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AIの出力で出力された成果物、その確認負荷の行方を考える。

過去のリトルプレス「AIと共に働く」って何だろう。でも触れましたが、私たちの仕事のなかでAIを使う場面は、ずいぶん増えてきました。

来季の提案内容を考えるとき、コンテンツのアウトラインを組むとき、Webサイトの情報設計を整理するとき。白紙の前で立ち止まる時間を減らし、まずは土台をつくるための相棒として、すでにかなり頼もしい存在になっています。

私自身も日々使っていますし、業務の効率は以前より確実に良くなったと感じています。

ただ、その便利さを実感する一方で、最近よく考えるようになったのが、AIで作った成果物を「誰が、どれだけの負荷をかけて確認するのか」ということでした。

AIによって出力された「整って見える文章」ほど、実は注意深く読まなければいけないことがあります。そんな場面に何度か出会ううちに、素早く作れることと、安心して提出できることは、まったく別の話なのだと思うようになりました。

「明らかに変」ではない「もっともらしい違和感」の罠

AIの出力で厄介だと感じるのは、「明らかにおかしい」ものではなく、「一見すると整っている」もののほうです。

ぱっと読んだだけでは問題なさそうに見え、「おお、なるほど」と思えるくらいには構成もそれらしく整っています。

でも、少し立ち止まって読み返してみると、前提がずれていたり、論理のつながりが曖昧だったり、どこかで無理が生じていることも多い気がしてならないのです。(もちろんプロンプトの質にも依存する部分は大きいのかもしれませんが…)

ただ、その違和感はとても微妙で、流し読みでは見過ごしてしまうことも多いように思います。

「なんとなく大丈夫そう」という印象が先に立ち、精読する意識が弱まってしまうと、本来であれば引っかかるはずの部分が、そのまま通ってしまうこともあるかもしれません。

明確に誤っているものよりも、こうした「もっともらしい違和感」のほうが、扱いが難しいように感じます。違和感に気づくためには、結局のところ、とにかく丁寧に読み解いていくしかないからです。

確認工数は、見えないかたちで誰かに移っている。

出力を十分に精査しないままチームに共有してしまうと、そのしわ寄せは確認する側にいきます。

プロジェクトマネージャーやチームのメンバーが成果物の品質をチェックするのは、もちろん役割のひとつです。ただ、それを前提にして「どうせ誰かが見てくれるだろう」と考えてしまうと、自分が省略した確認のプロセスを、別の誰かに肩代わりしてもらうことになります。

しかも、前章で触れたように、出力がもっともらしいほど、その確認は難しくなります。ざっと目を通すだけでは気づきにくく、結局は時間をかけて読み込む必要が出てくるのです。

AIによって作業のスピードが上がる一方で、その確認負荷は誰かに転嫁されているかもしれない、とそんな感覚を持つ必要性を感じています。

拙くとも、自分で熟考するプロセスを諦めないこと。

AIにはハルシネーションがあると言われますが、それをすべて見抜けるかというと、そう簡単ではありません。

特に、自分が詳しくない領域については、何が正しくて何が違うのかを判断するために、別途入念な調査が必要です。

だからこそ、出力されたものをそのまま受け取るのではなく自分の中で一度咀嚼し、確かめるプロセスを持ち続けることが大切だと感じています。たとえ拙くても、自分で考え直すこと。構造を見直し、言葉を選び直し、自分の理解として組み立て直すこと。

そしてそれは、自分の理解のためだけでなく誰かに手渡す前の責任としての確認でもあるように思います。

まずは完成品ではなく「道標」として扱いたい。

もうひとつ大切だと感じているのは、AIで作ったものがどの程度の精度なのかを、事前に共有しておくことです。

「これはかなりラフな土台です」と一言添えるだけでも、受け取る側の読み方は変わります。最初から完成度の高いものとして扱うのではなく、「あくまで方向性を揃えるための道標として捉えよう」という前提があるだけで、無用なすれ違いや過剰な期待は減らせるように思います。

個人的に、AIの出力は完成された答えというよりも、思考を進めるための途中経過に近いものだと思っています。そこから何を選び取り、どこを疑い、どう組み替えていくのか。そのプロセスにこそ、人の仕事が残っていると思うのです。

土台を早くつくれる時代だからこそ、その上に何を積み上げるのかが、よりはっきりと問われるようになってきました。

AIを使うことと、責任を持って仕上げること。そのあいだにある距離を、丁寧に埋めていくことが大切だと感じています。

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Ryota Kobayashi