今月、弊社が社会を眺める際のテーマとして選んだ言葉、「敬虔」。
「敬虔」という言葉には、一見すると宗教的な響きが漂うように感じます。
しかしその本質は「自分を超えた崇高な存在を深く敬い、その前で謙虚な姿勢を保つ」という、人間の根源的な精神性を表すものだと思うのです。
古今東西、あらゆる文化や宗教において、人々は神や精霊、あるいは大自然そのものに対して畏怖や感謝の念を抱き、それを共有するための儀礼や祭礼を営んできました。
その根底には、人間が自らの力や理解をはるかに超える何かとつながりたい、またはそれを敬うことで自身の在り方を正していきたいという深い渇望があったのかもしれません。
こうした態度は、太古から多くの社会で秩序や結束を生む重要な要素とされてきましたが、同時に特定の宗教や権力の道具として利用され、排他や対立を生む原因にもなってきた複雑な歴史を持っています。
現代社会では、科学技術の飛躍的発展により、合理性や個人の自由が前例のないほど尊重されるようになりました。しかしながら、それによってすべての現象が説明し尽くされるわけではなく、私たちの心の奥底には今なお「自分を超える存在」や「完全には把握できない大いなる力」に対する畏怖や神秘への憧憬が静かに息づいていると思うのです。
むしろ情報過多と効率至上主義が支配する現代においては、自己も世界の有機的な一部であると感じられる「大いなるものとのつながり」が見失われがちにになっているのかもしれません。
だからこそ今、自己中心的な視点から一歩離れ、謙虚に学び、感謝の念を抱く姿勢、すなわち「敬虔」という態度が新たな意義を帯びて私たちの前に立ち現れてくるような、そんな気がしています。
「私たちは敬虔さを忘れてしまっていないだろうか?」
これが今月の趣旨です。
2025年4月のテーマ「敬虔」について
誰もが無意識に「なにか大きな存在」とつながりたいと願い、その方法を探しているような気がします。もしかすると時代を問わず、人は常にそうだったのかもしれませんね。
ルーマニアの宗教学者であるミルチャ・エリアーデは、この普遍的欲求が神話や宗教だけでなく、現代の芸術や文化の本質にも表れていると指摘しました。人間にとって「聖なるもの」は根源的な渇望であり、世俗化が進んでも人間の深層には「聖なるものを求める心」が脈々と息づいていると。
どれほど科学や技術が発展しても、人間は単に合理性だけでは満たされない深い精神性を宿しているようです。
なんだか人って不思議ですね。
宗教に明確に属さないこともある現代人であっても、壮大な自然や感動的な芸術の中に「畏怖と感謝の対象」を見いだし、そこで敬虔な態度を育んでいるのかもしれません。
むしろ多様性が増す現代だからこそ、敬虔のあり方も自由度を増し、様々な形で”聖性”との接点を見出せるのではないでしょうか。自分の力や理解を超えるものに対して謙虚に学び、感謝を抱く心は、宗教の有無を超えて人類共通の深遠な感覚に根ざしていると思います。
敬虔の本質を見つめるとき、単に「神や聖なるものを崇める」という宗教的な形式だけではなく、私たちが自分を超えた大いなる存在や力に対して抱く”畏怖”と”感謝”の感情が土台となっていることに気づかされます。
ここでいう”大いなる存在”とは、伝統的な神々や超越的な原理だけを指すのではありません。人々が心の奥で「自分の力や理解だけではどうにもならないもの」を感じるとき、それが自然現象であれ、先祖の遺産であれ、あるいは人間の意志を超える集合的な流れであれ、そこには敬虔の種が確かに宿っているのかもしれません。
人は本来、自らを取り巻く世界の壮大さを感じとり、その前で自分の小ささを知る存在です。
私は夕暮れに染まる空や夜空を見上げた瞬間、日常の悩みや小さな欲望が一瞬で相対化されるような感覚に包まれることがあります。敬虔という概念が人間にとって本質的に重要なのは、それが「自己を客観視する契機」となるからではないかと思うのです。
大いなる存在を意識し、自身の限界を知る。敬虔とはそんな謙虚な客観性を育んでくれる概念でもあるようです。
また、敬虔は”完全には理解しきれないものを理解しようとする意志”とも深く結びついています。
把握できない対象を前にしたとき、人は畏れを感じることもあれば、どうにかしてそれを知りたい、感じ取りたいと望むことがあります。世界の多くの宗教や哲学、さらには科学的探究ですら、この「知りたい」という本源的な欲求によって駆動されてきた側面があります。敬虔とは「そこには人智の及ばない何かがある」という前提を受け入れつつも、思考や感性を閉ざすのではなく、むしろ開いていくための姿勢なのでしょう。
だからこそ敬虔の真髄は「超越的な存在や力、あるいは未知なるものに対して抱く畏怖と感謝の念を、日々の生き方の中で具現化していくこと」にあるのかもしれません。
それは狭義の信仰心だけで測るべきものではなく、人が自らの限界を認識しつつ、それを超えた世界とのつながりを大切にするための根源的な姿勢だと思うのです。
古来より宗教的文脈で語られてきた敬虔という概念ですが、社会や技術がどれほど進歩しても、私たちが「自分以外の大いなる力」に心を開き、謙虚に学ぶ必要がある限り、敬虔は普遍的な価値を持ち続けるはずです。
敬虔とは人間が”世界と共に生きる”ための崇高な原動力だったのかもしれません。
2025年4月のプレイリストを作りました
自分の存在が、ただひとつの要素にすぎないという事実。それに気づかせてくれる敬虔という眼差し。
先人たちは、この敬虔の感覚を芸術や哲学、日々の暮らしの中で表現してきました。そこには競争や効率だけでは測れない、豊かで静謐な世界が広がっているように思えます。
今回はそんな「敬虔」という眼差しが育んだ、静かで美しい音を集めました。
このプレイリストの収録曲
- Prologue/Inside – Paul Horn
- Ave generosa – Hildegard von Bingen
- 12 S.558 Ave Maria – F.Schubert – F.Liszt
- PEACE PIECE – Richard Beirach
- Abide With Me – Thelonious Monk Septet
- Wade In The Water – The Fisk Jubilee Singers
- Come Sunday – Duke Ellington
- Journey In Satchidananda – Alice Coltrane
- A Love Supreme, Pt. I – Acknowledgment – John Coltrane
- Hare Jaya Jaya Rama II – Laraaji
今回選んだ音楽たちについての小話
1. Prologue/Inside – Paul Horn
カナダ出身のフルート奏者ポール・ホーンは、トランセンデンタル瞑想(TM)など東洋の精神世界に傾倒し、宗教的・瞑想的空間を探求する先駆的なミュージシャンでした。アルバム『Inside』はインドのタージ・マハル内部で深夜に録音された即興演奏を収録したもので、演奏と空間の残響が一体となり「神聖な場所に身を委ねる」瞑想的体験をそのまま音にしています。イスラム文化の霊廟であるタージ・マハルでの録音は、ホーン自身がその神秘性・聖性を体感しながら行ったもので、音楽による敬虔な祈りともいえる作品です。
2. Ave generosa – Hildegard von Bingen
12世紀のラインラント地方(現在のドイツ)で活躍したヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、ベネディクト会の修道院長(修道女)であり神学者・幻視者でもありました。
彼女が残した聖歌はすべて、神との深い交感や黙想の中で得た神聖なインスピレーションから生まれたもので、”Ave Generosa”もまた聖母マリアへの崇敬と深い信仰心を表現した荘厳な作品です。その旋律線は中世の音楽としては異例の広い音域と独創的な跳躍を特徴とし、天上界と地上の架け橋を感じさせるかのような神秘的な響きを持っています。
3. 12 S.558 Ave Maria – F.Schubert – F.Liszt
シューベルトの歌曲をピアノ独奏用に編曲した『12 Lieder von Franz Schubert, S.558』の第12曲目、”Ave Maria”。
ピアノの魔術師リストの編曲ながら、華やかな超絶技巧は控えめに、終始繊細で牧歌的な旋律が続きます。中音域はまるでテノール歌手のように雄弁に歌い上げ、高音域と低音域ではヴェールのようなコード伴奏が響き、まるで3本の手で弾いているかのような演奏効果を生み出しています。
まるで大聖堂の窓から差し込む光を眺めているかのような、静謐さと崇高さを湛えた名編曲です。
4. PEACE PIECE – Richard Beirach
リッチー・バイラークによるビル・エヴァンスへの追悼アルバム『Elegy for Bill Evans』から”Peace Piece”を。ビル・エバンスの名曲をバイラークが自身の解釈で再構築した作品です。
原曲のもつ瞑想的な雰囲気を保ちながらも、リッチー特有の繊細なタッチと和声感覚が光ります。師への敬意を感じさせる牧歌的な左手のオスティナートの中に、独特の静謐な旋律が漂い、まるで印象派の絵画のような音色の揺らめきが心に染み入ります。
5. Abide With Me – Thelonious Monk Septet
1957年録音の名盤『Monk’s Music』、その冒頭を飾るたった52秒の小品。
「わたしたちと一緒にお泊まりください。もう夕方になりましたし、日も傾いていますから」聖書のルカ福音書24章29節を基にした讃美歌”Abide with Me”を、セロニアス・モンクは4本のホーンセクションのために編曲しました。
レイ・コープランド、ギギ・グライス、コールマン・ホーキンス、ジョン・コルトレーンの4名が奏る、重厚かつ荘厳な和声は、アルバムのカーテンレイザーにしておくのが勿体無いほど贅沢です。
讃美歌という伝統への敬意と革新への意欲、モンクの音楽的感性を示す珠玉の52秒を。
6. Wade In The Water – The Fisk Jubilee Singers
1871年に結成された黒人霊歌グループ、フィスク・ジュビリー・シンガーズによる「Wade in the Water」。
Wade in the water.(水の中を進みなさい)
Wade in the water, children.(水の中を進みなさい、子供たち)
Wade in the water.(水の中を進みなさい)
God’s gonna trouble the water.(神が水を乱してくれることでしょう)
表面上は旧約聖書の物語を歌うゴスペルですが、その歌詞に隠されているのは、「足跡の匂いを嗅ぎつけて猟犬(主人)に追われることがないように、水の中を進みなさい」という奴隷解放へのメッセージ。
彼らの歌う力強いハーモニーと簡素ながらも深い精神性を湛えたメロディは、抑圧された人々の苦しみと希望、そして自由への憧れを表現しているのかもしれません。
7. Come Sunday – Duke Ellington
デューク・エリントンは敬虔なプロテスタントであり、生涯にわたり数多くの宗教的作品を情熱的に手がけました。
“Come Sunday”は彼の組曲『Black, Brown and Beige』の一部として書かれ、黒人霊歌の伝統を受け継ぐ荘厳なメロディによって「神聖な日曜日と神への讃美」が深い情感をもって表現されています。
この曲には、アフリカ系アメリカ人の苦難の歴史と、それを支えてきた揺るぎない信仰心が静かに込められています。祈りの日曜日を待ち望む心、神の恩寵への感謝、そして魂の救済への希求が、エリントンならではの洗練されたハーモニーと共に描かれています。
後年エリントンは「Sacred Concerts(聖コンサート)」という教会音楽公演シリーズも手がけ、ジャズと宗教音楽の融合という新たな表現を追求しました。その根底には常に、芸術を通して神への敬意を表したいという彼の純粋な信仰心が息づいています。
8. Journey In Satchidananda – Alice Coltrane
アリス・コルトレーンは、伝説的なジャズ奏者である夫、ジョン・コルトレーンの死後、東洋の精神世界へと深く傾倒し、ヒンドゥー教の一派であるヴェーダーンタ哲学に帰依して、やがてスワミ(導師)としても活動しました。
“Journey in Satchidananda”は、ヨーガ哲学で説かれる「真実(Sat)・意識(Chit)・至福(Ananda)」の三位一体への魂の旅を音楽で表現したアルバムです。ジャズの即興性と東洋の瞑想的精神性が見事に融合した唯一無二の作品と言ってもいいかもしれません。
彼女の深い精神的探求と神聖なるものへの敬虔な姿勢が音そのものとなって宿っており、日常の喧騒を離れ、内なる平安と静謐な意識の高みへと導かれていくような響きを感じます。
9. A Love Supreme, Pt. I – Acknowledgment – John Coltrane
ジョン・コルトレーンは1957年、薬物とアルコール中毒による破滅の淵から脱したあと、霊的な啓示体験をしたとされています。
彼はこの体験を「神の恩寵によって第二の人生を与えられた」と捉え、その感謝の気持ちを音楽に託すことを誓いました。
名アルバム『A Love Supreme』はその“誓いの証”として生まれた作品であり、彼自身の言葉で言えば、「神への捧げもの」そのものです。
コルトレーンは録音前夜、部屋にこもって祈りと瞑想を行い、翌朝はいつものようなジャズセッションではなく、「神との対話のための演奏」を望んでスタジオ入りしたと伝えられています。共演したピアニスト、マッコイ・タイナーは、のちに「あの演奏は、単なる音楽ではなかった。祈りだった」と述べていたようです。
10. Hare Jaya Jaya Rama II – Laraaji
プレイリストの最後は、Laraajiが東洋の精神文化に深く帰依した後に生まれた、祈りそのもののような作品を。
彼は1970年代後半、瞑想とヨガの実践を通してインド哲学に傾倒し、導師から「Laraaji」の名を授かりました。この曲で繰り返される「Hare Jaya Jaya Rama(ハレ・ジャヤ・ジャヤ・ラーマ)」は、ヒンドゥー教の神ラーマを讃えるマントラであり、それを唱える行為自体が神への帰依と感謝を意味しています。
Laraajiにとって音楽は、自己表現ではなく神とつながるための手段であり、この曲でもその精神が全編にわたって貫かれています。
微笑むような声とハープの明るい共鳴が、内なる静けさと祝福を呼び起こすかのようです。
宗教の枠を超え、存在の深部へと降りていくようなこの作品は、敬虔という態度が本来持つ「自己を超えた何かへのまなざし」を、音楽を通して優しく体現しているように感じます。