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  • Kentaro Matsuoka

黙考と音 – 6月「酔狂」

理にかなわず、見返りもなく、誰かの称賛を得るわけでもない。

にもかかわらず、ある人がある行為に魅せられ、深くのめり込んでいく。その姿を、私たちはときに「酔狂だ」と呼びます。

この言葉は、「酔い」と「狂い」という、どちらも理性を逸脱した状態を組み合わせた表現です。

ですが、単なる酒や狂気ではありません。そこには「好きなことに、わけもなく夢中になる」という、なんだか前向きな響きがあります。

酔いという裂け目、狂うという安渡、無意味の中の自由、逸脱の中の創造。

酔狂ってなんでしょう。

文化の周縁に咲き続ける「酔狂さ」

人類の文化史をひもとけば、酔狂さはつねに「まじめな世界」の外側でひっそりと在り続けていました。

中国の古典『荘子』山木篇においては役に立たない大樹が語られます。材として使えず、切り倒されることもないために、長くそこに生き延びている。そんな樹の在り方を、荘子は「無用の用」として称賛しました。

また日本の中世には、一見無駄に思える芸能や遊戯が「風流」として愛でる文化がありました。

茶の湯、香道、連歌、能。

これらは効率や即物性から遠く離れた存在でありながら、人間の精神の深層を静かに耕してきました。

そして現代の世界にもまだ酔狂な人々はいます。

膨大な量の本を読み知をまとめる編集者、ただひたすらに歩くYouTuber、時代に抗うように自分たちの好きなことばかり発信する企業(私たちのことかもしれません)。

そのどれもが、「すぐには社会の役に立たないけれど、人間を深く肯定する」営みだと思うのです。

「逸脱」の価値、無意味を生きること

哲学者たちもまた、酔狂という領域に多くのヒントを見出してきました。

ハンナ・アーレントは、「活動」の外側にある「思索」こそが、真の自由であると述べました。それは、社会の役に立つかどうかではなく、ただ存在することの意味を考え続ける態度です。

またミシェル・フーコーは、社会の規範から逸脱する者を「狂人」と呼ぶ文化のあり方に注目し、その狂気の中に別の知があることを示しました。狂気とは、単なる逸脱ではなく、社会の秩序を問い直すための鏡であり、批評なのだと。

酔狂もまた、そうした秩序外の知のひとつだと言えるでしょう。

それは、わかりやすさや成果主義ではすくい取れない「深層の声」に耳を傾ける行為です。

私たちは、なぜ酔狂さに惹かれるのでしょうか。

おそらくそれは、酔狂が「不確かさ」を引き受けているからだと思います。

何の役にも立たないかもしれない。意味もなく、誰にも評価されないかもしれない。

けれど、それでもやってしまう。

そうした行為には、私たちが忘れかけていた「人間らしさ」が、静かに宿っているように感じます。

そしてその不確かさの中から、ときに美しいものが、世界にそっと差し出されます。

結果として、酔狂な行為が誰かの心を救ったり、時代を超えて価値を持つこともあります。けれど、そうなるかどうかは二の次なのです。

この混迷の時代に希望があるとすれば、酔狂はひとつの希望であるように思います。

不確実性を避け、効率や論理が幅を利かせる社会において、酔狂は「逸れてもいい」「報われなくてもいい」という、優しい場所を与えてくれます。

それは、人生にとっての余白であり、遊びであり、祈りのようなものです。

酔狂に生きる人は、まるで夜空にぽつりと浮かぶ星のように静かに明かりを灯しています。誰かがそれを見上げるかどうかはわかりません。

でも、灯し続けることそれ自体が、すでにひとつの価値なのだと最近は思います。

私たちはときどき、それらに触れることで、生きる意味をほんの少しだけ思い出すのかもしれません。

酔狂さとは無意味を生きる勇気のことなのかもしれませんね。

2025年6月のプレイリストを作りました

私は、誰かの酔狂さにどうしようもなく惹かれてしまいます。

華美で破滅的な妄想。無意味の中に宿る豊かさ。孤独や苦しみに、黙って向き合い続ける生き方。道を逸れてしまうことの、静かな美しさ。すでに壊れてしまった自分となおも向き合おうとする姿。ただ悲しみをなぞるような声。

そんな強く、優しく、悲しい生き方が生み出した響きに、今月は耳を澄ませてみようと思います。

このプレイリストの収録曲

  1. Ballade de Melody Nelson – Serge Gainsbourg
  2. Soul Eyes (Live) – Mal Waldron
  3. River Man – Nick Drake
  4. Wild Is The Wind – Nina Simone
  5. Here’s To Life – Shirley Horn
  6. Nantes – Barbara
  7. Ce Petit Chemin – Mireille
  8. Almost Blue – Chet Baker
  9. It Could Happen To You – Bud Powell
  10. Pots – Cecil Taylor
  11. Reflections – Thelonious Monk
  12. Que c’est triste Venise – Charles Aznavour

1. Ballade de Melody Nelson – Serge Gainsbourg

「酔狂」という言葉を思い浮かべたとき、真っ先に浮かんだのは、セルジュ・ゲンスブールの姿でした。

この作品では架空のロリータ的少女との恋をテーマに、語りと音楽が交錯する独特な構成が取られています。

70年代初頭にして、ここまで倒錯的でアンモラルな世界観を美しく仕上げた執念には、道徳よりも芸術を優先したゲンスブールの酔狂さが強く現れているように感じます。

批判を承知の上で美学を貫き続けたゲンスブールの生き方は、今なお音楽史において異端の輝きを放っています。

2. Soul Eyes(Live)– Mal Waldron

ビリー・ホリデイの晩年を支えたピアニスト、マル・ウォルドロン。後年には神経衰弱によって活動を一時的に休止していました。

その後、奇跡的に復帰し、言葉少なに紡がれるような内省的な音楽を作り続けました。この曲には、精神を病んでもなおピアノに向かい続けた自己回復と孤独への耽溺が刻まれているように感じられます。

あえて飾らず、感情の輪郭だけを残すような演奏は、酔狂というより狂気を手なずける祈りのようにも聴こえます。

3. River Man – Nick Drake

生前ほとんどメディアに登場せず、ライブも最小限に抑えていたニック・ドレイク。

この「River Man」も、プロモーションらしい活動をほとんど行わずに録音された楽曲で、その詩と旋律の奥には、社会との接続を拒み、自らの内面世界だけを信じた人間の孤高が感じられます。

特に評価が高まったのは彼の死後ですが、その音楽性には孤独な真実を選んだ酔狂さが色濃く刻まれています。

4. Wild Is The Wind – Nina Simone

公民権運動の象徴とも言われるニーナ・シモンは音楽的にも社会的にも徹底して妥協を拒んだ人物だったようです。

ステージ上で観客に怒鳴りつけることもしばしばあったシモンが、この曲では声を絞るように抑えつつも、燃えさかる情念を込めています。政治・芸術・生き方すべてにおいて、自らの直観と怒りだけを信じた生き様は狂気なのでしょうか、それとも美学なのでしょうか。

5. Here’s To Life – Shirley Horn

シャーリー・ホーンは遅いテンポの曲を自ら選び続け、レーベルとの契約解除すら辞さなかった歌手です(アップテンポの曲も一部あります)。

この曲は、そんな彼女が晩年にたどりついた「人生讃歌」であり、誰にも急かされず、自分の時間だけで音楽を生きた人物の結晶とも言えるのではないでしょうか。

テンポや間の取り方、言葉の数までもが独自のリズムを持っており、そこには「自分だけの美しさ」のために音楽を続けた孤高の響きがあります。

6. Nantes – Barbara

戦争、強制収容、父との確執といった個人史を背負いながら、それらを直接語らずに音楽へ昇華するという抑制された激情のアーティストの一曲を。「Nantes」は、かつて彼女の父が突然姿を消した街を舞台にした曲なようです。

「あなたが死んだと聞きました」という一節で始まるこの楽曲には、赦すでも罵倒するでもなく、ただ事実として受け止めるという不気味な静けさが広がっています。

赦しきれないまま、怒りきれないまま、それでも生きていくということ。そのどうしようもなさに人生というものの底知れなさが滲んでいるように感じられる一曲です。

7. Ce Petit Chemin – Mireille

1930〜50年代に活躍したフランスの女性シャンソン歌手であり作曲家です。

この曲は、恋人と歩いた「小道」への郷愁を歌ったものですが、そのメロディには一切のドラマ性や起伏を持たせず、さりげなく記憶を差し出すような美しさがあります。

派手さを避け、ごく私的な感情の揺れを歌にするという反・舞台的姿勢は、娯楽を求める時代に逆行するかのような意志を感じます。

8. Almost Blue – Chet Baker

チェット・ベイカーはトランペッターとして華やかにデビューした後、薬物依存や暴力沙汰、失踪といったスキャンダルに満ちた退廃的な人生を送りました。

晩年、顔が腫れ、歯も失いながら、それでもこの曲のように壊れた声で愛を囁き続けた彼の姿には、ただならぬ説得力があります。技術ではなく、脆さそのものを表現とした酔狂が込められているような気がするのです。傷ついた者だけが歌える、哀しみと赦しの濁った美しさを感じます。

9. It Could Happen To You – Bud Powell

バド・パウエルはビバップ期を代表する天才ピアニストの一人ですが、長年の精神疾患と薬物治療の副作用に苦しみながら、数々の録音を残しました。

この曲では、その明快で流麗なプレイの背後に、「一度壊れてしまった人間の壊れる前」を思い出すような演奏が感じられます。

再起を信じるでもなく、すべてを絶望に染めるでもなく、ただ音を弾く。私にはこの曲が音楽というよりも、存在の名残としての音のように思えるのです。

10. Pots – Cecil Taylor

セシル・テイラーは、ジャズの常識を根底から揺さぶった特異な即興演奏家です。

形式やリズムといった枠組みを解体し、ピアノを「打撃」と「身体運動」の装置へと変えていく。その演奏は、もはや音楽を奏でるというより、音楽になるという行為に近いものでした。

Potsは彼の作品群の中では比較的構成感のある一曲ですが、それでも一音一音に宿るのは、理屈ではない身体性と思想そのもの。セシル・テイラーというアーティストは、ジャンルに抗いながら、演奏の中で自己をまるごと変貌させていく「生粋の酔狂者」だと感じます。

11. Reflections – Thelonious Monk

セロニアス・モンクは、ピアニストとして「うまく弾くこと」よりも、「自分にしかできない音を出すこと」を突き詰めたアーティストです。

この曲では、シンプルな旋律と歪な和音が交互に現れ、まるで他人の会話を聞きながら、ひとりだけ別の物語を語っているような空間が立ち上がります。

本人は私生活でも非常に無口で孤独な人物だったようですが、そのぶん内側にある秩序や美を信じて疑わなかった静かな狂気が、鍵盤のすべてに宿っています。

12. Que c’est triste Venise – Charles Aznavour

最後はシャルル・アズナヴールの一曲を。

「Que c’est triste Venise」は、観光地・ヴェネツィアにおいて、一人だけが失恋の余韻に沈んでいるという、ドラマティックでありながら抑えられた美学が際立つバラードです。

過去を美化することも未来を信じることもせず、ただ「悲しい」という感情だけを正面から肯定するこの姿勢には、情緒と知性をあわせ持った静かな酔狂さが感じられます。

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Kentaro Matsuoka