」「属する集団」「与えられた役職」、私はこれらが時に身の丈に合わないと感じる瞬間があります。きっとそれは、背伸びをしている自分が「特別」だからなのでしょう。
しかし、時にこの背伸びという「特別」が人を成長させることもあるとは思います。そして、最初は「背伸び」だったものが、いつしか「ふつう」になる。それはひょっとすると、最初した背伸びにようやく自分の中にもつ光の強さが追いついてきた証拠なのかもしれません。
生活に埋没し、行動や感覚に寄り添う「ふつう」
「押すべきところは自然と押したくなる」「引くべきところは自然と引きたくなる」、生活に溶け込み人間の自然な行動を導き出す性質は「アフォーダンス」と呼ばれています(※講学上の厳密な定義はあるとも思いますが、デザインの文脈ではこれくらいがわかりやすいかと思います)。
対象物自身が使用者に対して特定の行動を強制するのではなく、意識せずとも正しく使えるような、存在を主張しないデザインの在り方。それはデザインにおける究極の「ふつう」です。
自然と手の動きを誘導するドアノブの形状、姿勢を自然と導く椅子のフォルム。それらは押しつけがましくなく、しかし確実に機能します。
ふつうに暮らしていると、フォルムや材質などが特徴的な「目を惹くデザイン」ばかりに気を取られてしまいます。デザイナーとして、極めて自然に私たちの生活に埋没する「ふつう」のデザインにも目を向けなければならない、そう強く思いました。
今、自分に必要なものは「ふつう」への深い洞察
競合他社がどんな取り組みをしているか、どんなデザインがトレンドなのか、トレンドを如何にして自然にクライアントのビジネスと馴染ませるか。こうした視点は仕事をする上で大事にしています。
しかしながら、トレンドと向き合うあまり、時に「ふつうとは何か」という視点を忘れ、近視眼的な姿勢でデザインと向き合ってしまうこともあります。
「ふつう」は固定的な概念ではなく、時代や文化、社会状況によって絶えず変化する動的な存在です。まずはこの時代における「ふつう」を理解し、受け入れること。常日頃から、「ふつう」への洞察を深めること。「ふつう」に対して敬意を払い、そしてそれを漸次的に発展させていくこと、超えていくこと。それは、新たな価値を提供するための第一歩なのではないでしょうか。
時に常識を疑い、批評することも必要な場合もあるでしょう。しかしそれは「ふつう」を否定するのではなく、社会や文化の文脈の中で「ふつう」と対話し、捉え直す行為なのだと思います。
私の身近にもあった「ふつう」
人間工学的な観点から精緻に設計されたデザインや特定の情景や思想にインスピレーションを得たデザインも、もちろん魅力的です。
でも、もっと身近にあって、決して格好よい雰囲気ではなく、なんなら野暮ったい。けれども何故だか手元に置かれている、そんな「ふつう」のデザインは意外と身近にありました。
市役所の受付にぽつんと置かれていそうな、少し頼りなく、そして野暮ったい雰囲気。インクの残量も剥き出しになっていて、ボディは細くて少しだけ握りにくい。ノック式ではなくキャップタイプで、毎回キャップを後ろに被せて使わないといけない。
デザイン性と機能性ともに優れたボールペンは数多く存在します。でも、このボールペンのように、ただひたすらに字をその場でしたためること、それだけのために存在しているかのような「ふつう」さが、等身大の私によく馴染んでいるのです。
学生時代から今に至るまで、ほとんど変わらぬデザインと使い心地は今、私にとって「ふつうとは何か」を実感させてくれる大切な存在です。
結びに
デザインとは「人に刺激を与えるもの」、そんな考えが私の意識のどこかに常にありました。もちろん、そうした在り方もデザインの役割の一つであることは否定しません。
一方で、「刺激」とは「違和感」にも近いものだと思います。その社会や文脈における「ふつう」とは異なる状態でそこに存在しているからこそ、なんとなく目に留まってしまう。ひょっとするとこれが「刺激」の正体なのかもしれません。
本書を読んで強く思ったのは、デザインの役割とは、人とモノの関係をより自然に馴染ませることなのではないか、ということです。特段意識しなくとも空気のようにそこに存在していて、それが人に対してごく小さな幸福を与えること。深澤さんの言う「ふつう」とは、まさにそういった人とモノの理想的な関係性を示しているのかもしれません。
常に人とその環境における最良の関係を見つけ出し、それを「ふつう」として定着させていく。そこにこそ、デザインの本質があると信じています。