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日本犯罪史上最大の未解決事件「三億円事件」

1968年12月10日、わずか3分間で三億円という大金が消えた事件。

東京都府中市で金融機関の現金輸送車に積まれた約三億円の現金が白バイ警察官に扮した人物に奪われた窃盗事件。この事件の正式名称は「現金輸送車強奪事件」ですが、一般には「三億円事件」と呼ばれています。

結局、犯人検挙には至らず、1975年12月10日に公訴時効が成立。日本の未解決事件として歴史に刻まれることとなりました。

日本の犯罪史において最も有名な事件のひとつであり、巧妙な「劇場型犯罪」でありながら完全犯罪を成し遂げたことから、小説や映画、ドラマなど、フィクションやノンフィクションを問わず多くの作品で取り上げられています。

まるで映画のような犯行手口を振り返る

映画のような犯行手口が話題となった三億円事件。その緻密な計画性と大胆な実行力で、半世紀以上経った今でも語り継がれています。

犯行当日の出来事

事件当日、天候は大雨でした。

1968年12月10日午前9時15分頃、日本信託銀行国分寺支店から一台の現金輸送車が出発。車内には東芝府中工場の従業員4,525人に支給される約三億円のボーナスと銀行員4人を乗せています。

正確な被害総額は2億9,430万7,500円。この金額の語呂合わせから“ニクシミノナイゴウトウ”と呼ばれることも。

府中刑務所付近を走行中、後方から現れた白バイ隊員が輸送車を停車させました。この白バイ隊員は「支店長の自宅がダイナマイトで爆破されました」と運転手に告げます。

続いて「この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられている可能性があります」と伝え、車の下に潜り込み発煙筒を仕掛けます。

その数秒後には煙が立ちこめ、白バイ隊員は「ダイナマイトだ!今すぐ逃げろ!」と銀行員に指示。

車内にいた銀行員4人は一目散にその場から逃げ出し、誰もいなくなった現金輸送車に警察官が乗り込み、その場を離れます。

銀行員は、ダイナマイトが仕掛けられた車を人気のない安全な場所へと移動させてくれていると感謝しますが、車があった場所に戻るとそこにはダイナマイトを模した発煙筒だけが残されていました。

そこでようやく異変に気付いた銀行員は、三億円が強奪されたことに初めて気づくのです。

犯行時間はわずか3分という速さでした。事件発覚後の20分後には緊急配備を敷きますが、犯人は輸送車を数キロメートル離れた場所まで運転した後、あらかじめ用意していた別の車両に乗り換え、現金とともに姿を消しました。

この計画性の高さから、犯人が非常に緻密な準備を行っていたことがうかがえます。

当時の初任給は3万円、年末ジャンボ宝くじの1等賞金は1,000万円で、三億円は現在の価値に換算すると20億円以上と言われています。

犯行時の時代背景と綿密に考え抜かれた伏線

現金輸送車にダイナマイトが仕掛けられていると伝えられ、銀行員4人は疑いもせずすぐに車を飛び出したのでしょうか。

そこにはとある伏線が仕掛けられていました。

事件の数日前、1968年12月6日に日本信託銀行国分寺支店の支店長宛に、とある脅迫状が届きます。内容は、指定の場所に300万円を持ってこないと支店長の自宅を爆破するというものでした。

当日は厳戒態勢のもと、警察官に扮した人物が現場にいきますが犯人は現れません。

このような一件があったことで、現金輸送車に乗車していた銀行員たちも本当に爆破されたんだと勘違いしてしまったのです。

また当時の時代背景も影響しています。

1968年2月、ダイナマイトで武装した犯人が人質をとって立てこもった「金嬉老事件」や、同年6月には北鎌倉駅から大船駅間の車内で発生した「横須賀線電車爆破事件」などが世間を賑わせていました。

このような時代背景も相まって、銀行員は警察が伝えた言葉を信用してしまったのです。

警察の威信をかけた大規模捜査、気持ちとは裏腹に犯人検挙に難航

事件当初、犯人は年内には捕まるだろうと言われていました。

その理由は事件現場に残された白バイが関係しています。バイクにスプレーをかけ白くしたもので、白バイに装備されているパトランプや白スプレーを吹きかける際に下敷きとして使用されたであろう新聞の切れ端など、その数は100点以上もの遺留品が残されていました。

しかし、一向に犯人検挙には至らず時間だけが過ぎていきます。

そんな中、1969年4月にとある団地の駐車場にシートが被せられた放置車が見つかります。車内には空っぽになったジュラルミンケースが発見されました。

警視庁は大捜査を展開します。重要参考人リストに載った人数は実に11万人にも及び、捜査に投入された警察官は延べ17万1,346人、捜査費用は7年間で9億7,200万円以上が投じられたと言われています。

そして事件発生から7年後の1975年12月に時効を迎え、結果的に犯人検挙には至りませんでした。

捜査線状に浮かび上がる様々な容疑者と犯人像

警察は犯人検挙に向け捜査を開始。その中で「単独犯説」や「複数犯説」など様々な憶測が飛び交います。

少年Sの自殺と「警官の息子犯人説」

まず捜査線状に浮かび上がったのは少年S。彼は当時19歳で、不良集団「立川グループ」に在籍していました。

車やバイクなどの盗難や恐喝などを繰り返していたことから、三億円事件の重要参考人として浮上したのです。さらに事件当日のアリバイがなく、立川グループに所属していた仲間がダイナマイトに模した発煙筒を使用し強盗していたことなども理由として挙げられます。

さらに少年Sの父親が警視庁の警察官で白バイ隊員だったのです。

警察上層部では、確実な裏取りができるまでは動かないように取り決められていました。しかし、現場の末端まで周知ができておらず、1969年12月15日に確証がないまま立川署の刑事2人が少年Sの実家を訪問します。

その場は母親が対応し、少年Sは不在とのことで警察は引き下がることに。

翌日、話は急展開を迎えます。少年Sが自宅にあったネズミ駆除で使用するための青酸カリを服用し自殺してしまうのです。不可解な点は、現場に遺書が残されていましたが、青酸カリには少年Sの指紋は一切検出されませんでした。

その後、お通夜が執り行われ、その場に現金輸送車に乗車していた銀行員4人が知り合いのふりをして参列します。

そこで銀行員に少年Sの顔を確認させたところ、犯行に及んだ白バイ隊員に酷似していると証言。

事件から11日後の12月21日、警察は犯人のモンタージュ写真を公表しました。しかし、後に明らかになったことですが、これは通常のモンタージュ写真のように顔のパーツを部分的につなげて作成されたものではありませんでした。

事件直後に容疑者として浮上した人物が犯人に似ているという銀行員4人の証言を根拠として、少年Sの顔写真をそのまま無断で用いたものだったのです。

このモンタージュ写真は各種メディアが報じ、現在に至るまで「犯人の顔」として知られています。しかし、後の調査では目撃証言自体にも一貫性がなく、銀行員らが不確かな証言をしていた可能性が指摘されました。

少年Sが犯人ということで幕を閉じる方向で進んでいましたが、三億円事件を統括する平塚八兵衛刑事だけは犯人は別にいると断言。

その理由は、1968年4月から8月にかけて多磨農協に爆破予告などの脅迫状が届く事件が関係しています。

結果的に、何も起きずイタズラとして処理されましたが、農協の給与が日本信託銀行国分寺支店から毎回送られていました。

あくまでも仮説ではあるものの、犯人は農協に脅迫状を送ることで、警察や現金輸送車がどのように動くのか確認していたのではと言われています。

しかし、この時期の少年Sは鑑別所におり、脅迫状を送ることはできない状態だったのです。そのため平塚八兵衛は少年Sは犯人ではなく、他に存在するという見解でした。

真相は闇の中ですが、警察は最終的に少年Sを「シロ」と断定することになります。

唯一、警察が手を出せない米軍基地を利用した複数犯説

事件当時から警察は複数犯の可能性を視野に入れて捜査を進めていました。

三億円もの大金を隠すには相応の場所が必要です。特に日本の警察権が及ばない場所として米軍基地が犯人たちの隠れ家として浮上しました。

そこで犯人説として疑いをかけられたのが、「ジョー」という人物。

彼はアメリカ兵の父と日本人の母の間に生まれ、立川グループのリーダー的存在でした。

捜査線上には、このジョーを中心とする3人組の共謀説が浮上しています。ジョーを慕う「ロク」と呼ばれる人物は車両操縦の達人として知られ、もう一人の通称「先生」はジョーの父親と密輸・密売のつながりがある人物でした。

先生は元白バイ隊員であり、警察官の制服を入手できる立場にありました。さらに先生の家族関係にも注目すべき点があります。

彼の父親は東芝府中工場に勤務していました。また妹は銀行員でしたが、あらぬ疑いをかけられ、退職に追い込まれた末に自殺したとされています。この悲劇が銀行への強い恨みを抱かせたと言われています。

この3人が結託して強奪した三億円を米軍基地に一時的に隠し、その後海外でマネーロンダリングを行ったという説が、事件の有力な犯行シナリオとして囁かれています。

一人の女性が告白した複数犯説

複数犯説にはもうひとつ存在します。

とある良家の兄妹が捜査線状に浮上しました。この家族は父親が死別したことをきっかけに、母親が兄だけを連れて家を出てしまいます。

残された妹は親戚中にたらい回しにあい、居場所がありませんでした。

そんな時に兄から連絡がきます。その内容は、困ったことがあれば新宿のとあるジャズ喫茶を訪ねるようにというものでした。

居場所を求めてい少女は、指定された新宿のジャズ喫茶を訪問します。そこには不良グループと共に兄の姿がありましたが、兄妹関係は伏せたままグループに加わることになりました。

喫茶店に通ううち、少女はグループの一員である現役東大生の青年と出会います。彼女は次第にこの青年に恋心を抱くようになりました。

また、グループを通じて知り合ったバイク屋の男性から、無免許ながらもバイクや自動車の運転技術を教わる関係に。彼女にとってその体験は非常に嬉しいもので、初めて自分の生き甲斐を感じます。

ある日に東大生の青年から日本を変えるために現金輸送車を襲撃することを告げられ、手伝ってもらうようにお願いをされます。

人生で初めて必要とされる喜びと、青年への恋心から、彼女はこの計画に加担することを承諾します。こうして青年、少女、バイク屋の三人は入念に計画を練り、犯行に及んだと言われています。

青年の父は当時の大臣を務めており、犯行後に青年から盗んだ現金と一通の手紙を永田町に送付しました。

手紙には国会議員総辞職を要求し、約束を破れば犯人は自分だということを公表するという内容でした。その後、青年は呼び出され監視下に置かれたまま海外へ飛ばされます。

この情報はメディアはもちろん、警察にも公表されることなく月日が経ちます。

海外に渡った青年は少女と手紙のやり取りを続けていましたが、ある日を境に消息が経ってしまいます。

この出来事を、時効後に当事者とされる少女本人が本を執筆し発表。

文中には青年への思いが綴られ、彼が自分にとっての初恋だったことが記されています。この物語は中原みすず氏の著作として知られ、後に映画化もされました。

三億円事件の実質の損害額は2万円程度

三億円事件で奪われた金額は2億9430万7500円。時効成立までの7年間で使われた捜査費用は約10億円と言われており、被害額の3倍以上の公費が使われたことになります。

この事件で直接的な被害を受けたのは東芝の社員への冬季賞与でしたが、東芝側は保険に加入していたため、事件翌日には全社員にボーナスが予定通り支給されました。実質的な損害額は、保険料と現金を入れる茶封筒代のみ、約2万円程度だったと言われています。

また三多摩地区に住む学生を対象としたローラー作戦が実施され、被疑者として取り調べを受けた人数は十数万人に及んだとされています。しかし、こうした大規模捜査の背景には、当時盛り上がりを見せていた学生運動の摘発を目的とする強引な捜査の口実として、事件自体が利用された可能性を指摘する見方も存在します。

結果的に事件は解決されることなく、1975年12月に時効を迎えることに。

この事件は日本社会に大きな変革をもたらしました。企業での給与やボーナスの支給方法が根本から見直され、それまで一般的だった現金での直接支給から、各従業員が登録する金融機関の口座への振込方式が主流となりました。

さらに、現金輸送の安全対策も大きく見直され、専門的な訓練を受けた警備会社の警備員による現金輸送警備の標準化が進みました。こうした変化は、三億円事件が日本の金融・警備システムの近代化を促進するきっかけとなったと言えるでしょう。

結びに

時効成立から半世紀近くが経過した今日でも、三億円事件は日本の未解決事件として人々の記憶に残り続けています。犯人は誰だったのか、そして三億円はどこに消えたのか。

その謎は誰も知る由はありません。

三億円事件は、その大胆な手口と完全犯罪としての成功。そして捜査における問題点や、単なる犯罪事件としてだけではなく、昭和という時代を象徴する社会現象としての側面もあります。

現代の高度な科学捜査技術があれば解決できたのか、それとも犯人の緻密な計画性がそれをも上回っていたのか。

日本犯罪史上最も謎めいた事件として語り継がれる三億円事件。その全貌が明らかになる日は訪れるのでしょうか。半世紀の時を経た今、その真相を知るのは、犯人だけなのかもしれません。

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Kazuya Nakagawa